■天翔る想い

【ご来訪ありがとう2008 大リクエスト大会】
らいむさま からのリクエスト/仕事に時間を取られる中、相手に思いを馳せる二人

 朝、千尋が目覚めると、広い寝台の半分は今日も使われた形跡が見られなかった。
 はぁ、と溜息を吐いて、
「……身体壊しちゃうよ、アシュヴィン…」
 しばらく姿すら見ていない夫の名を呼ぶ。
 何事も壊れるのは一瞬のことだが、作り上げるには時間がかかるもの。
 今では緑が芽吹いてきたとはいえ、荒れ果てていた常世の国の復興は一朝一夕にできるものではなく。
 ひとつ対処すればすぐに別の問題が湧いてきて、その対処に忙殺され。
 だが彼女の夫ひとりが仕事に追われているわけではない。
 千尋自身もゆうべ床に就いたのは真夜中をずいぶん過ぎた頃で、それも彼女の身体を案じた女官たちに無理矢理寝台に押し込まれたようなものだ。
 今日も慰問を兼ねた視察に出かけ、一刻も早い問題解決に奔走せねばならない。
 義理の兄弟たちも似たような状況だろう。
 それほど今の常世の国は片付けねばならない多くの問題を抱えているのである。

 朝もやの残る早朝のまだひんやりした空気をすぅっと吸い込めば、きりりと身が引き締まった。
「── それでは出発しましょう」
 千尋は数日間の旅支度をした臣下たちに声をかけ、根宮を出る。
 まっすぐ伸びる宮門までの通路を歩いていると、まだ遥か先に小さく見える門の扉がギギギと重い音を立てて開かれていく。
 自分たちを通すためにしてはタイミングが早すぎる。
 徐々に広くなっていく空間に見えた影、そこに向かって千尋は思わず駆け出していた。
 根宮のどこかでわずかばかりの仮眠を取っているのだろうと思っていた夫が、数人の従者を引き連れ外から戻ってきたのだ。
「── アシュヴィンっ!」
「千尋? ……やけに早いんだな」
 体当たりに近い勢いで飛び込んで来た千尋を受け止めて、アシュヴィンは疲労の滲んだ顔に笑みを乗せる。 かけがえのない半身との久々の再会ではあったが、そこは臣下たちの目もあって抱き締め合うのは諦めて、お互いの肘のあたりを掴むに留めた。
「ねえ、こんな朝早くに何かあったの?」
「大したことはない、ちょっとした小競り合い── 気持ちに余裕が生まれると、己の利に走る者が出てくるものだ」
「何か奪い合いになったとか?」
「ああ、物資の配分と管理体制を見直さねばならん」
 二人が話している間に気を利かせた臣下たち。主の横を静かに通り過ぎ、千尋と行動を共にする者たちは先に門の外へ出て、 アシュヴィンと共に戻ってきた者たちは既に根宮へと戻っていった。
 そんな臣下たちの気配を読み取っていたアシュヴィンは苦笑を浮かべ、不安げに眉をひそめる愛しい妻の唇をすばやく奪う── ほんの一瞬、触れるだけだったが。
「── 長話をしていられる状況でもなさそうだな……ほら、行ってこい」
 真っ赤になって目をぱちくりしている千尋の頬をそっと撫で、アシュヴィンは身体をずらして彼女の背中を門の方へ向けてとん、と押す。
 千尋は泣きたくなった。
 自分たちはいわゆる『新婚さん』だというのに、二人で過ごす甘くゆったりとした時間を持ったことがほとんどないのだから。
 できることなら、いつも傍にいたいのに──
「そんな顔をするな。早く行け」
 バサリ、マントを翻して宮のほうへと歩き出すアシュヴィン。
「── アシュヴィン、ちゃんと休んでね!」
 歩みも止めず、振り返らぬまま片手を上げてそれに応え。
 ── そうだ、まずは国の復興なのだ。
 国が豊かさを取り戻し、民が幸せになること── それが国を率いる者の幸せ。
 個人的な幸せはその後で。
 千尋はきゅっと唇を引き結んで顔を上げ、踵を返して臣下たちが待つ門へと駆け出した。

 数日後。
 アシュヴィンの苛立ちは最高潮に達していた。
 まずは国の復興だ、と妻の顔を見るほんの少しの時間すら惜しんで一心不乱に働く日々。
 確かに処理せねばならない事柄は砂浜の砂粒の数ほどあるが、果たしてそれをただこなすだけでいいのだろうか。
 そんな疑問が湧き起こったのは、早朝の宮門で出かけていく千尋と会ってからである。
 決して彼女の存在を忘れていたのではない。
 彼女の動向はだいたい把握しているし、彼女が中心になって動いている計画の報告書で見事な活躍をしていることも知っている。
 だが次から次へと持ち込まれる仕事で身動きが取れないのだ。
 そう、アシュヴィンはただ千尋に会いたいのである。
 先日だって想いを振り切るように背を向けたものの、引き返して彼女を抱き締めようと何度思ったことか。
「── お茶をお淹れしましょうか?」
 執務机で睨み付けていた竹簡から目を上げると、竹簡の山を抱えたリブが穏やかな笑みを浮かべていた。
「……いや、今はいい」
「お疲れなら少し休まれては?」
「……そんなに疲れているように見えるか?」
「はい、体力的にというより精神的に、と言いますか」
「そうか……」
 精神的に疲れている、というよりも、心が『千尋』を求めているのだ。渇望している、と言ってもいい。
 許されるならば、片時も傍を離れたくはないというのに──
 アシュヴィンは思わず苦笑する。
「ここにおられては気が休まらないでしょうが、幽宮も岩砦もすぐにお使いになれるよう整えてあります。妃殿下とご一緒にご静養なさっては?」
「そうだな……考えておく」
 アシュヴィンは思いを断ち切るように目の前の竹簡へ意識を戻した。
 その時、扉をノックする音。
 リブが扉を開けると、一人の文官が姿を現した。
「失礼いたします。明日謁見予定の高志よりの使者、都合により到着が一日遅れるとの知らせがございました」
「わかった、報告ご苦労」
 文官は恭しく頭を下げ、部屋を辞していった。
「……明日の予定が空いてしまいましたね。そういえば妃殿下は今朝には訪問先を発たれて、夕方にはこちらにお戻りに──おや?」
 リブが扉を開けるために一旦置いた竹簡の山を抱え上げた時、聞こえたのはバタンと扉が閉まる音。
 振り返ると皇の席は空になっていた。

 根宮への道のりも残り半分というところに差し掛かった千尋たち。
 休憩がてら少し遅い昼食を済ませ、もうひと頑張り、と腰を上げた時、
「── おや? あれは……」
 背伸びをしながら空を仰いだ文官の一人が腕を天に伸ばしたままの格好でぽつりと呟いた。
 その声に同行中の全員が一斉に空を見上げる。
 雲ひとつない真っ青な空にぽつんとあった黒い点はみるみる大きくなって、ふわりと千尋たちの目の前に舞い降りた。
「あ…アシュヴィンっ !? 何かあったの !?」
 黒麒麟からひらりと降りたアシュヴィンは目を丸くしている千尋にニヤリと笑い、
「迎えに来た夫に、それはないだろう?」
 つかつかと歩み寄り、ひょいと彼女の華奢な身体を抱え上げた。
「俺とお前は明日まで休暇だ」
「え? えっ !?」
 有無を言わせず彼女を麒麟の背に乗せ、自分もその後ろに跨って。
「上に立つ者の心が豊かでなければ、国が豊かになれるはずもなかろう? ── 俺たちは幽宮にいるから邪魔をするな、とリブに伝えておけ」
 伝言を受けた臣下たちは皇とその妃の激務ぶりを知っているがゆえに、空高く舞い上がっていく仲睦まじい二人を嬉しそうに見送るのだった。

 幽宮に到着したアシュヴィンは人目がなくなった途端に千尋を潰れるほどに抱き締め、二人きりの甘いひとときを過ごした── かと思いきや、 残念ながら日々の疲労の蓄積のせいで翌朝まで爆睡することとなったのである。
 ただし、ぴたりと寄り添って、二人とも幸せそうな笑みを浮かべて。
 そしてその後、宮で働く者のための就労規則にある『定期的な休暇の付与』が皇族にも適用されることが追記されたという。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 天を翔けたのはアシュの煩悩(笑)
 ごめんなさい。微糖、ですね(汗)
 でも深読みするとちょっとニマニマしませんか?(笑)
 アシュさまの『千尋らぶ♥』を感じ取っていただければよいのですが…
 らいむさま、リクエストありがとうございました。

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【2009/01/14 up】