■ふぉ〜りんらぶ番外編 【2:なまえ】

 ここは常世の国・根宮の広い会議室。
 今後の復興策と対外政策についての長時間に渡る会議がやっと終わったところである。
「ふー、さすがに疲れたわねー」
 后妃・千尋がくるくると竹簡を丸めていた手を止め、首をこきこき回しながらしみじみと呟いた。
「部屋に戻ってお茶にしましょうか。 サティとシャニも時間があるなら一緒にどう?」
 会議に同席していた義理の兄と弟に微笑みながら問いかける。
「あ、美味しいお菓子があるんだ!  僕、持ってくるね!」
 シャニはぴょんと跳ねるように席を立ち、会議室からぞろぞろと出て行く文官たちを掻き分け飛び出していった。
 ナーサティヤはふっと口元に笑みを浮かべた。 元々口数の少ない男である彼の了承の意思表示らしい。
「じゃ、行きましょう」
 傍に控えていた書紀係の文官に巻き終えた竹簡を渡し、場所を移すことになった。

 短いけれど楽しいお茶の時間を過ごし、義理の兄弟たちを部屋から見送ってしまうと室内は急にしんと静まり返った。
 なぜなら、ずっと一緒にいる彼女の夫・アシュヴィンがやたらおとなしいのである。
 4人分の茶器が並んだままのテーブルの上に頬杖をついて、ぼんやりとしている。
 さっきもせっかくシャニが持ってきてくれたお菓子にも手をつけず、ただ黙ってちびちびとお茶を飲んでいた。
 多忙な日々で疲れも溜まっているだろうし、体調でも悪いのだろうか?
 心配になった千尋は彼の傍に立つと、体温の確認のため額に触れようと手を伸ばす。
 しかし、アシュヴィンはすっと身体を捩って、触れられるのを避けたのだ。
「アシュヴィン……?  どうかしたの?」
「……………」
 無言の彼はどうやらご機嫌ナナメらしい。
 会議中は時に変わったことはなかった、と思う。
 その後、彼が機嫌を損ねるようなことがあっただろうか、と千尋は必死に思い出そうとするのだが、これといって心当たりはなく。
 と。
「………なぜ、お前が『サティ』と呼ぶ?」
 チロッと尖った視線を送ってきたアシュヴィンがふいっと顔を背けた。
「え…?」
 アシュヴィンは兄・ナーサティヤのことを『サティ』と呼んでいる。
 ナーサティヤは弟・アシュヴィンのことを『アシュ』と呼ぶ。
 愛称で呼び合うなんて、本当に仲のいい兄弟なのだと微笑ましく思っていたのだが。
 ── まさか、兄を愛称で呼ぶのは自分ひとりでなければならないのに、なんて拗ねているとか?
 『ブラコン』という言葉が頭に過ぎり、千尋は思わず吹き出しそうになった。
「別に深い意味はないんだけど……『ナーサティヤ』ってちょっと長くて言いにくいし、今さら『お義兄様』なんて呼べないし、 いつもアシュヴィンが『サティ』って呼んでるのを聞いてたら、つい」
 実際、兄を呼ぶ時のアシュヴィンの声が耳に残ってしまっていて、つい口に出してしまってからは言い慣れてしまったのでそう呼んでいただけのこと。
 するとなぜか、アシュヴィンがほっとしたように表情を和らげた。
 ピン、と千尋の頭にひらめくものが。
「……もしかして、アシュヴィンも私に『アシュ』って呼んでほしかったりする?」
 図星だったのだろう。 う、と呻いてアシュヴィンが目を逸らした。 なんだか耳が赤い。
 愛称で呼ぶのが親密さを表しているのはどこの世界も同じなのだろう。
 けれど一国の皇ともあろう男がそんなことで拗ねていたとは── なんとも可愛いではないか。
 ぬいぐるみみたいにギューッと抱き潰してやりたいほどに愛おしさがこみ上げてくる。
 けれど。
 千尋はアシュヴィンの隣に腰を下ろし、彼と同じようにテーブルに肘をつき、ぐいっと身体を乗り出して背けた彼の顔を覗き込む。
「じゃあ『アシュ』って呼ぶから、私のことは『ちーちゃん』って呼んで♥」
「はぁっ !?」
 ガタンと椅子を揺らし、目を真ん丸にしているアシュヴィン。
 堪らず千尋は吹き出した。 よじれる腹を押さえ、目元の涙を拭いつつ。
 呼ばれたこともない愛称をつい思いつきで言ってみたけれど、彼に『ちーちゃん』なんて呼ばれたら、似合わなすぎて毎回鳥肌ものかもしれない。
「ね、呼べないでしょ?  あなたにとって私が『千尋』であるように、私にとってあなたは『アシュヴィン』だから」
 椅子からずり落ちそうになっていた身体を戻して座り直し、ごふごふと咳払いをして、
「ま、まあ、そう言われれば、そうかもしれんな…」
「でしょ?  それにね──」
 ここからが彼女が彼を愛称で呼ばない最大の理由。
「私ね、『アシュヴィン』っていう音の響きがとても好きなの。 だから、呼ぶ時は略さずにちゃんと呼びたいわ」
 他人からすれば取るに足らない理由だけれど、彼女にとっては譲れないこだわり。
「だからね、『アシュ』じゃなくて『アシュヴィン』って──」
 ── 呼んでもいいでしょ?
 最後まで言わせずに、アシュヴィンは自分の名を紡いでくれる彼女の唇を塞ぐ── 情熱的な彼にしてはいつになく優しい口づけで。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 キャラ崩壊もいいとこだなぁ…。
 アシュヴィンがやたらガキっぽい。
 ま、不遇の子供時代を過ごしたせいで千尋ちゃんの前でだけは子供返りしてるのかも。
 でも大人として、やることはやる(笑)

【2008/10/02 up】