■異文化交流のススメ
【お題】キスの詰め合わせ(by 恋したくなるお題さま)/10 薬指にキス
※このSSは「アシュヴィンの将来設計」の続きです。
頬を撫でる夜風の冷たさがアシュヴィンを膨れ上がった妄想から現実へと連れ戻し。
堅庭に佇む彼は新妻の機嫌を損ねてしまったことに、遅ればせながら気がついた。
この政略結婚は、初対面の時に既に彼女を見初めていたアシュヴィンにとっては『瓢箪から駒』あるいは『棚からぼたもち』な幸運であったが、彼女にとってはそうではなかったことはわかっている。
けれど彼女の不機嫌はそれだけではないような。
一体何が彼女の怒りの導火線に火をつけてしまったのか、彼にはわかっていない。
もちろん、原因は彼の一方的先走り発言だったのは明白なのだが。
しかし、彼女が不機嫌なままではこの先の結婚生活はお先真っ暗である。
何より、目の前の戦いに向けての今後の計画に差し障りが出てもまずい。
最後に彼女が放った意味不明な言葉のことも気になるし。
さてどうするか、と腕組みをして考え込んでいたアシュヴィンはふと思いついて、マントを翻し船内へと戻っていった。
* * * * *
翻弄されっ放しの一日にくたびれ、これからのことを考えるにも疲れ果てた千尋は、倒れ込むようにして寝床へ転がった。
身体は休息を欲しているし、瞼もゆるゆると落ちてくるというのに、頭の中だけはやけに冴えている。
考えまいと思っても知らず浮かんでくる今日一日の出来事。
朝から采女たちに着せ替え人形の如くわらわらと着付けをされ、虚ろな心のまま結婚式の参列者たちの目に晒されて。そしてついさっき──
ピキン、と千尋のこめかみに青筋が立つ。
「………なぁにが『頑張ろうな』、よぉぉぉっ!」
思わず口に出た言葉が闇の中で思いがけず響いて、千尋は慌てて上掛けを頭までかぶった。
つい最近までの5年間を異世界で過ごした千尋には、おぼろげながら『理想の結婚』というものがあった。
素敵な人と恋に落ちて、互いの気持ちを育んでいき、結婚が決まれば二人であれこれ話し合いながら準備をして、そして純白のドレスに身を包み、皆に祝福されて将来を誓う──
そんなささやかな理想が。
それなのに、想いを交わしたわけでもない仮初めの夫からいきなり『子作り頑張ろうな(意訳)』と笑顔で言われれば、彼女の怒りももっともなこと。
かあっと頭に血が上り、全身にじわりと嫌な汗をかく。
息苦しくなってきて、すっぽり被っていた上掛けを跳ね除けると、千尋は少し頭を冷やそうと露台(テラス)に向かった。
降り注ぐ青白い月の光とゆったりと吹き抜ける冷たい夜風を浴びて、ぼんやりと星空を見上げる。
どれくらいそうしていただろうか、ふいに扉がカツカツとノックされ、千尋は我に返ったように振り返った。
もう一度ノックの音が聞こえ、千尋はおずおずと扉に近づく。
「……はい」
「── 遅くに悪いが、少し話がしたい。
入ってもかまわないか?」
「え…?」
聞こえた声は、彼女の怒りの根源・アシュヴィンのものだった。
彼の言う通りこんな遅い時間に何の用かは知らないが、日頃の尊大な態度とは裏腹な遠慮がちな声に、思わず笑ってしまいそうになる。
もし既に寝入ってしまっていて返事すらしなかったなら彼はどうしただろうと思えば尚更可笑しい。
「……あ、ちょっと待って」
彼を待たせたまま、一人で笑っているわけにもいかないだろう。
千尋は油の入った皿に糸を寄り合わせた芯を浮かべただけの簡素な照明器具に火を入れると、
夜着の上に上着を羽織ってそっと扉を開けた。
「………何か、用?」
千尋の問いかけがほんの少し喧嘩腰になってしまったのは、堅庭でのやり取りの余韻と、目の前にいる彼の表情のせい。
殊勝な顔をしているのかと思いきや、彼は腹を立てているのか少し赤い顔を不機嫌そうに歪めていたのだ。
「……話がしたいと言っただろう───
入らせてもらうぞ」
アシュヴィンは戸口にいる千尋を押しのけて部屋に入ると、調度や寝具などには目もくれず、部屋を突っ切って露台へ向かっていった。
「えっ、ちょ、な、何っ !?」
羽織った上着の胸元をかき寄せ、千尋は彼の後を追った。
部屋ひとつ分ほどある広い露台のほぼ中央。
あえかな月の光の中、アシュヴィンがおもむろに振り返った。
「── 千尋、手を出せ」
「……え?
手…?」
拒否は許さないと言わんばかりの真剣な眼差しに、千尋は首を傾げながらも手のひらを上にした両手をおずおずと差し出した。
いわゆる、物をもらう時のポーズである。
ふっと少しだけ表情を緩めたアシュヴィンは、彼女の左手を取ってくるりと反転させ、指先を掴んで持ち上げた。
彼女の手はそのままアシュヴィンの口元に運ばれていく。
「えっ !?」
千尋は咄嗟に手を引っ込めようとしたが、やんわりと握られていると思ったアシュヴィンの手は意外にもしっかり掴まれていて、逃げることはできなかった。
そして、彼は千尋の手の甲に──
正確には薬指の付け根辺りにそっと唇を寄せたのだ。
「あ、あ、あ、アシュヴィンっ !?」
思わずひっくり返ってしまう千尋の声。
「お前の知る結婚とは、この指を飾る指輪を贈り合い、未来を誓うものなのだろう?」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、千尋の手から唇を離さぬままアシュヴィンは言の葉を紡ぐ。
「そ、そうだけどっ!」
「ならば、全てが終わったら指輪を用意しよう。
それまでは不本意かもしれんが──
笑っていろ」
「え…?」
「疑われでもすれば結婚の意味がない。
お前が笑って俺の傍にいれば、おのずと道は拓けるさ」
それだけ言うと、アシュヴィンはもう一度千尋の薬指に唇を強く押し当て、それから彼女の手を解放した。
バサリ。
マントを翻し、来た時と同じようにツカツカと部屋を横切り、扉を出て行った。
一人残された千尋は、彼の唇の感触の残る左手を抱え、呆然と立ち尽くしていた。
「……………ふ……ふふっ」
笑いがこみ上げてくる。
戦の勝利のために仮初めの夫となった男は、意外にも多少なりと自分に好意を寄せているらしい。
そうでなければ、戦が終わった後の約束なんてするはずもないのだから。
そして彼女もまた、手とはいえ口付けられて嫌とは感じない程度に彼のことを憎からず思っているらしいのだ。
それどころか、なんだか嬉しくて、戦の終わりが待ち遠しくなってくる。
ふわり、と笹百合の花が匂い立ったような気がした。
「必ず……勝とうね」
千尋は自分の左手を愛おしそうに胸元で抱きしめた。
* * * * *
【おまけ】
アシュヴィンが千尋の部屋を訪れるより少し前。
堅庭を後にした彼は、彼女を最もよく知るであろう人物を訪ねていた。
「風早、ひとつ訊ねたい」
「なんでしょう?」
「『エロ皇子』とはどういう意味だ?」
その途端、同じ部屋でお茶を啜っていた那岐がぶはっと吹き出した。
ちなみにここは楼台、作戦会議中だったのか主要メンバーがほとんど揃っているのだが、アシュヴィンが発した問いに反応できたのは異世界生活経験のある那岐と風早のみ。
実際、風早も那岐に手拭いを渡しながら苦笑している。
「そんな言葉、どこで覚えてきたんだよ。
僕と風早はずっとここにいたんだから……残るは千尋か。
何やらかしたんだよ、セクハラか?」
途中ゲホゲホとむせながら、那岐が囃し立てた。
彼にしては珍しく大笑いしながら。
ムカッ。
大笑いされたことと、またも意味のわからない言葉が出てきたことにアシュヴィンは不機嫌を隠さず眉をしかめた。
「那岐、向こうの言葉を重ねても混乱する一方ですよ。
で、どういう経緯でそんな話になったんですか?」
いまだ大笑いの那岐を諌め、風早はアシュヴィンに話を促した。
本当は『もういい』とその場を後にしたかったのだが、それでは問題は何も解決しない。
アシュヴィンは堅庭での会話をざっと掻い摘んで話して聞かせた。
すると。
那岐は『セクハラエロ皇子』とアシュヴィンを指差してさらに大笑いし、風早は心底困ったような苦笑を深めて頭を掻き、異世界の言葉がわからない者たちからも『女心の分からないヤツ』というレッテルを貼られてしまったのである。
「いいですか、千尋が考えている結婚というのは──」
そして、風早先生から異世界での結婚観のレクチャーを受け、那岐から異世界の言葉の意味を教わったアシュヴィンはしばらく悩んだ後、不機嫌な表情を消せないまま千尋の部屋の扉を叩いたのだった。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
妄想アシュの続きです。
アシュは千尋ちゃんLOVEな気持ちがダダ漏れてるといい。
一番書きたかったのはおまけかもしれません(笑)
【2008/09/04 up】