■夏の風物詩
「─── あ゛づい゛……」
濁点まみれに『暑い』と唸ったのは、ここ常世の国の后妃・葦原千尋である。
がっちりとした木製の椅子に、今にも滑り落ちるのではないかと思えるほどにぐったりと座っている。
首筋に纏わりついて鬱陶しいから、と両耳の上で結われた随分伸びた髪が『千尋ちゃん専用うちわ』で扇がれる度にひょんひょんと揺れていた。
絵に描いたような幼稚園児ヘアスタイルなのだが、暑いという理由だけではなく、椅子にもたれるのに邪魔にならないように、とこのポジションに決まったらしい。
特注のミニ丈のワンピースから延びる細い脚は床に置かれた桶に突っ込まれていた。
足を動かせば、ちゃぷん、と水が跳ねる。
人前で素足をさらす、という文化のないこの世界のこと、そんなしどけない彼女の様子を初めて見た
(戦の最中も彼女はミニスカートだったのだが、時が時だけに気にしていなかった)
アシュヴィンは平静を装いつつも心中ドキドキムラムラしながらその姿を眺めたものだが、今ではすっかり見慣れてしまっていた。
あまりに無防備な姿に襲い掛かってしまいたい気がしないではないが、暑さのせいでいまいち乗り気になれない
── いや、一度衝動的に覆い被さってみたのだが、手ひどい鉄拳制裁を受けたので懲りた、というほうが正しいかもしれない。
夏の太陽は根宮の石造りの壁を容赦なく焼きつけ、室内は蒸し風呂のようにとにかく暑かった。
「あ゛づい゛……」
「……言うな。
余計暑くなる」
寝台に仰向けに横たわっていたアシュヴィンは、吐き捨てるように呟いて身体を横に──
千尋の方へ向けた。
じっとりと背中にかいていた汗が空気にさらされて、すぅっと涼しさを感じる。
が、それもほんの一瞬のこと。
「── プール行きたい、アイス食べたい、クーラー欲しい」
「……訳のわからんことを言うな──
鬱陶しい」
またも吐き捨てたアシュヴィンの言葉は千尋の耳には入っておらず。
「あ゛ー、こんなときは冷たくてつるっと喉越しのいいものが食べたいよねぇ……」
「……そんなものがどこにある…」
鬱陶しい、と言いつつも律儀に答えを返すアシュヴィン。
こんな会話も結構楽しんでいるのは千尋には秘密である。
「── そうだ!
また『流しそうめん』やろうよ!」
がばっと勢いよく身体を起こしたせいで、足元の桶から水が飛び散った。
「『流しそうめん』?
……なんだ、それは?」
怪訝な顔で訊ねるアシュヴィンの顔を見て、千尋は『あれ?』と首を傾げた。
「……あー、そっか、あれは四章の話だから五章のラストで合流したアシュヴィンは知らないんだ…」
「……何の話だ……?」
「ごめんごめん、大人の事情だから気にしないで」
千尋はパタパタと手を振って。
「えとね、流しそうめんっていうのは──」
と千尋は説明を始めた。
身振り手振りを交えて楽しそうに話す彼女の様子に、アシュヴィンの機嫌はみるみる急降下していった。
戦の最中にそんなことをしていたのか、という呆れ。
それ以上に、あいつらは千尋とそんな楽しいことをしていたのか、という腹立たしさ。
要するに『やきもち』である。
共に戦った仲間の中で、自分だけが楽しい思い出を共有できていないということは、アシュヴィンにとって耐え難い屈辱であった。
「── でね、那岐が薬味に、って赤紫蘇を持ってきたんだけど、薬味といえば青紫蘇だと思わない?
赤紫蘇は梅干作る時に使うものだと思うんだよね。
あーでもそうめんの薬味と言えば茗荷は外せないわ。
あの独特の風味がたまらないのよね。
あーん、そうめん食べたーい!」
千尋のそうめん語りが続く中、アシュヴィンはごろりと身体を転がして彼女に背を向けていた。
肘を立てて頭を支え、少し丸めた哀愁漂う背中はまるで『休日のお父さん』である。
向こう側にテレビがないのが悔やまれる。
その時、コンコン、と扉がノックされた。
「── 失礼いたします。
サザキ殿とカリガネ殿がお見えになりましたが」
扉の向こうから聞こえて来たのは千尋付きの采女の声。
「えっ、サザキとカリガネがっ !?
なんてナイスタイミーングッ!
すぐ行くわ!」
桶から出した足を慌てて拭き、室内履きをつっかけると、空をも飛びそうなほどの勢いで扉へ向かって駆け出していく千尋。
「おっ、おい待てっ!」
アシュヴィンは焦りの滲んだ声を上げ、がばっと寝台の上で身体を起こした。
扉を開けようとした千尋はきょとんとした顔で振り返り、
「え、なに?」
「お前……その格好で行くつもりか?」
「え、だって、待たせちゃ悪いし」
「……いいから着替えて行け。そんな格好で人前に出るな」
ぶすっとした口調のアシュヴィン。
どうしても千尋のミニスカワンピ姿を人に見せたくないらしい。
千尋はくすっと笑うと、はーい、と間延びした返事をして、隣の部屋に着替えに行った。
千尋がこの部屋を出てから数時間後。
アシュヴィンは動物園のクマよろしく部屋の中を行ったり来たりしていた。
一緒に行かないの?と聞く千尋に、寝台に寝転がったまま無言で追い払うように手をひらひらさせ、ひとりで行かせたものの、待つのがこんなにイライラするのなら一緒に行けばよかったと後悔してももう遅い。
ふと、無人の椅子の上に置かれたうちわに目が止まった。
暑さが厳しくなり始めた頃、千尋が手先の器用なリブに頼んで作らせたものである。
表面に貼られた紙は藍で淡く染めた爽やかな蒼。
まるで彼女の瞳の色を写し取ったような。
手に取って扇ぐと生温い風と共にふわりと香りが広がった。
愛用している香を移しているのだろう。
彼女の気配を感じた気がして、アシュヴィンはふっと笑みを浮かべた。
と。
「
───ィン!
アシュヴィン!
アシュヴィン!
アーシューヴィーン!」
だんだんと名前を連呼する声が近づいてきて、バンッと扉が開いた。
もちろん、声の主は千尋。
にっこにこの超ご機嫌の様子である。
「アシュヴィンっ!
ちょっと来て!」
「………俺の名を犬のように呼ぶなと言っただろう」
扉が開く直前に寝台にダイブして何事もなかったかのように横たわり、うっかり手に持っていたままになっていた千尋のうちわで優雅に扇ぎながら、わざと低い声で不機嫌を装う。
しかし彼女は気にも留めずにつかつかと歩み寄ると、彼の手からうちわをすっと抜き取り、その手を掴んでぐいっと引っ張った。
「いいから、ちょっと来てってば」
しぶしぶと立ち上がり、彼女に手を引かれるまま連れて行かれたのは中庭。
生い茂る夏草はきちんと整備され、色とりどりの花を咲かせている。
そんな中、見慣れぬものが──
二つに割った数メートルほどの竹が緩い角度で台に渡され、低くなっているほうには桶とざるが重ねて置かれている。
高くなっている側に置かれた台には、いくつかの水差しと小さな竹の器、何やら大きな器に入った白い物体が所狭しと並べられていた。
そして、なんだか楽しそうな官人たちと、アシュヴィンの一番の側近であるリブの姿があった。
「………なんだ、あれは……?」
「うん、流しそうめんやろうと思って。
それがね、カリガネにそうめん作ってもらおうと思ったら、なんと!
持って来てくれてたの!
阿蘇のおいしい湧き水でこねて、ひと冬しっかり乾燥させた極上品なんだって。
ほっぺた落ちても知らないぞーってサザキが言ってた」
クスクス笑いながらそう言ってアシュヴィンから離れた千尋は官人たちのところに駆け寄り、一言二言会話を交わすと、竹の器と箸を両手に持って戻ってきた。
はい、と渡された竹の中には黒に近い茶色の液体が入っている。
「はい、めんつゆ。
流れてきたそうめんを取って、これにつけて食べるの」
「わ、わかった………で、あいつらは…?」
「あいつらって……サザキとカリガネのこと?
もう帰ったけど?」
「……は?」
「一緒に食べようって誘ったんだけど、これからまだ行かなきゃいけないところがある、って忙しそうだったわ。
カリガネにめんつゆ作ってもらってる間にサザキが竹を組んでくれて、終わったらすぐに帰っちゃった」
「へ……へぇ………」
意外だった。てっきり長時間居座るものだと思っていたのだ。
そんなことを考えながらぼーっとしていると千尋に引っ張られ、竹の前に立たされた。
「ここをそうめんが流れてくるから、ちゃんと取ってね♪」
そう言うと、千尋は竹の高い側でスタンバイしている官人たちに『じゃ、お願い』と声をかける。
官人のひとりが水差しを傾けると、竹の中を水が流れ始めた。
もうひとりの官人がひと口分のそうめんを水の流れに乗せる。
アシュヴィンがどうしたものかとまごついている間にそうめんはあっという間に滑り落ち、竹の端に置かれたざるに受け止められた。
「あー残念。こうすると取りやすいわよ」
と千尋は水の流れに逆らうように竹の中に箸を立てた。流れてきたそうめんは箸に堰き止められてわだかまる。
それをうまく掬い上げてめんつゆに浸し、ちゅるりと啜ってにっこりと笑った。
アシュヴィンも彼女を真似て再び挑戦する。今度はうまく取れたそうめんを口に運んだ。
確かにこの喉越しのよさなら暑くて食欲のないこの季節にはうってつけだ、と素直に感心していると、ふいに千尋の手が伸びてきて口元に触れた。
「つゆ、ついてる」
拭った指先を軽く口に含み、にこりと笑う千尋。
そんな彼女の仕草に、アシュヴィンは照れ臭いやら気恥ずかしいやら、不覚にもフリーズしてしまっていた。
「さぁ、食べるわよ〜!」
臨戦態勢で箸を構える千尋をぽけーっと見ていると、ふいに妙な視線を感じてそちらに目を向ける。
そこには笑いを必死に噛み殺そうと顔を歪めた側近たちの姿。
仮にも自分たちが仕える主を笑い者にするとは──
あまりの居心地の悪さに竹の器も箸も投げ捨てて部屋に戻ってやろうかと思ったところで袖をくいっと引っ張られた。
「アシュヴィンもたくさん食べてね♪」
あぁ、愛する奥方に満面の笑みでそんな風に言われたら、逃げ出すこともできないではないか。
結局、アシュヴィンは側近たち主従入り混じっての流しそうめん大会をことのほか楽しんだ。
天鳥船での思い出は少ないけれど、これからこうやって彼女と思い出を増やしていけるのは誰でもない、自分だけなのだ──
そう考えればやきもちなんて馬鹿馬鹿しく、そうめんを届けてくれた日向の男たちに感謝の念すら感じてしまう常世の皇・アシュヴィンであった。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
むはー、苦しかった……
これだけ書くのに軽く2週間はかかってるなー。
途中まで書いて、一度は白紙に戻そうと思ったけど、もったいないから無理矢理シメてみた。
テーマは
『アシュヴィンにも流しそうめん体験を!』
『赤紫蘇を薬味にするなんてあたしゃ初めて聞いたよ、那岐くん』
以上2点でございました(笑)
【2008/08/12 up】