■嘘から出たまこと
この勝浦に来て、何日経っただろうか。
熊野水軍の協力を得るために熊野別当に面会すべく、本宮大社を目指しているというのに、熊野川の不可解な氾濫によって完全に足止めを食らっていた。
待てど暮らせど氾濫は治まらず、いい加減苛立ち始めた望美たち── 特に九郎── が本格的に原因究明に乗り出そうとした矢先──。
「── 失礼いたします」
宿の一室で望美たちがくつろいでいたところに、見知らぬ男が訪ねてきた。
夏の暑さに戸を開け放った部屋の前の廂(ひさし)に額をこすりつけるようにしてひれ伏す男は、きちんとした身なりをしている。
おそらく地元の有力者か、熊野詣に来た京の貴族に仕える者のように見えた。
「こちらに白龍の神子様がおいでになると伺い、参上いたしました」
「── えっ !?」
望美は驚いて、投げ出していた足を急いでたたみ、正座して背筋を伸ばした。
「あっ、あの…っ、白龍の神子は私ですけど…… 私に何か…?」
男は顔を上げぬまま伏せた身体を少し浮かすと、懐から何かを取り出した。
すっと望美の方へ出されたそれは、漆塗りに螺鈿細工が施された立派な文箱で、緋色の組紐で結わえられていた。
「あの… これ…?」
「我が主よりお預かりして参りました文にございます」
望美にはこの異世界で手紙をくれるような相手に心当たりはない。
唯一可能性があるとすれば、普段別行動している将臣くらいのものだが、彼はそんなマメな男ではないし、第一この熊野で合流してからは行動を共にしているのだから、それもありえない。
「ふ、文って……あなたの主って、どなたなんですか?」
「これは申し遅れました。私は熊野別当に仕える者にございます──」
* * * * *
「はぁ……っ」
望美の口から、もう何度目かもわからない溜息が漏れた。
別当からの使いが帰った後、おずおずと開いてみた文には、万葉集の中の一首である恋の歌と、数日後に速玉大社へ招待する旨が書かれていた。
「どうやら──、『別当が白龍の神子に一目惚れした』という町の噂は本当だったようですね」
皆が輪になって文を読み終えると、弁慶がやけに楽しそうにそう呟いた。
「何がおかしい?」
「いえ、特に意味はありませんよ」
不機嫌そうに弁慶を睨む九郎を、弁慶は笑顔ではぐらかした。
「で、どうしますか?」
どうする、と聞かれても答えは出ない。全員がうーんと唸り、その場にしばしの沈黙が訪れた。
「── そうだな…」
九郎が重い口を開く。
「ここで誘いを断って別当の機嫌を損ねでもしたら、こちらの話すら聞いてもらえなくなるかもしれん。望美、お前から別当に話を──」
「ちょっと待ってよっ!」
ガバッとたちあがった望美は握り締めた拳をふるふると震わせていた。
「なんで私が── 私の気持ちはどうなるのっ !?」
「今はお前の気持ちより、別当に話を聞いてもらうことの方が先だ」
「なっ !? な、何よそれっ!」
望美は唇をぎゅっと噛みしめ、目にはじんわりと涙が浮かんできていた。
「九郎さんのバカっ !!」
そう叫ぶと、部屋を飛び出していってしまった。
* * * * *
他の八葉たちは重苦しい空気から逃れるように、いつの間にか姿を消していて、部屋に残ったのは九郎と弁慶の二人だけになっていた。
「追わなくていいんですか?」
苦虫を噛み潰したような顔で腕組みをして座っている九郎に、弁慶が静かに訊いた。
「どうして俺が──」
「わかっていますか? 望美さんがあの文の招待を受ける意味を」
九郎の眉間に皺が寄る。
「わかっている── だが、俺たちが熊野まで来たのは、別当に会って源氏への協力を取り付けることだろう? 別当が神子に好意的なら、有利に話を進められるかもしれん」
「それで── 源氏は熊野の協力を得て─── 白龍の神子は別当に嫁ぐ、というわけですね」
「なっ…… !?」
「やはり… わかっていませんでしたね」
弁慶はくすりと笑うと、急に真面目な顔つきになって後を続けた。
「望美さんは情にほだされやすい性質のようですから、しつこく求愛の文が届けられればその気になってしまうかもしれません」
「あいつがそんなことに応じるはずは──」
「それを決めるのは望美さんです。熊野の男は女性に優しいですから── 覚悟しておいてくださいね」
その一言に、九郎は眉間の皺を一層深くして、考え込んでしまった。
* * * * *
宿を飛び出した望美は、いつの間にか浜辺までたどり着いていた。
靴を脱いで打ち寄せる波に足を浸してもいいかもしれない、とも思ったが、結局はその気にもなれず、辺りを見回して見つけた木陰に腰を下ろした。
「ふぅ……」
波の音を聞いていると、少し気持ちが収まってきて、小さく息が漏れた。
今自分たちが置かれている状況はわかっているつもりなのに── 少し大人気なかったかな、とも思う。
けれど、割り切れないものは仕方ないのだ。
会ったこともない熊野別当からいきなりラブレターみたいな文をもらって、それを利用して交渉を進めようとする九郎を思い出すと、再び頭に血が昇ってくる。
望美は膝を抱きしめ、額を乗せてうずくまった。
「やあ、姫君」
後ろから声をかけられ振り返ると、そこには夕日色の髪の少年が立っていた。
「あ… ヒノエくん……」
望美の顔を訝しげに見ると、ヒノエはひょいと隣に腰を下ろした。
「一体何が姫君の花のかんばせを曇らせているんだい?」
「な、なんでもないよっ」
望美はぷいっと顔を背けた。
「ふぅん…… ま、秘密の多い姫君も、神秘的でいいと思うけどね」
「もう……」
ヒノエはクスッと笑うと、望美の困り顔を覗き込んだ。
「それはそうと、そろそろ熊野詣のご利益がある頃だと思うけど?」
「ご利益?」
「そう─── 例えば、誰かから嬉しい便りが届くとか?」
いたずらっぽく笑うヒノエの顔に、望美は眉をひそめた。
「嬉しい…… 便り……? …… 冗談じゃないわよっ! あんな文、大迷惑よっ! そうだ、ヒノエくんって熊野水軍なんだよね?
いきなりあんな手紙送りつけてくるなんて、別当ってどんな人なのっ」
「え…… どんな…って……」
心底困り果てた顔で、ヒノエはポリポリと頭を掻いていた。
望美にとって熊野別当と言われて頭に浮かぶのは、最初の悲しい運命で会った屈強な海の男然としたスキンヘッドの大男である。
まさか目の前の華奢な少年が別当その人だとは夢にも思っていない。
「それに、九郎さんも九郎さんだよ! いくら別当に大事なお願い事があるからって、あの手紙の誘いに乗って私にその話をさせようとするなんて!」
怒りが再燃したのか、望美は握った拳で自分の膝をガシッと叩く。思いがけず痛かったのか、望美は顔をしかめた。
「へぇ… 九郎っていうのは新熊野権現で後白河院に賜った笛を奉納したお前の婚約者殿だったね」
「え……」
ヒノエの言葉に、望美の顔がみるみる赤く染まっていく。
「そっ、それはっ…… お芝居だったって言ったでしょ」
望美は膝をぎゅっと抱えて小さくなった。
「お芝居だけど…………………… 嬉しかったのに……」
望美の消え入りそうな本音の一言に、ヒノエは一瞬悲しげな表情を見せるとすっくと立ち上がった。
「ま、とにかく別当に会って来なよ。熊野の男はお前が思ってるほど狭量じゃないぜ」
「でも……」
「じゃあさ、こういうのはどうだい?」
ヒノエは望美の前にしゃがみこむと、小声で何かをささやいた。
「………… うん……」
望美が小さく頷くと、ヒノエは再び立ち上がる。
「じゃ、そういうことで── じゃあね、姫君」
そう言って笑うと、ヒノエは姿を消した。
* * * * *
翌朝、朝餉の席に現れた望美は、貴族の姫君のような豪華な着物を身に着けていた。
早朝、ヒノエから届けられたものである。
「ど、どうしたんだ望美っ !?」
驚きの表情の仲間たちの顔を見渡すと、
「── 別当に会いに行きます」
と宣言して、きゅっと口元を引き締めた。
「── 望美さん一人で出向かれるつもりですか?」
弁慶の問いに、望美は深くうなづいた。
「はい、招待を受けたのは私ですから」
望美が着慣れない着物の裾をぎこちなく捌いて部屋を出ようとした時、九郎が立ち上がった。
「待て、望美── 俺も行く。別当に話があるのは俺だ」
肩越しに振り向いた望美は険しい顔でしばらくの間九郎をじっと見つめていたが、「好きにすれば」と小さく呟いて部屋を出て行った。
そして速玉大社。
望美は通された広間で姿勢を正して座っていた。後ろに仲間たちがずらりと並んでいる。
しばらくすると、望美が予想していた通りのスキンヘッドの大男が奥から姿を現した。
後ろからヒノエもついて来ている。
「白龍の神子、ようこそ参られた」
「お招きありがとうございます」
望美が両手を付いて頭を下げると、九郎がすいっと膝を前に進めて望美に並んだ。
「その前に、別当殿にお話がございます」
「九郎さんっ !?」
いきなり協力要請の話を始めるのかと、望美は驚いた。いくらなんでもいきなり過ぎる。
「私は源九郎義経、鎌倉殿の名代として別当殿にお願いしたい儀があり、参上いたしました」
「九郎さんっ!」
九郎は袖を掴む望美に向かって小さく「お前は黙ってろ」と制すると、再び前に向き直った。
「ですが、本日うかがったのはそのことではございません。先日のこの者への別当殿よりの書状のお断りに参りました。
この者は私と将来を誓い合った許婚にございます。別当殿のお気持ちに沿うお返事は出来かねます」
「え…」
「後日改めて鎌倉殿の名代としてお願いに参ります。その時は此度の件とは別に話を聞いていただきたい。
本日はこれにて失礼いたします」
九郎はそこまで一気に述べて一礼すると、望美の手を引っ張って別当の邸を後にした。
* * * * *
「九郎さん! 痛いですってば!」
「あ… すまん」
邸を出てからも望美の腕を引っ張って歩いていた九郎に望美が悲鳴を上げると、九郎は慌てて手を離した。
「でも…… いいんですか、あんなこと言っちゃって」
「仕方ないだろう、交渉は俺たちがなんとかする…… それよりも今、お前を別当のところに嫁にやるわけにはいかん」
九郎は眉間に皺を寄せて、吐き捨てるように呟いた。
「やだなー、年頃の娘を持つ父親みたいなセリフ── って、ええっ、そういうことになってたんですかっ!?」
「そうらしい」
事の重大さに気づいた望美が、バクバクし始めた心臓を押さえ付けるように胸に手を当て大きな呼吸をする。
多少落ち着いたのか、望美は手を下ろすと九郎に向き直ってぺこりと頭を下げた。
「意地張っちゃってごめんなさい── また九郎さんのお芝居に助けられちゃいましたね」
えへへ、と笑う望美を見て、九郎はうっと言葉を詰まらせると、少し赤くなった顔を隠すように望美に背を向けた。
「い、今お前にいなくなられると、戦力が落ちる── いや、そうじゃなくて……」
「え?」
「『嘘から出たまこと』ということにならんとも限らん── あー、いや、だから、その、芝居ではなくなることも無きにしも非ずで──」
後姿だけでも慌てふためいている九郎の表情が目に浮かぶようで、望美は思わずぷっと吹き出した。
「なっ、何がおかしいっ── 帰るぞっ」
そのまま九郎は歩き始める。
あまりに笑ったからなのか、九郎の気持ちが垣間見えたことが嬉しいからなのか、浮かんできた涙を望美はそっと拭うと、口元に手を当ててすぅっと大きく息を吸い込んだ。
「お芝居じゃなく『許婚』って堂々と言ってもらえるように、これからもがんばります!」
一瞬足をもつれさせたが、何も答えず歩いていく九郎の背中が思い切り照れているように見えて、望美はクスッと笑った。
そして、その背中に追いつくべく走り出した。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
別当って偉いんだよね? ね?
それにしても、ヒノエがかわいそうなポジションですね(笑)
おまけに九郎さん、弁慶さんに操られちゃってます。
九郎の背中をそっと押してあげたのか、単に戦力減少を危惧しただけなのか。
おそらく両方でしょう(笑)
【2006/07/18 up】