■涙の理由 九郎

 九郎は眠れぬ身体を持て余し、布団の中でひっきりなしに寝返りを打っていた。
 今はもう夜明け前──枕元の時計は既に5時半を回っていた。
 とはいっても、床に就いてからはまだそんなに時間は経っていない。
 「祝勝会 兼 カウントダウンパーティ」と銘打った宴が夜遅くまで続いていたのだから。
 右を向いては溜息を吐き、左を向いては頭を掻き毟る。
 どちらを向いても、頭は冴える一方だった。
 仕方がないので、上を向いて布団を頭まで被ってみることにした。

『俺は、お前が好きだ。一人の──女性として』

 数時間前に自分が口にした言葉が、頭の中で幾度もリフレインする。
 ことあるごとに考えていた望美との距離。
 ──白龍の神子と、神子を守る八葉?
 ──同じ人物を師と仰ぐ兄妹弟子?
 ──共に戦う仲間?
 時に笑い合ったり、時に言い争ったりしながら、幾多の苦難を乗り越えた今、はっきりと自覚した想い。
 それを素直に言葉にしたのだから、望美の返事がどうであれ、後悔はしていない。
 そして、靄が晴れたようにすっきりとした胸に飛び込んできた望美が小さくささやいた言葉が脳裏をよぎる。

『私も───九郎さんが好き』

 その途端、ボンッと音を立てて噴火したかのように、一気に顔が熱くなった。
 布団を被っているからだけではない息苦しさに、九郎はガバッと身体を起こし、ゼイゼイと大きく肩で息をした。

*  *  *  *  *

 そして、夜が明けて。
 元旦の朝を迎えたというのに、有川邸はほとんどいつもと変わりない。
 少し遅めの朝食が済み、それぞれが思い思いの場所でゆったりとくつろいでいた。
 とは言っても、ほとんどの者がリビングでテレビを見てるのだが。
 九郎は一緒になってテレビを見る気にもなれず、ダイニングテーブルに肘をつき、ただボーっとしていた。
 昨夜の庭での出来事にまだ酔っているようでもあり、一晩中眠れずにいたせいでもある。
 目の前に置かれた湯飲みの中のお茶は、すっかり冷め切っていた。
「明けましておめでとうございまーす」
 こみ上げてきたあくびに大きな口をあけた瞬間、不意にリビングに響いた声にドキリとした九郎の手が、湯飲みに当たる。 そこは鋭い反射神経で、危うく倒れそうになった湯飲みを咄嗟に掴み、中の液体をぶちまけてしまうことは避けられたが、 数滴のお茶のしずくがテーブルの上に散っていた。
 ほっと胸を撫で下ろしながら、手近にあったティッシュで零れたお茶を拭いていると、 さっきまでリビングで仲間たちと話していたはずの望美がすぐそばに立っていた。
「あの……、一緒に初詣に行きませんか?」
 そう言って微笑む望美の目は、少し赤く腫れていた。
 泣き腫らしたような目を不審に思いながらも、昨夜のこともあって九郎の頬がボッと赤く染まり、それ以上望美の顔を正視できなくなってしまった。
「あ、ああっ……だが、こうして揃うのもあとわずかだし、皆で行ったほうが──」
 事実半分、照れ隠し半分で答えた九郎の言葉に、望美は小さく眉を寄せた。
 直後、望美は口元を両手で覆い、深くうつむくと、う…、と小さく嗚咽のような声を出した。
「…………じゃあ、私、支度してきます……」
 ゆっくりと顔を上げ、力なく笑った望美の目元は、うっすらと光っていた。

 望美が出て行ったリビングの扉がパタンと小さな音を立てて閉まると、 九郎の向かい側で新聞を広げていたヒノエがニヤニヤして九郎の様子を眺めていた。
「姫君の美しい瞳を涙で曇らせるなんて、男としてサイテーだね。オレだったら、姫君のせっかくのお誘いを断ったりしないけど?」
 ヒノエの皮肉たっぷりな物言いにカチンと来たものの、九郎はグッと感情を飲み込んだ。
「今は……帰ってしまう者たちと、少しでも多く一緒に過ごした方が、望美にとっても──」
「ふぅん……、あんたも帰るんじゃないのかい?」
「いや、俺はこの世界に残る。俺は──あいつと生きる道を選ぶ」
 九郎の揺るぎない宣言に、ヒノエの片眉がピクリと上がった。
「で、そのことはちゃんと望美に伝えてあるんだろうね?」
「それは……っ」
 九郎は言葉に詰まった。
 お互いの気持ちを確かめ合った後、九郎はただ腕の中の望美の温もりを感じているだけで幸せいっぱい胸いっぱい状態だったのである。 その後の会話らしい会話はほとんどなかったのだ。
 ヒノエは大袈裟なほどに大きな溜息を吐いて、広げていた新聞をテーブルの上にバサリと置いた。
「……望美はあんたもあっちの世界に帰ると思ってるぜ。さっきの望美の様子、どう見てもあんたとの思い出を残しておきたい、って感じだったな」
 ヒノエの言葉が終わらないうちに、九郎はガタンと大きな音を立てて椅子から立ち上がると、風のように有川邸を飛び出していた。

*  *  *  *  *

 九郎は望美の部屋の前にいた。
 望美の母は、望美からいろいろと聞いているのか、何も言わずに笑顔でここまで通してくれた。
「望美っ、そのっ…、話があるんだ」
 呼びかけても返答はない。この世界での礼儀だというノックを何度もしてみたが、それでも応答はなかった。
「望美?」
 多少ためらったものの、扉を細く開けてみると、ふわりといい香りが鼻をくすぐった。
 さらに顔ひとつ分広く開けて中の様子を窺うと、ベッドの横にペタンと座り込み、そのままベッドの上に突っ伏している望美が見えた。 ベッドの上にはさっき着ていたコートが無造作に放り出されている。
 向こうに顔を向けているため表情は見えなかったが、泣き伏してしまうほどに悲しませてしまったのなら謝らねばならん、 とさすがの九郎も思っていた。
 少しの逡巡の後、バツが悪そうにゴホンと咳払いをひとつすると、九郎は部屋に入り、ベッドに伏す望美の側に膝を付いた。
「望美…そのままでいいから聞いてくれ。昨日の今日で、お前を不安にさせたことは謝る。俺の言葉が足らなかった。 俺は──ここに残るつもりだ。俺たちに時間はいくらでもある。だからさっきも、今は元の世界に帰ってしまうあいつらと過ごしてもらおうと──」
 その時、望美が小さく身じろぎして、顔の向きを変えた。
「望美…?」
 九郎は思わず望美の顔を覗きこんだ。
 望美は──眠っていた。

 九郎の頭にカッと血が上る。
 人がせっかく真面目に謝っているというのに、眠っているとは!
 一言文句を言ってやろうと開いた口を、九郎はゆっくりと閉じた。
 望美の寝顔を見るのは初めてだった。それも、こんなに間近で。
 静かに目を閉じる望美の美しい顔に、九郎は思わず息を飲んだ。
 心臓がトクンと脈打ち、知らず頬が熱くなった。
 ここ数日、望美は精神的にも肉体的にも苦痛を強いられてきたのだから、今は休ませてやらねば。
 そう理由をつけて、その柔らかそうな頬に触れてみたいという欲求を抑え込み、ベッドの上のコートを望美の肩にそっと掛けてやると、 九郎は部屋を出るべく立ち上がった。
「ん……あれ…九郎さん…?」
 九郎がドアノブに手をかけた時、望美が目を覚ました。
「あ、ああ……す、すまん、起こしてしまったか」
「わ、私こそごめんなさい。あれ……いつの間に寝ちゃったんだろ……。何か、ご用でした?」
 望美はきょとんとした顔を少し傾げた。そこにさっきまで泣いていたという雰囲気は微塵も感じられないが、九郎はそれに気付かなかった。
「あ、いや、その……、さっきのことを謝ろうと──」
「さっき…?」
「ああ……、せっかくのお前の誘いに、皆で行こうと答えたことだ」
「……はい」
「まさか、お前が泣き伏すほどに悲しむとは思わなかったから──」
「…はい?」
「その上、俺の言葉足らずのせいで、一晩中お前に涙を流させるとは──我ながら、ふがいない」
「はい ??」
 戸口に立ったまま、胸元で拳を握り締め、そう吐き捨てるように呟いた九郎は、意を決したようにツカツカと望美に歩み寄ると、 おもむろにガバッと強く抱きしめた。
「俺は、この世界に残る。これからはずっとお前の側にいる。だから──俺のことで涙を流すのはやめてくれ」
「は、はいっ !? ──ええっ、もしかして九郎さん、帰るつもりだったんですかっ !?」
 意外な望美の驚きの声に、九郎は抱きしめていた望美の身体を離し、眉を寄せた。
「なんだ、違うのか !?」
「だって九郎さんは残ってくれると思ってたし、初詣もみんなで行くつもりだったし…、私、泣いてなんか───あ」
 照れ臭さと申し訳なさが入り混じった顔を赤く染め、望美は俯いた。
「あの……昨夜、その……、ドキドキしちゃって眠れなくて……、友達からDVD借りてたの思い出して……。 これが悲恋もののラブストーリーで、見始めたら最初から最後まで泣き通しで……、気がついたら朝になってて───あ、あはは……」
 望美の乾いた笑いに九郎の顔が怒りに歪む。
 そう、泣き腫らした目は、映画を見て泣いたため。
 嗚咽を漏らし、涙を浮かべたのは、あくびを噛み殺したため──。
 九郎は軽い眩暈を感じた。
「───ヒノエの奴…っ」
 苦虫を噛み潰したような顔で呟くと、九郎はスクッと立ち上がり、バタバタと部屋を出て行った。
 どうやら怒りの矛先を向ける相手が見つかったらしい。
「く、九郎さんっ !?」
 望美はいつの間にか肩に掛かっていたコートに袖を通すと、九郎の後を追って部屋を飛び出した。

 望美は有川邸に向かって走りながら、これから起きるであろう大騒動に思いを馳せ、くすっと笑った。
 今度こそ、平穏な時間が流れ始めた、と望美は心から実感していた。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
あ、あははー…
ほぼ1ヶ月ぶりの更新が意味不明ですんません(汗)
ほほ、神子様は恋愛のエキスパートですから、九郎が残ることくらいお見通しなのですよ(笑)
九郎は空回ってこそ九郎だと思うのです。
つーか、やっと自分の思いを口に出した九郎がかわゆーてかわゆーて(笑)
あ、告白シーンの神子のセリフは、もちろん捏造ですよ。
んで、サブキャラに珍しくヒノエ登場です。
敦盛エンドでのおせっかいぶりが気に入っちゃって。
楽しんでいただければ幸いです。

【2006/04/10 up】