■望美ちゃんの執事 将臣

「── お待たせいたしました」
 目の前にすっと皿が置かれた。
 温かみのあるオレンジ色は、かぼちゃそのものの色だ。 真っ白いスープ皿との色の対比が見事で美しい。
 望美は曇りなく磨かれたシルバーのスプーンでパンプキンのポタージュをすくい、口に運んだ。 濃厚でまろやかな甘みに、自然と顔が綻んでしまう。
「お嬢様、今朝のパンはブリオッシュとカンパーニュですが、どちらになさいますか?」
「そうね……スープにはカンパーニュのほうがいいけど、ブリオッシュも食べたいかな」
 この直後、これまで朝食を恭しく給仕していた執事がボソッと呟いた一言に、望美はひくりと頬を引きつらせることとなった。

「……朝っぱらから、すげぇ食い気だぜ」

 望美ははしたなく音を立てることなく、ゆっくりとスプーンを置いた。
 ── 我ながら、素晴らしい忍耐力!
 口元をひくつかせつつも、心の中で自画自賛。 大きな呼吸をひとつして、
「……朝食は、一日の始まりのエネルギー源よね。 たくさん食べたら、何か問題がある?」
 ゆっくりと、噛みしめるような口調で問いかける。
 執事はさっきまでの恭しさはどこへやら、ククッ、と不躾に笑った。
「問題大アリだろ。 お前の席、窓際で日当たりいいよな。 満腹だと1時間目から熟睡間違いなしだ」
「それは言い過ぎだよ、将臣くんっ!」
 望美は膝の上のナフキンを掴んで投げつけた。 残念なことにナフキンは空中でふわりと広がって失速し、易々と執事・将臣の手に受け止められてしまったのである。
「っ!」
「── それではカンパーニュとブリオッシュ、両方をお持ちいたします」
 『両方を』をやけに強調した将臣は、洗練された手つきでナフキンを望美の膝にかけ直すと、慇懃に頭を下げた。

*  *  *  *  *

 春日望美、高校2年生。
 執事がいることでもおわかりのとおり、お金持ちのお嬢様── とある大企業の社長の一人娘である。
 普段なら家族三人での朝食なのだが、現在両親は仕事と休暇を兼ねて海外滞在中。 望美も当然ながら同行するつもりだったのに、学校を休むべからず、と窘められ、仕方なく留守番の身。 寂しく(もないけれど)ひとりきりの食事は既に1週間になり、あと3週間はこれが続く予定だ。
 そして執事として彼女の世話をしているのが、有川将臣。
 彼の父親も執事として望美の父に仕えている。 世襲制というわけではないのだが、将臣は最近執事としての修行を始めたばかりの見習いで、望美はいわば練習台のようなものだ。
 ただ、将臣は特に努力しているようには見えないのに、何でもすぐにそつなくこなしてしまうのが、望美からすると少々憎らしいところだった。
 おむつの頃から互いを知っていて、幼い頃は子供特有の無邪気さゆえに、いつも一緒に遊んでいた。 学校もずっと一緒で、今も同じ高校の同じクラスという、いわゆる幼馴染。
 少し前、彼が執事修行を始めると聞いて、なんとなく悲しくなったのは気のせいではない。 彼が幼馴染である自分たちの間に、主人と執事という線引きすることを自ら決めた、ということに他ならないのだから。

 結局、望美は出された二種類のパンと、生ハムをあしらった野菜たっぷりサラダ、デザートにフルーツの盛り合わせを平らげ、更に最後にスープをおかわりして朝食を終えた。
「ふぅ、ごちそうさま」
 さて、学校へ行く準備をしなくては。
 席を立とうとすると、何故か『お嬢様』と声をかけられた。 いつもなら将臣がタイミングよく椅子を引いてくれるはずなのに、立つに立てなくて、浮かしたお尻はストンと椅子に逆戻りする。
「将臣くん、どうかし── えっ !?」
 見上げると、思わぬほど近くに将臣の真剣な表情があったのだ。
「ななななにっ !?」
 彼の手が、望美の顔の下半分を覆うように、ぬっと伸びてくる。
 まさかあの大きな手で口を塞がれるのかと、望美は目を閉じることすらできずに身を固くした。
 しかし予想に反して、触れたのは親指だけ。 口の端から下唇にかけて、すっとなぞっていく。
 背中がゾクリとして、指先にピリピリと電気が走り抜け、顔がカッと熱くなって、頭の中が真っ白になった。 更に追いうちをかけるように、将臣はふっと薄い笑みを浮かべると、
「── まだまだガキだよな」
 そう言って将臣は、さっき望美の唇に触れた親指を軽く口に含んだのだ。
「っ !?」
「── 失礼いたしました。 口元にスープがついておりましたので」
 一歩下がって深々と頭を下げる将臣。
 今度は恥ずかしさのせいで望美の顔が真っ赤に染まる。
 いたたまれなくなった望美は、勢いよく立ち上がった。
 椅子は望美の足に押されて後ろに倒れたが、咄嗟に受け止めた将臣のおかげで、大きな音を立てて床に転がることはなかった。
「が……学校、い、行くわよっ!」
 お嬢様らしからぬ足音を立てて、ダイニングから自室へと向かう。
 重厚な扉を開けたところで、後ろからプッと吹き出すのが聞こえた。
 このまま走って逃げたい思いだったが、そこはお嬢様らしく優雅な足取りで部屋を退出したのだった。

*  *  *  *  *

 望美と将臣は、学校ではごく普通のクラスメイトとして過ごしている。
 親がそこそこ教育熱心な割に、通っているのは自宅から一番近い公立高校。 お嬢様学校へ行けと勧められたこともない。 勉学は自らが努力して成すものだから、学ぶ場所は関係ない、という教育方針らしかった。 遠くの学校に通う時間があるなら、その時間を勉強や趣味に費やすほうがよほどいい、という合理主義でもあるらしい。 その点は確かにその通りだ、と望美も思っていた。
 他のクラスメイトも小学校、中学校からの友達が大半で、二人の関係性もよく知られている。 望美の送り迎えの高級車に将臣が同乗してくるのも、それが同じ家からだというのも(住み込みなのだから当然)ほぼ全校生徒が知っているのだ。
 以前から『あぁ、執事とお嬢様の禁断の恋!』と揶揄されることも多かったが、望美はきょとんとして『なにそれ?』と返したものだった。
 だが最近は、そんな揶揄がズキンと胸に突き刺さるようになった。
 理由は望美自身が一番よく知っている。

 将臣の予言通り、とはいかないまでも、意識が飛びそうな睡魔と必死に戦いながら午前中を過ごし、昼食後はクラス一丸となって睡魔と戦い(力尽きた者も数名いたが)、下校の時間になった。
「ね、ねぇ、将臣くん」
 校舎を出て、並んで歩きながら、望美は勇気を振り絞って将臣に話しかけた。
「ん?」
「た……たまには寄り道して帰らない?」
 将臣の眉間に微かに皺が刻まれて、望美は思わず唇を噛む。
「お前……親が留守だからって、羽伸ばしすぎじゃねぇ?」
 はぁ、と大きな溜め息の後、将臣がくいっと顎をしゃくった。 その方向へ目をやると、少し先の校門の外に見慣れた黒塗りの車が止まっていた。 望美の送迎の車だ。
「だって……ケーキのおいしいお店、教えてもらったんだもん」
「ケーキ食いてぇなら、うちの料理人のほうがそこらの店よりよっぽどうまいもん作るぜ?」
 確かに彼の言うことも一理ある。 春日家で雇っている優秀なシェフは、パティシエとしての腕も超一流なのだから。 正論すぎて、望美は言い返す言葉を見つけることができなかった。
 立ち尽くす望美を置いて、将臣は車へと歩き出す。
 ── たまにはデートみたいなこと、したっていいじゃない。
 心の中でぼやいてみる。
 余計悲しくなってきて、望美は俯いた。
 『デート』と言っても、そもそも二人は交際しているわけではないのだ。
 自分は彼への気持ちに気づいてしまったけれど、彼の方は?
 嫌われているとは思わないけれど、ただの主従関係と言われれば、否定なんてできない。
 もしも── だったとしても、友人が言う『禁断の恋』というフレーズが頭の中に渦巻いた。
 望美が自分の思考に打ちのめされて、しゃがみ込みそうになった時、
「── おい、望美!」
「……っ」
 顔を上げると、校門から手招きしている将臣。 その向こうに黒塗りの車はない。
「え……?」
 望美は校門までの僅かな距離を走る。
「車、どうし──」
「するんだろ、寄り道」
 にっ、と笑った将臣が、ぽふん、と望美の頭に手を置いた。
 車が消えたのは、きっとどこかで待機するように将臣が伝えてくれたからなのだろう。
「あ………………ありがと…」
 将臣は一歩下がって、恭しく頭を下げると、
「ではお嬢様、『ケーキのおいしい店』とやらにご案内いただけますでしょうか?」
「……いいわ、ついていらっしゃい」
 望美は普段は車でしか通らない道を、彼の先に立って歩き始めた。

 この先、自分たちの関係がどうなるのかはわからないけれど。
 ただの友人としてでいい。 『お嬢様』と『執事』という関係を忘れて一緒に過ごせるこの僅かな時間が少しでも長く続くことを、望美はひっそりと願う。 今はそれ以上は望まないから。
 自然と足取りは緩やかになった。
 他愛ない話が弾み始める頃には、後ろからついてきていた将臣が隣で肩を並べて歩いている。
 それに気づいた望美の口元には、複雑な笑みが浮かんでいた。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 超ご無沙汰でございました。
 いつもの診断メーカーネタでございます。
 シチュお題でお話書くったーにて、
 『執事と主人の関係でお互い好きあっているが、素直になれない将望』
 と出たもので。
 『素直になれない』がよくわかんなくなってきまして。
 うーん、リハビリ、リハビリ。

【2012/12/11 up】