■傷 跡
勝浦、夏。
蝉時雨が耳鳴りのようにひっきりなしに襲ってくる。
うだるような暑さに、じっとしていても汗は滝のように流れてきた。
港町で海が近いせいか、ひとたび汗をかけば、潮を含んだ空気にさらされて、海から上がってそのままにした時のように
肌がべとついて心地悪かった。
白龍の神子&八葉ご一行様は、この勝浦でしばしの足止めを食らっていた。
熊野本宮大社へ向かうところなのだが、途中の熊野川が謎の氾濫を起こしていた。
人が近づけば水量を増す川になす術はなく、ひとまず情報収集をしようと勝浦に滞在しているのである。
その情報収集は、この地に詳しい八葉二人が当たり、他の者は束の間の休息を思い思いに過ごしていた。
「はぁっ! ふんっ! たぁっ!」
ひゅんと風を切る音と共に、気合いの声が宿の庭に響く。
一太刀振り下ろすたびに、傾きかけた陽の光を受けた汗の粒が、キラキラと飛び散った。
「精が出るわね、望美」
後ろから呼びかけられ、白龍の神子・望美は構えていた剣を静かに下ろした。剣を構えていた時の鋭い眼光は霧散し、あどけない少女の顔に戻る。
「あ、朔」
望美の対、黒龍の神子である朔は濡れ縁に佇み、にっこりと微笑んでいる。
「望美は努力家ね。本当に感心するわ」
「や、やだな、そんなことないよ。他にすることもないし、身体がなまっちゃっても困るし」
抜き身の剣をぷらぷらさせて照れている望美。見た目非常に危なっかしいのだが、本人は気にしていないようだ。
「ふふっ、謙遜しなくてもいいのよ。剣の腕もずいぶん上達したもの」
「そう、かなぁ…」
「ええ、自信をお持ちなさい」
朔は口元に手を当てて、上品にクスクスと笑った。
望美は剣を軽く一振りしてからパチンと鞘に収めると、濡れ縁の朔の元へと駆け寄った。
「そろそろ夕餉にしましょうか」
朔の言葉に、望美は急に空腹を感じた。腹の虫が思い出したようにくぅと小さく鳴いた。
「あ、あはは…」
「ふふっ、先に汗を流していらっしゃいな。あなたが戻るまでに支度しておくわ」
「うん、ありがとう」
望美は踏み石の上にスニーカーを脱ぎ捨てると、バタバタと廊下を駆けていく。
「望美」
「え?」
望美は跳ねるようにくるりと振り返る。
「来る時に将臣殿を呼んできてくれるかしら。少し前に外から帰ってきて、少し休むと言って部屋に引き取ったから」
「うん… わかった…」
意味ありげに微笑んでいる朔に向かい、ぎこちなく笑って小さく手を振ると、望美は湯殿のある方へと踵を返して駆け出した。
裸足で歩く望美の足音がひたひたと廊下に響く。昼間あれだけ賑やかだった蝉の声はほとんど聞こえない。
さっきまで夏の日差しに照らされていた板張りの廊下はいまだ熱を含み、足の裏に昼間の暑さの名残を伝えてくる。
湯浴みしたばかりでまだ湿ったままの髪を弄る微風も、まだ涼しいとはいえなかった。
空を茜色に染め上げている太陽は山の向こうに沈みかけ、床に望美の影を長く落としていた。
望美は部屋の前で足を止め、しばし逡巡する。
目の前の部屋は大所帯の神子様ご一行の、男性陣の寝泊りする部屋のひとつ。
朔によれば、ここで天の青龍・有川将臣がお昼寝中なのだ。
望美は声をかけることをためらった。
将臣とは幼なじみとして育ち、一番心安い人物のはずなのに。
それは、この世界に飛ばされた時に、将臣だけが別の場所、異なる時空へ辿り着いたせいにほかならない。
ずれてしまった3年間が、二人の間に見えない壁を作ってしまったような気がしていた。
それ以上に── この世界に来て初めての満月の夜、不思議な夢の中で将臣に再会し、
その後の逢えない時の間に募る想いに気付いてしまったから──。
そんなこんなで、たまに合流しても、変に意識してしまって、まともに顔を見て話せなくなってしまっているのだ。
望美は深い深呼吸をひとつして、障子の枠をノックした。
「… 将臣くん、起きてる? 晩ご飯だよ」
返事はない。耳を澄ますと、ゴソゴソと衣擦れの音がした。
「将臣くん?」
もう一度、名を呼んでみるが、やはり応答はなかった。
(まだ寝てるのかな…? … でも、起こさないと、夕飯抜きになっちゃうのもかわいそうだよね… うん、起こすだけ、だよね。
元の世界にいたときだって、部屋まで起こしに行ったことなんて何度もあるし、ちょっと肩揺すって将臣くんが目覚めたら、
先にみんなのところに行っちゃってもいいんだし──)
頭の中でひとしきり理屈をこねた後、一呼吸置いて、勢いよく障子を開けた。
「将臣くん、晩ご飯食べ───」
望美の目に飛び込んできたのは、部屋のほぼ中央で胡坐をかき、寝ぼけ眼で頭をガシガシと掻いている将臣の姿。
さっき聞こえた衣擦れの音は、身体を起こした時のものだろう。
うつ伏せで眠っていたのか、頬に赤く跡が残っていた。
だがしかし。
ただ胡坐で頭を掻いているならいいのだが、将臣は『諸肌脱いだ』状態── つまり、上半身裸、だったのである。
浴衣の袖がスカートのように腰から広がっていた。
望美の顔がボッと火がついたように一瞬にして赤く染まり、たった今開けた障子を同じ速度でぴしゃりと閉めると、
バクバクと飛び出しそうな心臓を両手で押さえてその場にへたり込んだ。
しばらくして、シュッと音を立てて障子が開いた。
「ふぁ〜、よく寝た…… ぼちぼちメシか? ……って、何やってんだお前?」
「え? …… うあっ!」
顔を上げれば、そこにはさっきと寸分違わぬ諸肌脱ぎの将臣が障子に寄りかかって立っていた。望美は真っ赤な顔を大急ぎで思いっきり逸らした。
「なんだよ、俺は怨霊かっつーの…… って、お前が怨霊恐がるわけねぇよな」
ははは、と豪快に笑う将臣。
「そっ、そうじゃなくてっ! う、上っ! ちゃんと着てよっ!」
「ああ、これか。別に恥ずかしがるようなもんでもねぇだろ。海かプールにでも行きゃ、みんな海パン一丁だし」
確かに水辺で同じ状況なら気にならないのに、部屋の中だとどうしてこうも気恥ずかしいのだろうか。
ともあれ、恥ずかしいものは恥ずかしいのだから、仕方がない。
「そうだけど…… シチュエーションってものがあるでしょっ!」
望美は赤い顔を逸らしたままで抗議する。その様子に将臣はバツが悪そうに頭を掻いた。
「悪い、今、着れねぇんだ」
「な、なんでよ」
「暇だったから久しぶりに海に潜りに行ったらな、あんまり楽しくてつい調子に乗っちまった。強烈日焼けの出来上がりって訳だ。
着物なんか着たら痛くてかなわねぇ」
将臣は望美の前にストンと座ると、ほら、と身体を捻って肩を突き出した。
おずおずと視線を上げてみると、確かに首筋から肩、背中にかけて赤黒く腫れた日焼けが痛々しく広がっていた。
「うっわ、痛そ…」
「だろ? さっき弁慶に塗り薬もらったんだが、さすがに背中には塗れなくてな。つーわけで、ひとつよろしく」
将臣は膝の上に置かれていた望美の手をひょいと取ると、手のひらの上に薬の入った二枚貝を載せた。
「はぁっ !? な、なんで薬もらったときに、ついでに塗ってもらわなかったのよっ !?」
貝を握り締め、思わず声を荒げる望美。すでに将臣の諸肌脱ぎは頭からすっぽり抜け落ちてしまっている。
「あのなぁ、野郎に背中スリスリされて、気持ちいいと思うか?」
「気持ちいいとかそういう問題じゃないでしょうがっ !?」
「ま、そう言わずに頼むわ」
将臣は望美の剣幕も意に介さず、座ったままで器用に身体の向きを変えた。
「もう…… しょうがないなぁ…」
望美は貝を開け、指先に薬を取ると、将臣の背後に膝立ちになった。
薬を塗ろうとして伸ばした手がふと止まる。
目の前の将臣の背中は、自分の記憶の中のそれよりもずいぶんたくましく見えた。広くて大きく感じた。
(── 頼れる男の背中、って感じ?)
そう思った瞬間、再び恥ずかしさが猛烈に襲ってきた。さっき以上に顔が熱くなるのを自覚するほどに。
(背中に薬を塗るくらいどうってことないじゃない── そう、これは治療、治療なのよっ)
自分で自分を説得してみるものの、将臣の背中を直視できなくて、顔をそむけたまま大急ぎで薬を擦り込んだ。
「いっ!」
妙な声に驚いて視線を戻せば、将臣は背中を丸めて硬直し、拳を握るでもなく開くでもなく、変な風に曲げた指をヒクヒクさせている。
「── てぇだろうがおい!」
「え、あ、ご、ごめんっ!」
「それでなくても痛ぇんだから、もうちょっと優しく塗ってくれよ」
「うぅ…、ごめん……」
照れ臭さを必死でこらえ、背中の日焼けにそっと薬を塗る。
その時、望美はふいに気がついた。
将臣の背中にも、肩にも、腕にも、無数の傷跡があることを。
「将臣くん…… なんか傷だらけだね……」
「まあな。今でこそ大きな怪我はしねぇが…… いろいろあったからな」
将臣の溜息混じりの言葉は、望美の心にズシンと響く。
この世界に降り立ってすぐ朔に出会えた自分とは違い、ひとり別の時空に飛ばされた将臣が過酷な時を過ごしてきたことを、
傷跡のひとつひとつが物語っているようだった。
「今世話になってる家に拾われてから、いきなり戦に巻き込まれちまって…… 戦い方なんて知らないだろ? おたおたしてる間に傷だらけだ。
あんまり悔しいから、その後稽古つけてもらったけどな」
「大変だったんだね…… でも…… あんまり危ないことしないでよね」
望美は薬を塗り終わると、肩に当て布を乗せてそっと着物を着せてやる。将臣は、サンキュ、と呟くとそろそろと袖に腕を通して
慎重に襟元を整えると、身体を望美の方へ向けた。
とりあえず目の前の照れの元が覆い隠されて、望美はふぅと息をつくと疲れたようにペタンと腰を下ろした。
「俺はそう簡単にくたばりゃしねぇって。お前こそ、妙な肩書きもらって大変だな── 俺も同じようなもんか…」
「え?」
最後の言葉が聞き取れなくて、望美は聞き返した。
「いや、なんでもねぇ── それより、傷だらけといえば、お前の足も相当なもんだよな」
「そりゃあまあ、怨霊封印してたら生傷は絶えないけど── や、やだ、いつ見たの !?」
望美はスカートから覗く膝頭を慌てて手で隠した。
「いつって言われても── ナマ足ミニスカなら、自然と目も行くだろ」
「ウソっ、将臣くんそんなこと考えてたのっ !? やだもう信じられないっ!」
またまた真っ赤になった顔と足を隠すようにガバッとうずくまる望美。
将臣は望美の方へ顔をぐいと寄せると、
「おいおい、お前、俺をなんだと思ってんだ? 俺も立派な男だぜ? つーか、ついお前に目がいっちまうってのが本当だな」
「へ?」
はっと顔を上げた望美の声は、身体を折り曲げているせいかなんとも滑稽だった。
将臣は思わずぷっと吹き出した。
「ははっ、なんて声出してんだ。── ま、離れてみて気付くこともある、ってことだ」
「将臣くん……」
将臣の最後の言葉は、そのまま望美が痛感していたことだった。望美はゆっくりと身体を起こすと、同意の意味を込めて小さくコクリと頷いた。
将臣の顔を見るのが照れ臭くて、望美は顔を上げられなくなってしまった。
「あーそれでか」
「はい?」
そこはかとなく漂っていたいいムードをぶち壊す将臣の言葉に、望美はきょとんとした顔で将臣を見返した。
「お前、最近俺のこと避けてただろ」
「そっ、そんなことっ」
「そうか? あー、さてはお前、俺のこと意識しまくりってか」
「それはっ……………… その通りデス…」
図星をつかれて、望美は正直に白状してしまう。恥ずかしさのあまり、既に何度目かわからないほど赤くした顔を俯けた。
その時、気配が動いて、ふわりと薬草の匂いが鼻をくすぐった。直後、望美は将臣の腕にすっぽりと包まれていた。
「── !?」
「俺の用事も早いところ片付けて、お前の八葉やってやらねぇとな。んでもって、こっちもさっさと片付けて、元の世界に戻ろうぜ」
耳元で響く将臣の声は心地よく、甘やかな痺れにも似たくすぐったさが身体を走る。
「── うん、頑張ろうね」
望美はやっとそれだけ絞り出すように呟いた。
将臣はポンポンと望美の背中を優しく叩くと、おもむろに肩を掴んで身体を離す。
目の前には将臣の顔。
これから起こるであろう出来事を予感してか、望美の瞳が揺れ、鼓動が跳ねた。
(えっ、えっ、ちょ、ちょっと── !?)
望美の頭の中は、完全にパニック状態だった。
と、その時─── 将臣がはニッと笑うと、すっくと立ち上がった。
「さ、メシ食おうぜ」
「は?」
「メ・シ。あれ、お前晩メシ呼びに来てくれたんじゃなかったか?」
「そうだけど…」
「じゃ、行こうぜ」
将臣は望美の腕を引っ張り上げて立ち上がらせると、ひとり足音高く廊下を歩いていく。
「ま、将臣くんっ !?」
彼らしいといえば、そういえないこともなく。
ちょっぴり期待してしまった自分に恥ずかしさを感じつつも、ふっと苦笑を零す。
「もうっ、待ってよ! せっかく呼びに来てあげたのに、置いていく気っ !?」
そう叫ぶと、望美は将臣を追って、廊下を駆け出した。
その足取りは、羽根が生えたかのように軽やかだった。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
リハビリ第2作が、よそ様への提出作品だなんてっ(汗)
というわけで、『将臣阿弥陀企画〜狂風騒乱〜』さまへ出品したSSでございます。
「展示期間中は自サイト掲載不可」という規定もないようなのでUPしときます。
なんか展開が安っぽい少女漫画っぽいというか… いいのかこんなんで?
『傷跡』自体をテーマにすると、なんか暗くてヘビーな内容になりそうで…
ほのぼのが好きなあたしとしては、こうせざるを得なかったというか。
潜ってたんなら、そこまで酷い日焼けはしないだろう、というツッコミはナシの方向で(笑)
時期は「1周目終了後、2周目で将臣ルート進行中」の設定。
つまり、望美たんは『将臣=還内府』をまだ知りません。
もうすぐ戦場で剣を交えるなんて、思ってもいないことでしょう(笑)
【2005/12/30 up】