■Distance
春の日差しは、人を眠りに誘う。
望美は教室の窓際の席で、睡魔と闘っていた。
頭がカクンと落ちて、目を覚ます。それを何度も繰り返していた。
黒板とチョークがこすれ合う音、ノートの上を筆記具が滑る音、思い出したように説明を始める教師の声。
それらが暖かな陽射しと相まって、眠りの魔物は俄然その力を増す。
「あふ…」
望美はあくびを必死で噛み殺した。じんわり滲んだ涙が、板書する教師の後ろ姿をぼやけさせる。
目元を指で拭って、首をコキコキと回してみる。多少、眠気が覚めた。
まだ続く退屈な授業に、ノートの上に頬杖をついて何気なく窓の外に視線を移す。
青い空をひらひらと舞っている薄桃色。
(…… 桜、か……… 神泉苑や仁和寺、下鴨神社の桜も、今頃綺麗に咲いてるのかな…)
違う時空の春の景色を思い出し、望美は遠い目になる。
その時、感慨を断ち切るように終業を告げるチャイムが鳴り、望美の思考は異世界から引き戻された。
「… お前、今の授業寝てたろ」
後ろから声をかけられて、ギクリとする。
元の世界に戻ってきて早数ヶ月。
朝起きて、登校して、授業を受けて、帰宅する── 以前は当たり前だったそんな日常にやっと慣れた頃。
十六夜の月に誘われるように、少し遅れて戻ってきた──
「ま、将臣くん……」
後ろの席からにやりと意地悪そうな笑みを送っているのは、有川将臣、その人だった。
異世界で別れ別れになって、再会してみれば敵だった── そんな艱難辛苦を乗り越え、ただの幼なじみではない、愛する人としての絆が結ばれた。
望美はそう思っていた。確かに、将臣がこの世界に戻ってすぐには、そんな言葉を彼の口から聞いたけれど、ここ最近はそんな素振りも見えなくなった。
一緒に登校し、一緒に授業を受け、一緒に下校し、休日も時間が合えば一緒に過ごす── 以前と変わらぬ日々。
異世界のことも、彼との絆も、もしかしたら夢だったのか、とさえ思えてくる。しかし、将臣のそばが望美の一番安らげる場所であることだけは確かで、
夢でもいいやとすら思うようになっていた。
「…… バレてた?」
「あんだけ豪快に船漕いでりゃな」
「あ… あはは…っ」
望美は乾いた苦笑を返すしかなかった。
教室内はざわついていた。
今の時間で今日の授業はすべて終了。帰り支度を済ませると、一人二人と教室を去っていく。
将臣と望美も、他愛無い話をしながら鞄に勉強道具を突っ込み、いざ帰ろうと席を立った時──
「おーい、春日ぁ!」
呼ばれた方に目をやれば、廊下側の席の男子生徒が手招きをしている。
私?と自分の鼻先を指差す望美に、うんうんと頷いて「お客さんだよ」と立てた親指を廊下に向ける。
「誰だろ…? ごめん将臣くん、ちょっと行ってくるね」
持っていた鞄を机の上に置くと、望美は教室を横切り、廊下へ出た。
将臣はやれやれといった風に机に腰を下ろすと、望美の鞄の上に自分の鞄をドサリと置き、ゆったりと腕を組む。
視線は自然と廊下で誰かと話す望美に向けられた。
話している相手は教室の扉の影に隠れて誰だかわからない。が、望美の少し上向きの目線の位置からすれば、おそらく男子だろう。
望美は迷惑そうな顔で、ぱたぱたと手を振ったり、顎に手を当て考え込んだりしている。そのうち、拝むように合わせた手がちらりと見え、
大きな溜息を吐いた望美の姿がそこから消えた。どうやら、その男子生徒に何かを頼まれ、ついて行ったのだろう。
「ったく……」
将臣は眉根を寄せて呟くと、二つの鞄をまとめて持ち上げ、ふらりと教室を後にした。
屋上を吹く、まだほんの少し冷たさを感じる春の風が、望美の髪を弄っていく。何処からか巻き上げられたのだろう、桜の花びらが数枚舞っていた。
「あ、あのっ…、春日さんっ!」
「は、はいっ !?」
名前を呼ばれ、身体を硬直させる望美。呼んだ相手は、先ほど廊下で話した男子ではなかった。今まで同じクラスになったことのない、
まあ顔と名前くらいは知っている、という程度の男子生徒だ。
「あの… その… 俺……… 前から君のことが好きだったんだ」
男子生徒は顔を真っ赤にして、俯き加減にそう告げる。どうやら教室に来た男子生徒は、恋のキューピッド役だったらしい。
「はい?」
今までこういうシチュエーションに置かれたこともないわけではない。が、あまりにお約束なパターンに、
望美はきょとんとして気の抜けた返事をする。
「だから、その… 君さえよければ、俺と…… 付き合ってもらえないかな」
「付き合う、って…… えぇっ !? ちょ、ちょっと待って! わ、私、あなたのことよく知らないしっ!」
身体の前でブンブンと両手を振って、後ずさる望美。それを追うように、男子生徒の足が前に出た。
「だったら友達からでいいんだ。いろいろ話をしたり、休みの日にどこかに出かけたりして、俺のことを知って欲しい」
「で、でもっ」
後ずさり続ける望美の背中が、屋上と空とを区切る高いフェンスに触れ、カシャリと音を立てた。
「ご、ごめんなさい、わ、私、そういうのはちょっと…」
望美は背後のフェンスを後ろ手にぎゅっと掴んでいた。
別に相手の目がギラギラしているとか、鬼気迫る形相とかいうこともない。ただ、後ずさる望美に合わせて近づいてきただけなのだろう。
恐怖心は感じないが、追い詰められた状況に望美は少し戸惑っていた。
どう言ってこの場を逃げようと思案していたその時。
「それくらいにしとけよ」
屋上の出入り口に立つ人影に、望美はほっと胸を撫で下ろした。
「将臣くん…」
つかつかと歩み寄り、望美の横に立つ将臣。ちょっとだけ目が怖い。
「あ、有川くん…… 君は彼女のただの幼なじみなんだろ。邪魔しないでくれないか」
「『ただの幼なじみ』…か。ああ、確かにちょっと前まではな── だが、ちっとばかし事情が変わっちまってな」
訝しげな顔で将臣を睨みつける男子生徒。将臣も負けじと冷たく見据えている。
「きゃっ…」
急に将臣に腰を抱き寄せられ、望美は小さく悲鳴を上げた。
「こいつは俺のだからな、誰にも渡すつもりはねえ。……… そういう訳だから、悪いな」
将臣は一方的にそう言い放つと、望美を抱えるようにして屋上を後にした。
屋上に取り残された男子生徒は、あっけに取られたまま二人の姿を呆然と見送り、姿が見えなくなるとがっくりとうな垂れた。
「将臣… くん…?」
見上げた将臣の顔は、怒っているでもなく、ただ無表情に正面を見据えている。
目の前に広がるのは、何処までも広がる蒼い海。前もよく二人でこの海を眺めに来た。その頃と全く変わらない蒼さ。
学校からずっと腰を抱きかかえられたまま、望美はここに連れて来られた。無言で海を前に立ち尽くす二人の足元に、白い波が押し寄せる。
「お前さ、もうちょっと自覚してくれるか?」
将臣は海を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「自覚って……?」
望美のきょとんとした答えに、将臣は大きな溜息を吐いた。
「あのなぁ、あんな奴にホイホイついて行くなよ」
「けど、大事な話があるって言うから──」
「バカかお前は。そういうシチュエーションの時の話っていやぁ、ひとつしかねぇだろ」
「でも… そうじゃないかもしれないし」
将臣は再び大きな溜息を零す。
「お前、お人よしすぎ。そういうのはな、うっちゃってりゃいいんだよ」
声に怒気が混じる。それに気付いてハッとした将臣は、照れ臭そうに頭を掻いた。
「ま、とにかく── 俺をあんまりハラハラさせてくれるなよ」
「うん…… ごめん─── ひゃっ!」
少し身体をずらした将臣が、後ろから望美を抱きすくめた。触れ合う頬は、海風に吹かれていたせいか、ひんやりと冷たかった。
「明日は休みだし…… 朝からどっか出かけるか── たまには遠出してみようぜ」
「うん… そうだね」
望美は胸の前で交差された将臣の腕をぎゅっと掴んだ。
前と同じじゃない。ちゃんと変わっている。
── それは、二人の距離。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
久々の更新でございますっ!
十六夜ED後の将臣&望美SSをお届けいたします。
二人には何気ない日常の中で、まったりと愛を育んでいるといい。
けど、男子の間で結構人気ある望美ちゃんにヤキモキしつつ、
平静を装いながらも嫉妬メラメラで余裕をなくす将臣たん。
そんな妄想でございます(笑)
裏熊野SSを頭の中でねりねりしてる最中に、ふっと降りて来たネタを先に文字にしてみました。
学園モノの王道パターンではありますが、こんな二人に密かに萌え(笑)
あぁ、それをあたしの文章力が台無しにっ!(泣)
けど、将臣もモテると思うので、次は望美ちゃんにヤキモチ焼かせてみようかと思案中。
【2005/11/08 up】