■避雷針
「── おー、よく降るなあ」
秀吉は開け放たれた障子の向こうに身を乗り出すようにして空を見上げていた。
彼の身体越しに見える庭の草木は大粒の雨に叩かれ、痛々しく項垂れている。
吹き込んでくる湿った風がやけに冷たく感じて、ほたるは思わず身を震わせた。
「お姫さん、こっち来てみ?」
「え……」
「だーいじょうぶ、廂があるから濡れりゃしねえって」
雨に濡れるだけなら、どうということもないのだけれど──
心の中でひとりごちて、重い腰を上げて彼の隣へと立った。
空は墨を流したかのように黒く、まだ昼間だというのに日が暮れたかのように薄暗い。
来なければよかった、とほたるはこっそり嘆息する。
この邸に来た時は、まだ雨は降っていなかったのだ。
今外に出れば姫装束は無残にびしょ濡れになるだろうし、それに──
嫌な気配をひしひしと感じていた。
隣を見れば、意外にも空を見上げる秀吉の横顔が妙に嬉しそうに見えた。
「あの……秀吉殿は、雨がお好きなのですか…?」
「ははっ、好きってのとは少し違うぜ」
今の空模様とは真逆な、青天のような笑顔にドキリとした。
「雨は天からの恵みだ。
雨が降りゃあ、田畑が潤うだろ。
まあ、降り過ぎて鉄砲水でも出たら元も子もねえが、そこはほどほどに頼んます!ってとこだな」
なるほど、農民の出である彼らしい。
そうでなくとも一国の主ならば、民の暮らしを考えるのは至極当然のことだろう。
「確かに、そ──」
その時耳に届いた『兆し』に、ほたるは次の言葉を思わず飲み込んでしまった。
「ん?
どうかしたか?」
「い、いえ…っ、なんでもありません」
── 平静を保たなければ。
腹の底に力を込め、必死で何事もなかったように振る舞う。
しかし彼の訝しげな顔を見れば、必死の努力も無駄だったらしいのは明らかだった。
部屋の奥に戻ろうと、半歩下がった時だった。
チカッ!
目の奥を焼くような眩しい光が、一瞬だけ辺りを真っ白に染めた。
「── っ !?」
ほたるは反射的に顔を背け、ぎゅっと目を瞑ったまま手に触れたものに無意識にしがみつく。
直後、ドォォン、と地を震わせるような轟音が響いた。
「っ……」
「── もしかして」
すぐ近くから声が降ってきて、ほたるはゆるゆると顔を上げる。
そこには見開いた目をぱちぱちと瞬かせる秀吉の顔が、声と同じくすぐ近くから見下ろしていた。
「あっ」
しがみついていたのは彼の腕──
ほたるは痛恨の失態に慌てて手を離した。
── どうしよう、どう取り繕おう。
「あんた……雷が怖い、とか?」
「っ !?」
── 知られてしまった。
よりによって、一番知られたくない相手に。
障子は閉められ外の様子は見えなくなったが、バラバラと叩きつける雨の音が薄衣のように部屋をすっぽりと包んでいた。
「── 怖い思いさせちまった。
すまん!」
訪れた時に勧められた円座に戻るなり、秀吉はがばりと頭を下げた。
その勢いで、燭台の灯りがふわりと揺らめく。
「い、いえ…」
『忍びのくせに』と笑われこそすれ、まさか謝られるとは夢にも思っていなかったほたるは、ただ戸惑うばかりだった。
「怖いもんは怖いよなあ、うんうん。
女房衆の中にも『きゃー雷は幼い頃から恐ろしいのですー』とか言って抱きついてくる娘が──」
「え」
「あっ、いやいやいや、そういうこともあるかもしれんなーって話で!」
「……………」
どうせ抱きつかれて鼻の下を伸ばしていたのだろう──
容易すぎるほど容易に浮かんだ想像に、胸の内に今の空模様に似た黒雲がにわかに広がっていく。
「── 私は、幼い頃からというわけでは……」
「そんじゃ、何かきっかけでもあったのかい?」
「それは……」
どうして己は弁明めいたことを言おうとしているのだろうか──
悔しいことに、答えははっきりとはよくわからない。
けれど言葉が溢れ落ちていくのを止められなかった。
「……修行中、木に登っていた時──」
「雷が落ちたのか!」
「……ええ、隣の木に。
耳をつんざくような音と共に幹が裂け、炎が上がり……」
肌を刺す鋭い刺激と爆風、そして舞い散る火の粉の熱さ──
その時の光景が脳裡に蘇り、背中がゾクリと寒くなった。
痛みを感じるほどきつく唇を噛む。
「── よっぽど怖かったんだな。
こんなに震えちまって」
「……え?」
気づけば片手を彼に取られていた。
下から己の手を支える彼の大きな手のひらも、甲をそっと撫でられる感触も、とても温かくて──
「── っ、な、何をなさっているのですかっ」
我に返って、慌てて手を引っ込めた。
「ちぇー、手くらい触らせてくれたって……いや、すまん、悪かった!」
その時、チカッと外が眩く明滅した。
間髪入れず、耳元で思い切り太鼓を叩いたような爆音が鳴り響く。
「っ !?」
思わず耳を塞いだ。
「おー、近い近い!」
嬉々とした声がぼんやりと聞こえて、人の気も知らずに、と苛立った。
と、そっと両の手首を掴まれた。
塞いだ手がゆっくりと耳から離れていく。
「── なあお姫さん、雷が通り過ぎるまで抱きしめててやろうか?」
揶揄するでもない神妙な声音に一瞬頷いてしまいそうになったことに愕然としつつ、思い切り手を振り払った。
「っ、け、結構です!
遠慮いたしますっ!」
「おっと……オレとお姫さんの仲だろ?
少しは甘えてくれたっていいのに〜」
「……どんな仲かはあえて聞きませんが、確かに弱みを握られていますね」
「まーたお姫さん、んな淋しいこと言うなよ〜。
素直になっちまえって。
な?」
ほたるは大きな溜息を吐いて、しばし考える。
そして──
「でしたら……………………手を……」
「ん?」
「手だけ……お貸しいただけますか…?」
最後まで強がると思っていたらしい秀吉が、目を真ん丸に見開いた。
雷が苦手なことを知られてしまった今、これ以上取り繕う必要もない。
それに笑わずに怖さを認めてくれたこの人にならば──
そう、今は非常時なのだから。
そんな自己弁解をして、思い切ってそう告げた。
瞠目から一転、秀吉の顔にはみるみる笑みが広がっていく。
屈辱からか、それ以外の思いからか、ほたるはいたたまれなくなって深く俯いた。
「……お、おおっ !?
よ、喜んで!
手と言わず、胸でも腰でもどこだって貸しちゃうぜ!」
「い…いえ、手だけで結構です」
「そう言わず、もうひと声!」
「いえ、手だけで」
「あんた、ほんっと頑なだなあ……ほらよ」
腰を浮かしてにじり寄ってきた彼の、隣から無造作に差し出された腕。
── 何かに掴まっていれば、少しは気が紛れるはず。
それが秀吉殿の腕だというだけで……
そう自分に言い聞かせつつ、躊躇いがちに手を伸ばす。
バチンッ!
一瞬の閃光と、生木が爆ぜ割れたような衝撃。
さらには天地がひっくり返りでもしたかのような大きな爆音がほぼ同時に襲ってきた。
考える間もなく目の前の腕に縋るように抱きついて、荒ぶる雷神が早く立ち去ってくれることを願うことしかできなかった。
* * * * *
「── こんな天気の日には思い出すよなあ」
しみじみと呟く秀吉に、ほたるは恥ずかしさに身悶えした。
外は雨。
ゴロゴロと雷神の足音が徐々に忍びよってきている。
「わ、忘れてくださいっ!」
「忘れられるかっての。
雷嫌いの忍びなんて──」
「……呆れたのでしょう?」
「いいや、なんて可愛いんだろう、って思ったよ。
あん時、あんたを抱き締めるのを我慢するのに、どれだけの自制を強いられたことか!」
当時を思い出してか、くぅーっ!と悔しげな声。
それと共に彼の腕にぎゅうと締め付けられた。
その心地良さに、あの時はもったいないことをしてしまったのかもしれない、と思い返す。
「……ふふっ」
彼の逞しい胸元に、頬を擦り寄せた。
「ん?」
「いえ……雷が通り過ぎるまで、しっかり抱き締めていてくださいね」
一番安心できるこの場所なら、怖いものなんてないのだ。
〜おしまい〜
スキンシップお題ったーにて、
『秀ほたへのお題は「強く」「腕を抱き締める」。キーワードは「罰」です。』
というのが出ましたので。
キーワードに関してはなかったことにしてください(笑)
勝手に雷嫌いにしてごめんよ、ほたるちゃん。
【2013/06/01 up】