■水面に揺れる

 琵琶湖に浮かぶ小舟の上。
 目の前には、ここに来る前に城下の市で買ってきた饅頭を頬張る秀吉がいた。
 ちゃぷん、と小さな波音にふと我に返り、どうして私はここにいるのだろう、と自問する。 それはいつもほど強引でもなかった彼の誘いを何故か受けてしまったからに他ならない。
「お姫さんもどうだい?」
 口をもぐもぐしながら、身を乗り出して饅頭を差し出す彼に、思わず身構える。
「い、いえ、私は……結構です」
「まあ、そう言うなって。 旨いから食ってみ?」
 手首を掴まれ、手に饅頭を押し付けられた。 こういうところは相も変わらず強引だ。
 顔を背けて、げんなりと溜息を吐く。
 舟縁の向こうに広がる湖面に日差しがきらめいて、やけに眩しかった。
 眩しさに視線を外すと、そこに舟底が見えた。
「── っ!」
 かっ、と頬が熱くなった。
 先日、この同じ舟底に寝転がり身を寄せ合った時のことを思い出してしまったからだ。
 さっき掴まれた手首までが燃えるように熱く疼いているような気さえする。
「ん? どうしたお姫さん、顔が赤いぞ?」
「な、なんでもありません」
「ああ、今日は日差しが強いから、その衣装じゃ暑かろうな」
 確かに重ね着した姫装束の下で肌はじっとりと汗ばんでいる。
 渋々一口かじった饅頭が渇いた喉に引っかかって、飲み込むのに苦労した。
「ぷはぁ、うめぇ!」
 瓢箪を呷って喉を鳴らした秀吉が満足そうに口を拭う。
「まさか……」
「おう、こりゃあいい酒だ!  ……と言いたいところだが、残念ながらただの水だよ」
「そう……ですか」
 どちらにせよ準備のいいことだ、と妙な感心をしつつ、後は適当に話を聞き流しながら饅頭を片付けることに専念することにした。
「そりゃあ、オレだって『いい酒といい女が揃った舟遊び最高!』とか思ってたさ」
「……はあ」
「けど『何かあった時に姫様をお守りできなかったらどうするんですか!』って佐吉に怒られちまってさ。 このオレが瓢箪一本の酒で前後不覚になるかっての!」
「……そうですか」
「それに真面目くさった顔でこんなことも言うんだぜ。 『秀吉様、姫様を酔わせて不届きなことをなさるおつもりではありませんよね?』って」
「んぐっ !?」
 聞き流していたはずなのに── 思わず飲み込んだ饅頭は喉を塞ぎ、息ができなくなって気が遠くなりそうになった。
「うわっ大丈夫かっ !?  これを飲め!」
 秀吉が急に動いたせいで舟が大きく揺れ、湖に放り出されそうに思えて咄嗟に目の前の彼の胸元をぎゅっと掴んで握り締めた。
 口に押し付けられた瓢箪から注がれる水が、喉の饅頭をようやく押し流してくれた。
 むせて咳き込む苦しさを、背中を強くさする手が和らげてくれていた。

「── お見苦しいところを……申し訳ありません」
 ようやく咳が治まって、人心地ついて。
 だが、己の秘密を知るこの人の前で更なる失態を見せるなど── 悔しくて知らず唇を噛む。
「いいっていいって!  オレとお姫さんの仲じゃねえか」
 にこにこと人好きのする笑みを浮かべているのがまた腹立たしく思えてきた。
「まあ、なんにせよ、お姫さんが無事でよかった」
 そう言って秀吉は瓢箪の水を呷り──
「あ」
「ん?  ……おおっ!」
 視線を注いでいる場所に気づいた彼は、宝物を見つけた少年のような目で手にした瓢箪を見つめ、
「オレが飲んで、お姫さんが飲んで……お姫さんの可愛い唇が触れたところからまたオレが飲んで── くーっ、できれば直接口移しで!」
 頭に血が上り、噛み締めた奥歯がぎりりと鳴った。 あの忌まわしき瓢箪を湖に投げ捨ててやろうと手を伸ばす。
 するとまだ感触の消え切らない手首を再び掴まれて引っ張られ、彼の胸の上にどさりと倒れ込んでしまった。 すかさず背中に回された腕で押さえつけられ、懸命に手を伸ばしても彼が掲げる瓢箪には指先すら届かない。
「駄目駄目〜、これはオレの宝物!  お姫さんにだって渡しゃしねえぜ」
 その声が、右の耳と左の耳で聞こえ方が違うのにはたと気がついた。 左の耳は彼の胸に押し当てられているせいで、身体に直接響いてきたからだ。
 状況的には、前と同じだ。 舟底に寝転がっているということは。
 ただ、決定的に違うのは、前は距離は近かったけれど、ふたり仰向けで空を眺めただけ。 今は向かい合っている── 抱き合っていると言っても間違いではない。
「っ、放してくださいっ」
 もがけばもがくほど、背中の腕は強く締めつけてきた。
「── これ以上は何もしねえから、しばらくじっとしててくれねえか?」
 いつもと違う、やけに神妙な声に、迂闊にももがくことを忘れてしまった。
 と、胸に押し付けたままの耳に聞こえてくる音があった。 平常時を知らなくても明らかに早いとわかる、彼の鼓動。
 女好きで、無遠慮に近づいてくる彼の意外な一面を垣間見た気がして、思わず笑い出しそうになった。
 少し冷静になると、己の鼓動もまた彼と負けず劣らず早鐘のように打っていることに気づいた。 この密着した状態では彼に知られてしまう── 少しでも離れようと身じろぎすると、ぎゅっと抱き締められた。
 たぶん、この感覚は嫌ではない、気がする。
 試しに目を閉じて見ると、小舟の揺れと相まって、心地良いまどろみに誘われそうになった。
 ── っ、流されては駄目だ!
 彼の胸に置いた手に必要以上に力を込めて身体を起こす。 ぐえ、と潰れた蛙のような声を出しつつ、意外にもすんなりと解放してくれた。 ちぇ、と頭を掻く様子は不服そうではあったけれど。
 少し乱れた衣を整えて、
「もう……戻りましょう」
「んー、ちっと物足りん気もするが、楽しかったから良しとするか。 また今度な!」
 屈託のない笑みでそう言われると、否、と言えなくなって、微かに頷いた。
 秀吉が櫂を手に取り、力強く水を掻けば、小舟は滑るように動き出す。 頬の熱を冷ましてくれる風は心地良く、小舟よりも頼りなく心が揺れていた。

〜おしまい〜

 診断メーカー「2人でじゃれったー」にて
 秀ほたお題『戸惑いながら 間接キス。』
 というのが出まして。
 『戸惑いながら』はどこ行った?って感じですが(笑)

【2013/04/22 up】