■閑居夜宴

 静かな夜だった。
 普段は快活で賑やかな秀吉も、最愛の妻であるほたるの酌を受け、静かに盃を空けるのを楽しんでいる。
 そんな彼が、突然ふっと笑った。
「……?」
 ほたるの身じろぎが部屋の空気に伝わったのか、燭台の炎が微かに揺れて、壁に映った影もゆらりと揺れた。
「思い出してたんだよ── 安土にいた頃のことをな」
 そう言って、盃に残った酒を一気にくいっと呷る。
 ほたるは僅かに身を固くした。
 出会いこそ最悪ではあったけれど、いつしか想いを寄せる相手となっていた秀吉。 その彼を己の手で傷付けたことは心の傷となり、未だ完全には癒えてはいなかった。 彼の腕の肉を裂いた時の感触は、今でも時折手に蘇る。
「いやあ、楽しかったよなぁ」
 ははは、と彼は豪快に笑うけれど、あの時の辛さを反芻してしまったほたるは微笑む気にすらなれなかった。
 酒器を置き、彼へと手を伸ばす。 触れた腕の衣の下には、あの時の傷が痕となって残っているのだ。
「おっ?」
「……え?」
 慌てて手を引っ込める。
「なんだ、押し倒してもらえると思ったのに」
「ちっ、違いますっ!」
「えー」
 拗ねた子どものように、秀吉は唇を尖らせる。
「しっかし、あん時は惜しいことしたよなー」
 その一言で、一瞬にして恥ずかしい記憶が蘇ってきた。
 くのいちたるもの、任務のためなら女であることを武器にして男を誘惑し、手なずけることすらやらねばならないこともある。
 正体を知られているという危機感もあって、秀吉に対して試みた。 不意を狙って押し倒そうとしたのだが、簡単に策に嵌るだろうと思った彼に諭されてしまったのだ。 今思えば、手なずけようとして、逆に手なずけられてしまったようなものかもしれない。
「真っ赤になっちゃってー。 かーわいいっ」
「っ…」
「あん時あんたの誘いに乗ってたら、もっと早くオレんとこに嫁に来る気になったかもしれんだろ?  それに──」
 伸びてきた彼の手が、そっとほたるの頬に触れた。
「── いや……あんたは笑った顔が一番だからな」
 秀吉は今ほたるが考えていることを、全て察しているのだろう。 彼はそういう勘の鋭い人だ。
 にっ、と笑った秀吉のおどけた顔に、思わず釣られて微笑んでしまった。
「そうそう、その笑顔!」
 嬉しそうな顔で秀吉はもぞもぞと居住まいを正してから、ぱっと両腕を広げた。
「さあ、どうぞ!」
「……はい?」
「押し倒すんでも、胸に飛び込んでくるんでも、どっちでも!」
「っ、遠慮しますっ」
「えー、そう遠慮せずにー」
「お断りしますっ」
 こんなやりとりも、晴れて夫婦となった今では少し懐かしい。
「じゃあオレが押し倒しちまお」
「……お好きなように」
「そんじゃ、お言葉に甘えまして」
 肩に置かれた手に押され、ゆっくりと背中が床に着いた。
 こうして彼の温かい心に身体ごと包まれているうち、次第に心の傷も薄らいでいくに違いない──

〜おしまい〜

 ラストあたり、ちょっぴし大人風味。
 こういうの苦手な方、すみません。

【2013/04/17 up】