■夏の名残り 冥加

 そろそろ紅葉の話題が出始める頃──
 冥加は彼には珍しく焦った様子で天音学園を出た。
 目的地は学園に程近い山下公園。 もう約束の時間の12時を30分ほど過ぎていた。
 待ち合わせの場所にあるベンチに座る人影を確認した冥加は走っていた足を緩め、ゆったりと歩き始める。 焦っている自分を見せたくないとは── 今まで散々醜態を晒してきたというのに、まだ自分を取り繕おうとしている自分に気づいて、口元に自嘲の笑みが浮かぶ。
 ベンチの人物が近づく彼に気づいて、笑顔を向けてひらひらと手を振った。
「── 遅れてすまなかったな」
「ううん、大丈夫。ついさっきまでお散歩中のワンちゃんと遊んでたから」
 楽しそうに笑っている彼女の隣に腰を下ろす。
「仕事……忙しそうだね。ちゃんとご飯食べてる?」
 顔を覗き込みながら、彼女が問う。心配そうなまなざしで。
 食べていないわけではないが、不規則であることは確かだった。 天音学園の生徒であり、経営陣のひとりでもあるという特異な二足の草鞋を履く彼は多忙を極めているのだから仕方がない。 食べるのも決まって外食。 決して身体に良い食生活ではないだろう。 まだ敵対している(といっても冥加が一方的に敵視していただけだったが)頃にも彼女から野菜ジュースを差し入れられたことがある。
「お弁当、食べよ?」
「あ……ああ…」
 脇に置いた大きな袋から筒状のプラスチックのケースを取り出して、差し出してくる。 中身は冷やしたおしぼりである。
 走って汗ばんだ手を拭うと、それと交換にプラスチックの箱が手渡される。 蓋を開けると、海苔を巻いたおにぎりと、色とりどりのおかずが綺麗に並んでいた。
 いただきます、と手を合わせる彼女の声を聞いてから、黄金色の卵焼きを口に入れた。 ほんのり甘い優しい味── 彼女の人柄をそのまま写し取ったような優しさだ、と冥加は思っている。 海外暮らしが長く、外食ばかりだというのに、彼女の作る料理は不思議と彼の口に合った。

*  *  *  *  *

 彼女の明るい声を聞きながら弁当を平らげて。
 弁当箱を袋に仕舞っていた彼女は、今度は小さな紙袋を取り出した。
 はい、と手渡され、中身を取り出す── 入っていたのは小さな布の袋だった。
「── 何だ、これは…?」
「ポプリ作ってみたの。 ほら、前にラベンダーをくれたでしょ?」
 差し入れを貰いっ放しにしておくのが嫌で、花屋で目についたものを適当に贈ったことがあった── そういえば、紙袋を開いた瞬間からいい香りが漂っていた。
「ラベンダーの香りはね、リラックス効果があるの。 仕事で煮詰まってる時とかに嗅いだら捗るかもしれないし、寝る前だったらきっとぐっすり眠れると思うんだ」
 ニコリ、と笑う彼女。
 手元の袋を見ながら、そうか、とだけ返した。
 何気なく選んだ花ではあったが、あの花の香りがコンクール中の彼女をリラックスさせていたのだろうか。 もしもあの伸びやかな演奏を生む役に立ったのだとしたら、これほど嬉しいことはない。
「あっ、べ、別に、いつも持ち歩いてほしいっていうわけじゃないの!  男の子にポプリっていうのもどうかと思うし…… 思い出した時に手に取ってもらえれば十分だからっ!」
 何を慌てているのか、彼女は早口で捲し立てる。 あまりの慌てっぷりが可笑しくて、冥加はふっと口元を緩めた。
「── いや……ありがたく使わせてもらおう」
 よかった、とへらりと笑う彼女。 バッグの中からもうひとつ同じような紙袋を取り出した。
「こっちは枝織ちゃんに。レースふりふりの女の子仕様だから」
 再び、はい、と差し出された手にハッとして、冥加は思わず彼女の手首を掴んで引き寄せる。 きゃっ、と小さな悲鳴を上げた彼女の手から紙袋が放れて、軽い音を立てて地面に落ちた。
「ど、ど、ど、どうしたのっ !?」
「それはこちらのセリフだ…… この傷はどう──」
 彼女の細い指先に見えた一筋の赤。 引き寄せて目を凝らすと──
「そ、それは寮を出るまで譜読みしてて、赤のサインペン使ってたから……」
 赤い筋は傷などではなく、サインペンの先がかすって色を残しただけのものだった。 知らず深く長い溜息が漏れた。 こんなにも強く何かを案じ、これほど安堵したことがこれまであっただろうか。
「……肝を冷やさせるな── 料理することを禁じねばならないところだった」
「だだだ、大丈夫だよ! それよりもっ……」
 視線を落とすと、彼女の顔がすぐ間近にあった。 腕を引っ張ったせいで胸元に倒れ込んできているのだから当然ではあるが。
「み、みんな見てるし……」
 気がつけば、公園を散策する人々がこちらを見てクスクス笑いながら前を通り過ぎていく。
「……何か不都合でもあるのか?」
「ないけどっ! でも、恥ずかしいんだってば」
 彼女は真っ赤に染まった顔をふいっと背けた。 ふわり、と柔らかそうな髪が揺れる。 その途端、思い出したようにラベンダーの香りが鼻をくすぐった。
「……お前も、同じ香りを纏っているのだな」
「えっ?  ……あ、ラベンダー?  うん、そうかも。 部屋もずっとラベンダーのいい香りがしてるし」
「そうか…… 確かに、この香りは安らげるかもしれないな」
 ふ、と笑みを浮かべた冥加は彼女の身体を抱き寄せるわけでもなく、腕を掴んだままの状態で彼女をすぐそばに感じながら、 しばらくの間ラベンダーの香りに包まれることに没頭した。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 二次作家さんなら誰でも一度はやるであろう、冥加のラベンダーネタ(笑)
 ええ、野菜ジュースを貢ぎまくったうちのかなでちゃんの部屋は、
 一面のラベンダー畑状態です(笑)
 きっと他の方のかなでちゃんも同じ状態ではなかろうか、と。

【2010/03/04 up/2010/03/15 拍手お礼より移動】