■誘惑の歌 東金

 ある日の昼下がり、星奏学院の正門前に哀愁を帯びた妖艶なメロディが鳴り響いていた。 オペラ『カルメン』のアリア、『ハバネラ』である。
 夏休み中にもかかわらずわざわざ登校してきた大勢の女子生徒たちが人垣を作り、目をハート型にしてぽぅっと熱に浮かされたような顔で一点を見つめている。
 そして人垣の中のステージで熱い視線を一身に浴びているのは『神戸から来た王子様』こと、神南高校管弦楽部部長・東金千秋だった。 キーボードが出すピアノ音の伴奏に乗せて奏でられるソロヴァイオリンの音色はスピーカーで増幅され、ぐるりと周りを取り囲む女子たちの心をがっちりと掴んでいる。
 コンクール出場のため菩提樹寮に滞在するようになって以降、時々開かれる彼らのライブは徐々に増えていった女性ファンが押し寄せる一大イベント化しつつあった。

*  *  *  *  *

 部員たちが機材の撤収を始めると、観客たちは名残惜しそうに一人、また一人と去っていった。
 崩れていく人垣の中から姿を現したのはひとりの少女── 小日向かなで。 これから練習なのか、それとも練習した後なのか、手にはヴァイオリンケースを持っている。
 ぽやーんとした夢見心地のような顔で立ち尽くしている彼女に思わず苦笑が漏れる。
 ── まあ、ぽやーんとしてるのはいつものことか。
 心の中でひとりごちて苦笑を深めた東金は、つかつかと彼女に近づいた。
「── どうした?  感動しすぎて声も出ない、か?」
「あ……はい、すっごく素敵でした!」
 いつもながらの素直な反応だ。
「あの……最後の『ハバネラ』、ソロ部門用の曲ですか?」
「いや、あれはライブ用だ。 ライブでは誰でも一度は聞いたことがあるような有名曲のほうが盛り上がるからな」
 すると彼女はふぅん、と不満げに唸った。 東金の片眉がぴくりと上がる。
「……なんだ?」
「いえ、あんなに素敵なのに、なんだかもったいないなあって。 なんかこう、色気があるっていうか──」
 彼女の一言に、東金は思わず吹き出した。
「色気があって当然だ。 『ハバネラ』は、牢送りになったカルメンが逃亡するために、護送するドン・ホセを誘惑する時に歌う歌だからな。 色気がなきゃ、誘惑なんてされないだろう?」
「まあ、そうですけど……」
「ハッ、色気皆無のお前には理解できないだろうがな」
 これにはさすがの彼女もカチンと来たらしい。 きゅっと眉根を寄せ、険しい表情になる。
 そんな彼女の顔に、東金はぐいっと顔を近づける。 彼女の目を覗き込むようにして、
「── 色気が欲しいなら、恋に落ちてみろ。 なんなら、この俺様が相手になってやってもいいぜ?」
 ニヤリ、と妖しく笑いながら、囁くように言い放つ。
 と、彼女もまたニヤッと笑う。 なぜか勝ち誇ったような笑みに見えたのを、東金は不思議に思った。
「だったら効果ありませんね、その方法」
「……どういうことだ?」
「だって私、もう恋してますから♪」
「っ !?」
 ぴきん、と一瞬にして固まる東金。 彼の頭の中はひとつの疑問で埋め尽くされた。 すなわち、『彼女の恋の相手は誰 !?』ということに。
「じゃあ、私、これから練習なので」
 ぺこりとお辞儀をして、校舎の方へと向かうかなで。 あ、と思い出したように声を上げ、足を止めた彼女はくるりと振り返り、
「東金さん、明日のお弁当のリクエストありますか?」
「い、いや……」
 にっこりと笑った彼女は踵を返して、再び校舎の方へと歩き出す。 東金は彼女の後ろ姿をただ呆然と見送ることしかできなかった。
「── 千秋も大概鈍感やね」
 ふいに聞こえた声に振り返ると、呆れたような顔の親友がいて。 その向こうで笑いを必死に噛み殺しながら機材を片付けている部員たち。
「……蓬生、誰が鈍感だと?」
「千秋の誘惑は成功したのか、失敗したのか……ともかく小日向ちゃんの方が一枚上手やわ」
 苦笑しながら揶揄する土岐を、東金は渋い顔で睨み付ける。
 その後、当分の間『小日向かなでの恋の相手』について頭を悩ませることになってしまった東金だった。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 あー、すみません、リハビリ中です(汗)
 ちょっといろいろと見失ってます。

【2011/09/23 up】