■熱中症 東金

 昼下がりの森の広場に響くのは、重なり合った弦のハーモニー。 いつもならジージーと喧しく鳴いている蝉たちがひっそりと大人しくしているのは、美しい音色に聞き入っているからなのかもしれない。
 奏でているのは星奏学院の5人。 一際大きな木の下にできた木陰から、エルガーの『威風堂々』がそのタイトル通りに堂々と重厚に鳴り響く。
 少し離れた木陰にある石のベンチで冷たい飲み物片手にその光景を眺めているのは神南の2人。 セミファイナルで敗退し、ソロ部門出場の東金も優勝を手にした今、地元神戸に帰るべきところではあるが2人はまだ横浜にいる。 それは、最後まで見届けなければならない理由が東金にできたからである。
 ふと、東金の眉間に微かに皺が寄る。 理由となった張本人── かなでの音が僅かに揺らいだせいだ。 彼女はぎっと歯を食いしばって持ちこたえたが、不安定さは続いていた。
 個人的に練習を見てやっているというのに、無駄にするつもりか── 苛立ちに舌打ちをした東金が、はっと息を飲んで立ち上がる。
「── 千秋?」
 怪訝な顔で見上げた土岐は、自分の方を一瞥することもなく無言で突き出されたペットボトルを受け取ってやり、そのまま親友の行動を見守った。 ゆっくりと歩を進め始めた東金は、駆け出す一歩手前までスピードを上げて演奏者たちの背後に回り込む。
 木陰を一歩出れば、真夏の日差しが容赦なく肌を焼いた。 僅かに吹く風はアスファルトの上より幾分マシとはいえど湿気を含んだ熱風で、感じる不快指数にそう変わりはない。 じわりと嫌な汗が身体に纏わりついている。
 演奏が終わり、それぞれが楽器を下ろした時だった。 かなでの身体が、演奏中の彼女の音を体現するかのようにぐらりと揺れた。
 からん、と軽い音を立てて、弓が地面に落ちた。
 直後、ざっ、と地を踏みしめる音。
 くたりと力を失ったかなでの背中は東金の胸に抱き止められ、彼女の手から離れたヴァイオリンのネックはしっかりと彼の手に握られていた。
「どうした、かなでっ !?」
「小日向 !?」
「大丈夫かい、ひなちゃん !?」
「小日向先輩っ !?」
「── 馬鹿か、お前らは。 木陰とはいえ、このクソ暑い中に長時間いれば、倒れて当然だろう?」
 東金は口々に彼女の名を呼ぶ男どもを睨みつけ、忌々しげに吐き捨てる。
 音楽室は今日は使えないし、練習室は狭いし、寮は防音が── 次々聞こえる言い訳に、東金の口から漏れるのは苛立った舌打ちだった。
「おい、如月」
 ヴァイオリンを握った手を突き出している東金が何を言いたいのか理解したのだろう、如月 律がヴァイオリンをしっかりと受け取った。
 ちょうど木陰だったのが幸いだった。 東金は支えていたかなでの身体をゆっくりとその場に横たえる。 今は服が汚れるだの気にしている状況ではなかった。 といっても青々とした草が絨毯代わりになって、そう汚れることもないだろうが。
 それから東金は彼女の腰を少し持ち上げ、背中に手を差し込んだ。 プチッ、と微かな音がして、彼女の制服の胸元が弾けるように不自然にたわむ。
「ちょっ !?  お前、何してんだよっ!」
 東金に飛びかかろうとした如月響也の肩を掴んで制止したのは榊 大地だった。
「落ち着け、響也。 こういう場合の応急処置としては適切だよ。 身体を少しでも締め付けから解放してやらなければならないんだ」
 医者の息子であり、自身も医者を目指しているだけのことはある。 榊は真剣な顔でそう言うと、開けたケースの中にヴィオラを収め、畳んで置いてあったタオルを取り上げた。
「── 土岐、悪いがそれをくれるかい?  俺のはスポーツドリンクなんだ」
 コンビニの袋をガサリと鳴らして取り出した青いラベルのペットボトルを見せながら指差したのは、そばまで駆けつけていた土岐の手元。 東金から受け取ったまま持っていたミネラルウォーターのペットボトルだ。
 榊は半ば奪い取るようにして受け取ったペットボトルの中身をタオルに吸わせて東金に差し出す。 東金は水が滴るそれをかなでの首筋にそっと宛がった。 榊はメンバー全員分の飲み物が入っているらしい袋からもう1本ボトルを取り出し、かなでの脇の下にそっと挟ませるように置いた。
「医者の卵の榊くんはともかく……船舶免許取るのに応急処置勉強したんが役に立ってよかったなぁ、千秋」
「蓬生── しゃべっている暇があるなら、さっさと車を取って来い」
 ギロリと睨まれた土岐はひょいと肩を竦め、
「……ここからやったら、近いのは裏門やね」
 諦めたように手を上げた土岐が眩しい日差しの中を気だるげに歩き始めたのを、皆がじれる思いで見送った。

*  *  *  *  *

「── ん……」
 弱々しい呻き声が聞こえたのは、土岐が森の広場から姿を消して数分後のこと。
 ゆるゆると開いたかなでの目が、はっと驚きに見開かれた。 気がついたらたくさんの顔が自分を覗き込んでいたのだから、驚くのも無理はない。
「え……あ、あの……私……」
「暑さにやられて倒れたんだよ、ひなちゃん」
 柔らかい笑みを浮かべる榊を、東金は鋭い視線で一瞥する。 そのまま無言でかなでの背中と膝の裏に腕を差し込んだ。
「きゃっ !?  あ、あのっ!」
 急な浮遊感に悲鳴を上げたかなでをじろりと睨み、
「……おとなしくしてろ、車まで運んでやる」
「え、で、でも、練習が……」
「いや、今日は解散だ。 小日向は寮に戻って休め。 他は各自、涼しい室内で個人練習をすること」
 答えたのは律。 普段通り、テキパキと指示を出す。
 今更そういう指示を出すくらいなら、最初から屋内で練習しろよ── 東金の口からそんな思いの詰まった溜息が漏れた。
「── 如月、明日からの練習に使う部屋を確保しておけ。 それから如月弟、お前は小日向の荷物を寮に運べ」
「なっ !?  お前らどうせ車なんだろ!  だったら──」
「悪いが俺の両手は塞がってるんでな」
 文句を言う響也にニヤリと笑い、再びかなでを持ち上げようとする。
「あ、あのっ、私、自分で歩けますから!」
 ぐいぐいと── といっても身体に力が入らないのか、ずいぶんと弱い力ではあったけれど── 胸を押してきて自分で立ち上がろうとする彼女に敬意を表し、東金は抱え上げるのをやめてやった。 代わりに肩を支えて立ち上がらせてやる。
「あの、迷惑かけてごめ──っ !?」
 アンサンブルのメンバーに律義に頭を下げようとしたかなでが、突然自分を抱き締めるようにがばっと胸元を押さえた。 胸を守っているはずの下着が外れているのに気付いたのだ。 暑さのせいではない朱が彼女の顔に広がっていく。
「どうした?」
 わかっていながら、しれっと訊いた。 応急処置とはいえ、彼女の困惑の原因を作ったのは東金自身だ。 吹き出しそうになりながら、制服のベストを脱ぐ。
 胸元をガードしながらブンブンと頭を横に振るかなでが、くらりとよろめいた。 それを支えつつ、肩にベストをかけてやる。 草の上に転がったペットボトルをひとつ拾い上げ、かなでの手に持たせた。 そのまま彼女の腰に手を回し、行くぞ、と一声かけて歩き始めた。

*  *  *  *  *

「── 運動部でもあるまいに熱中症で倒れるとは、お前はコンクールで優勝する気があるのか?」
 森の広場を横切り裏門へと向かいながら、東金はかなでに苦言を呈す。
「え、でも……」
「最適な練習場所を選ぶのも、自己管理のひとつだと思うが?」
「はい……ごめんなさい……」
 こんなときに追い詰めるような真似をしたいわけではないのだが、つい口から出てしまう。 掻き合わせたベストの胸元でペットボトルを握り締めながら殊勝に頭を下げた彼女がなぜかくすくすと笑い始めて、東金の眉がぴくりと跳ね上がった。 寮に戻る前に病院に寄った方がいいかもしれない。
「ふふっ、『熱中症』で思い出しました」
「……何をだ?」
「この間、差し入れに来てくれた友達が言ってたんです。 『熱中症』ってゆっくり言ってみて、って」
 その時のことを思い出しているのか、かなでは相変わらずくすくすと笑い続けている。
 ── ははぁ、なるほど。
 彼女の口調がいつもより緩慢だったせいもあって、何度もその言葉を反芻までもなくピンと来た。 腰に回した腕に力を込め、彼女の顔の前に屈み込む。 何かをしゃべりかけた口を塞いでやった。
「── なっ、なんなんですか、いきなりっ !?」
「いきなりも何も、そういうことなんだろう?  そんなに遠回しにねだらなくても、いつでも好きな時にしてやるぜ?」
「ね、ねだってませんっ!」
 一応反論しておいて、かなでは俯けた真っ赤な顔にまだかろうじて冷たさの残るペットボトルを押し当てる。
もう……これじゃ熱中症じゃなくても倒れます…っ
 余りに可愛らしい反応に、東金は吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
「キスのたびに倒れられちゃ困る……ちょうどいい、寮に帰ったら特訓だな」
「えええぇぇっ !?  それは私が困り── きゃっ !?」
 今度こそ問答無用で抱え上げ、向かうは裏門。
 ついさっき倒れた割には元気よく暴れるかなでに構うことなく進めば、門の外に停まった見慣れた車の中で、親友が呆れた苦笑を浮かべているのが見えた。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 ご、ごめんなさい(汗)
 書き始めてから数日抱えてると、なんかもう自分で自分が何を書いてるのか
 よくわからなくなってきてまして(汗) 勢いって大事!
 テーマはタイトルのとおり『熱中症』。
 某診断メーカーにあったやつが頭にこびりついていて、
 (『熱中症』をゆっくり言う→『ねっ、チューしよう』)
 考えてるうち「かなでちゃんのブラのホックを勝手に外す東金さん(Notエロ)」
 というのが浮かびまして。
 そしたらこんな話ができあがりましたとさ。
 ちゅーしてないで休ませてやれよ、東金さん(笑)
 そして途中から完全に空気になってしまった星奏チームのみなさん(笑)

【2011/07/20 up】