■茜色の時間
目の前の海は沈みゆく夕陽に照らされ茜色に輝いていた。
朝から一日中横浜の街を堪能し、最後に訪れた山下公園。
ようやくうだるような暑さが少し和らぎ、数を増した散策の人々が行き交う中、海に張り出した展望スペースの手すりを握るかなでの手に力がこもる。
本当なら自分が案内しなくてはならないのに──
仮にも『横浜在住』なのだから。
しかし田舎から出てきてすぐにコンクールのための練習に明け暮れることになったかなでの『横浜』は寮と学校周辺のほんの小さな地域だけ。
今日だってずっとエスコートしてもらってばかりなのが申し訳なくて。
彼を独り占めする時間が楽しければ楽しいほど、だんだん悔しくなってきて。
ふと見上げた隣に佇む端正な横顔。
満足げに海を見つめている瞳に、かなでは思わず唇を噛んだ。
手を伸ばせば触れられる位置にいられるのも、残り僅か。
『激動』と称するにふさわしい夏が終わると同時に彼は本来の居場所──
遠く離れた神戸に帰ってしまうのだ。
このままこうしてずっと見つめていたい、そう思った瞬間、じわりと視界が滲んだ。
直後、何かが頬をくすぐりながらすぅっと流れ落ちていった。
* * * * *
たった一月程度でずいぶんこの街に詳しくなったものだ──
徐々に赤を濃くしていく水面を見つめながら東金はニヤリと笑った。
当然コンクールが最優先の横浜滞在ではあったが、楽しみを求めていろいろとリサーチしては出かけていた。
単なる文字情報だったものが実体験となるのは面白い。
その面白さを共有するのが彼女だから、さらに面白味が増す──
自分の楽しみのためのリサーチは、気がつけば彼女が喜びそうなものを探すリサーチに変わっていた。
今日だって十分に満足させた自信がある。
ふと、東金は隣に視線を向けた。
その瞬間、ドキリともギクリとも判別できない心臓の高鳴りに襲われたのだ。
茜色に染まるかなでが自分を見つめていた。
彼女は慌てて顔を逸らしたけれど、間違いなく頬に濡れた跡が。
自分が今日一日の満足感に浸っている間に、隣で彼女は静かに泣いていたのだ──
なんて綺麗な泣き顔なんだろう。
目の前の凪いだ海とは対照的に、東金の心の中はざわめき立っていた。
何を泣いてるんだ、と揶揄するのは簡単だけれど、そうしない程度の冷静さは持ち合わせていた。
彼女の涙の理由なんて明白すぎるほどに判っているのだから。
神戸から横浜まで、たかが2時間半。
毎週末にでも顔を見に来てやろうなどと企んでいるのに、彼女はそう楽観的には考えられないらしい。
── 可愛いヤツだな。
迫る別れに涙を流してくれる彼女が愛おしくて、抱き寄せて口付けたくなる衝動が湧き起こってくる。
普段の自分であれば、衝動に忠実に行動していただろう。
だが人目のある場所でそんなことをして、せっかくの楽しい一日の締めに彼女に拗ねられでもしたら堪ったものではない。
それだけではなかった。
毎日顔を合わせることのできる日々が終わるのを寂しく思うのは自分も同じ。
彼女の唇の甘さを味わうのは容易いことだが、口付けたが最後、二度と手放せなくなるような気がした。
強引に神戸へ連れ帰ってしまいかねない。
それは決して彼女の本意ではないのだから。
躊躇った挙句、東金は必死に顔を逸らしながら手すりにしがみついているかなでを背中から抱き締めることにした。
彼女は一瞬身を固くしたものの、しばらくすると手すりから離れて胸に凭れかかってきた。
張り詰めていたものが途切れたのか、ふぅ、と弱々しい吐息が聴こえてくる。
「── この海は………神戸につながってるんですよね」
湿りを帯びた声に、ぐっと胸が詰まった。
「……ああ、そうだな」
ようやくそれだけ答えて、彼女の頭にそっと頬を寄せる。
「でも…………遠いなぁ」
「かなで……」
俯く彼女の身体に回した腕に力を込め、耳を掠めるようにして首筋に顔を埋めた。
夏の暑さのせいでしっとりとした肌に、唇が触れる。
「── いっ !?」
「っと」
しまった、と思ってももう遅い。
彼女の首筋には虫さされに似た赤い痕がくっきりと浮かび上がっていた。
痛みを感じた部分をはっと手で隠し、その手に顎を乗せるようにして首を捻って恨めしそうな目で見上げてくる彼女の顔は、西の空から射す茜色よりもさらに赤く染まっていた。
味わいたいと熱望する可愛らしい唇がわなわなと震えている。
「っななななななななにするんですかっ !?」
「その反応……俺が何をして、お前が押さえているところがどうなってるか、ちゃんとわかってるんだろう?」
ニヤリと笑えば、彼女はきゅっと下唇を噛んだ。
「……どうしてそんな意地悪するんですか」
「意地悪?」
「だって……みんなに見られたら、何を言われるか……」
東金の顔から笑みが消え、ぴくりと眉が吊り上がる。
「言いたい奴には言わせておけ。
お前が俺のものだという証拠だ、堂々と見せつけてやればいいんだよ」
そう言うや否や、東金はかなでの手にガードされていない反対側の首筋に唇を当てた。
ちゅう、とわざとらしく音を立てて吸い上げる。
さっきは無意識だったけれど、今回はもちろん意図的に、だ。
「ひゃっ、なっ、やっ !?」
意味不明な悲鳴を上げてもがいても、かなでの身体はすっぽりと東金の腕の中に収まっていて逃げることもできず。
それをいいことに、彼の唇は獲物を追い詰める肉食獣のような執拗さで彼女の白い首筋に赤いしるしをつけた。
そんな子供じみた行動を、東金は心底後悔することになる。
「── うっ……ぐすっ……」
諦めて大人しくなったか、と思ったのも束の間、啜り泣きの声が聞こえ始めたのである。
「おっ、おいっ、かなで !?」
「うぅ、なんでそんなに意地悪なんですかぁ……ぐすん」
「な、泣くほどのことでもないだろうが」
「泣くほどのことです!
もう……あとちょっとだから……笑顔でいたいのに……」
かなでの言葉は横っ面をいきなり張り飛ばされたような威力があった。
彼女の涙におろおろしている場合ではない。
「……悪かった」
「うぅ……」
「だからもう泣きやめ」
「うぅぅ……」
腕に力を込めて、ぎゅうと締めつけた。
彼女の耳元に頬を寄せる。
「── 夏の終わりが寂しいと思っているのは、お前だけじゃないんだぜ」
「っ !?」
かなでがぴくりと身を固くした。
彼女の身体に回された腕にそっと手を触れ、それからきゅっと掴んできた。
「……取り乱しちゃってごめんなさい……」
謝らせてしまった罪悪感。
追い詰めて泣かせてしまったのは自分なのに。
「その……これからスーパーに寄ってもいいですか?
明日のお昼、何か作ります。
食べたいもの、言ってください」
「そうだな……お前が作るものは何でも美味いから悩むな」
「あ……ありがと…ございます」
誉め言葉に照れて俯く彼女を本当に愛おしいと実感した。
自嘲を含んだ溜息を漏らし、東金は彼女を拘束していた腕を解く。
ジャケットを脱いで、華奢な肩にそっとかけてやった。
これで独占欲を主張する赤い痕は隠れるだろう。
「あ……ふふっ、千秋さんの匂いがする」
顔を埋めるようにしてジャケットの襟を掻き合わせたかなでが、嬉しそうに呟いた。
一般的に『お約束』とも言える台詞が、実際に言われてみればこれほどまでの効果を発揮するとは。
もう一度抱き締めたくて手を伸ばす。
が。
すっかり買い物モードに入ってしまったらしい彼女は既に移動し始めていた。
空を切った腕に苦笑いしながら後を追う。
「お肉がいいですか?
それともお魚?」
「どっちでも」
「もうっ、ちゃんと選んでくださいっ!」
こんな優しい時間がまた訪れることを願いながら──
いや、他力本願は好きじゃない。
自分で作るだけだ。
そんなことを考えながら見上げた空には、沈んだばかりの太陽と入れ替わるようにいくつかの星がきらめいていた。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
「東かなは夕日に照らされて躊躇いながら、首に意地悪なひみつのキスをするでしょう。」
(ツイッター診断メーカー「理想のキスをしてもらったー」より)
某フォロワー様ご協力のもと、こんなものができました。
……いいんですかね、こんなもんUPして(汗)
年齢制限必要ですか? R12程度?
だ、だいじょぶですよね?
すみません、書いてるうちにワケワカメになりました。
【2011/02/02 up】