■にゃんこ騒動
※短編『The mischief of a fairy』の続き
「── やだ、もう……恥ずかしすぎるよぉ……」
早朝の森の広場。
自主的な朝練でここへやって来たはずの少女は膝を抱えてうずくまり、ぶつぶつとひとりごちている。
彼女の前では一匹の白いメス猫が地面に寝そべり、我関せずで優雅に脚や身体を舐めて毛繕いをしていた。
「……いいなぁ、猫は」
誰かの膝に乗っててもおかしくないもの、と拗ねたようなぼやきが続く。
うっとりと目を瞑って後ろ足を舐めていた猫が、ふと動きを止めて薄く目を開けた。
少女は伸ばした腕の指先で猫の喉元を撫でてやる。
猫は再びうっとりと目を閉じ、気持ちよさげにぐるると喉を鳴らした。
「……私も猫だったらよかったのに」
にゃあ、と猫が鳴いた。
まるで相槌を打ってくれたかのようなタイミングで。
それは『そうね』と同意してくれたのか、『そんなことないわよ』と一蹴されたのか、猫語の解らない少女には判断できなかったけれど。
* * * * *
朝食の後、ラウンジで新聞を広げていた東金は、視界の端で何かが動いたのに気づいて顔を上げた。
ラウンジの入り口に立ち、周囲をきょろきょろと見回していたのは小日向かなで。
ヴァイオリンケースを提げているところを見ると、これから練習に向かうのだろう。
「── よう、小日向」
にやりと口の端を上げ、揶揄するように声をかける。
彼女が子供の姿になってしまうという不思議な出来事があったのは一昨日のことである。
なぜか、いや当然というべきか、すっかり東金に懐いた小さなかなでは夜になっても頑として傍を離れようとせず、仕方なく膝に抱えたままラウンジの椅子で仮眠を取ることにした。
深夜、訳のわからないまま無事元の姿に戻れた彼女は、東金の膝の上で目覚めたのがよほど恥ずかしかったのだろう、それ以降彼と顔を合わせるたびに顔を真っ赤に染め上げるのだ。
そんな彼女を捕まえて、膝に乗せて抱き締めるのが、東金の目下一番の楽しみになっていた。
今回もまた顔を赤くして逃げ出すかと思いきや、かなでは顔色を変えることもなく訝しげに眉をひそめ、足音も立てずに近づいてきた。
「── あんたが『如月 律』?」
「はあっ !?」
東金が素っ頓狂な声を上げると同時に、かなでの胸元からみゃーみゃーと声がする。
身にまとう制服の色に紛れて気づかなかったが、なぜか彼女は片腕に白い猫を抱きかかえていた。
彼女の顎先に向かってぐいっと身体を伸ばしてやかましく鳴き続ける猫は、必死に何かを訴えてかけているようにも見えた。
彼女は猫を覗き込み、違うのか?、と訊くと、東金の方へと視線を寄越す。
「── 悪いんだけど、如月 律って奴に伝えておくれ。
『小日向かなでは体調が優れないので今日の練習は休ませてくれ』ってね」
「おい、ちょっと待て」
くるりと踵を返した彼女の肩を、東金は咄嗟に掴んで引き止めた。
「どうした小日向、まさか記憶喪失か?
どうせぼんやり歩いて、どこかに頭でもぶつけたんだろう?」
恐らく意趣返しのつもりなのだろう。
『膝の上』は恥ずかしいからやめてくれ、という彼女の抗議行動に違いない、と東金は判断した。
だが、肩越しにちらりと振り返ったかなでは、東金の顔を見据えながらすぅっと目を細める。
かなでの顔であって、かなでではない表情にギクリとした。
すぐに感情が顔に出てしまう彼女が、ここまで完璧な芝居を打てるとはとても思えない。
「── あたしは『サクラ』。
小日向は──
こっちさ」
彼女は抱えた猫をぐいっと持ち上げる。
猫は不自然に顔を逸らして、ふみゃ、と情けない声で鳴いた。
「── どういうことだ?」
「どうもこうも、あたしと小日向は中身が入れ換わっちまったのさ──
おや…?
外側が入れ換わったのかねぇ……まあ、どっちでも同じことだけどさ」
白い猫を抱え、くつくつと皮肉っぽく笑う彼女は明らかにいつものかなでではない。
みぃ、と呟くように鳴いた猫に目をやり、ほぅ、と楽しげにその目を見開く。
ゆっくりと顔を上げて東金を見ると、チェシャ猫のような笑みを口の端に浮かべた。
「── あんたが『東金さん』かい?」
「だ……だったらどうだって言うんだ」
「ほら、そこにお座りよ」
『サクラ』が顎をしゃくって、すぐそばにある椅子を示す。
東金は眉をひそめるものの、かなでの姿と声で言われれば従わざるを得なかった。
ゆっくりとした動きで椅子に腰を落とし、膝を組もうと片足を上げかけた時、
「── はい、ちょいとごめんよ」
『かなで猫』を抱えた『サクラ』がぽすん、と東金の膝の上に腰を下ろしたのである。
「お、おいっ !?」
「ふふっ、あいにくあたしは人の膝の上には上がり慣れててね」
サクラはすっと東金の首に腕を回し、胸元に擦り寄るように凭れかかる。
空いた手は膝の上でふぎゃふぎゃと騒いでいる白猫の首の後ろをきゅっと掴んで柔らかく拘束していた。
「お愛想でも甘えてみせるのは大の得意なのさ」
普段ならぽかぽかした陽だまりのような笑みを浮かべるはずのかなでの顔に、艶っぽくも妖しい笑みを浮かべるサクラが東金の耳元にふっと息を吹きかける。
ぶるっと身体を震わせた彼の顔が、一気に真っ赤に茹で上がった。
ぐいぐいと身体を押しつけるように密着してくる彼女は、中身はどうあれ小日向かなでなのである。
自分は有無を言わさず彼女を抱き締めるのに、逆に迫られるとどうしてこうも照れてしまうのか。
意外にも恋愛経験値の低い東金にとって今の状況は刺激が強すぎた。
かあっと頭に血が上って、今にも鼻血を吹き出してしまいそうだった。
「あらあんた、この子にこうして欲しかったんだろ?
よかったじゃないか、願いが叶って」
楽しそうにくすくす笑うサクラが、カチコチに固まってしまった東金の頬を指先でツンとつついた。
「── 今日も朝っぱらから暑うてかなわんわ」
呆れたような声に顔を上げると、ラウンジの入り口付近には親友を先頭に寮滞在者の本気で呆れたほんのり赤い顔が並んでいた。
「ちょ、ちょっと待てっ!
俺の話を聞けーっ!」
* * * * *
「ちっちゃなったり、猫になったり……小日向ちゃんも忙しいなぁ」
「……不思議なこともあるものだな」
「ばっ、『忙しい』とか『不思議』とかで片付けられる問題じゃねーだろっ!」
寮生たちが囲んでいるのは、ゆったりと足を組んで椅子に座るかなでと、その胸元にへばりつくようにして顔を隠す白い猫。
隣の椅子には不機嫌丸出しの東金が座っている。
「だが……どうしてこんなことに…?」
律が呟くように訊く。
するとチラリと横目で隣を見たサクラは、かなでの顔に皮肉っぽい笑みを浮かべた。
その表情は普段のかなでには決して見られないもの。
『中身が入れ替わっている』と聞かされたら認めざるを得ないほどに彼女らしからぬ笑い方だった。
「── この子は猫になりたかったらしいよ」
ふふっ、とサクラが笑うと、『かなで猫』がみゃーっ!と抗議するかのように叫んだ。
ギロリ、と全員の咎めるような眼差しが東金に降り注いだ。
チッ、と舌打ちして、しかめた顔をふいっと逸らす。
と、サクラは『かなで猫』を胸元から引きはがし、鼻先を突き合わせるように持ち上げた。
「せっかくあたしの姿になったんだ、一度試してみるかい?」
その途端、だらりと長く伸びた白い猫の身体がブルッと震えて総毛立った。
直後サクラはニッと笑って、あろうことか『かなで猫』をひょいっと横へ放り投げたのである。
「あっ !?」
中身は人間でも、身体は猫。
皆の心配をよそに『かなで猫』は見事に着地した──
東金の膝の上に。
「うわー……なんだか固まってない?」
着地した体勢のまま、ぴくりとも動かない『かなで猫』。
東金が恐る恐る白い背中に指で触れると、猫は気の毒に思えるほどガチガチな身体を一層固く緊張させた。
* * * * *
約20分後。
東金と星奏アンサンブルメンバーは星奏学院の理事長室にいた。
ラウンジで取り囲む全員のあまりの悲壮な表情を見かねたサクラが、ついておいで、と先導したのである。
彼女はノックもせずに部屋に入り、ツカツカと奥のデスクに近づいていく。
「……なんだね、君たちは」
ペンを走らす手を止め、険しい顔を向けてくる理事長の鋭い視線をものともせず、サクラは抱いていた猫をそっとデスクの上に下ろした。
「── あたしは森の広場の『サクラ』、この子はここの生徒の小日向かなで。
アレにいたずらされちまってね、何とかしてほしいのさ」
「……『アレ』…?」
「そう、『アレ』」
訝しげに片眉を上げた理事長は、たったそれだけの会話でどうして理解できたのか、ああ、と唸って疲れたように深い溜息を吐く。
それから、ギンッと音がしそうなほどの恐ろしい目で天井を睨み上げた。
その瞬間、白い猫は身を翻してデスクを飛び降り、音も無く開いた扉を飛び出していく。
廊下で一旦足を止め、ちらりと振り返って、みゃあ、と鳴いて、すぐに姿を消した。
「………あ」
「── もうここに用はないはずだ。
早く練習に行きたまえ」
「し……失礼しましたっ!」
ガバッと頭を下げたかなでは、何が起きたのかわからずボーっと立ち尽くす男たちの前の駆け抜けて、猫の後を追うように理事長室を飛び出していった。
* * * * *
結局、猫になってしまったかなでは無事に人間に戻ることができたのだが。
その後、今回の件で反省したかに思われた東金は──
「猫ならいいんだろ?」
「いやですっ!」
── 猫耳カチューシャを手にかなでを追いかける日々を続けている。
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そして『星奏学院の理事長は魔法使いだ』という噂が流れ始めたのがちょうどこの頃からだった、らしい。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
実は1週間くらい書いては消しを繰り返し、
方向性を見失って取りとめのなくなった問題作(笑)
サクラさんはウメさんの孫かひ孫あたりで。
うちのサイトの吉羅さんは、完全にネタキャラ(笑)
【2010/06/07 up/2010/06/30 拍手お礼より移動】