■かぜをひきました。 東金

 ソロ決勝翌朝、朝食を食べに食堂へと向かった。
 だが、いざ食べようと思っても箸が進まない。
 異変に気づいて心配そうに眉をひそめる親友から、今日は一日休んだらええよ、と言われて初めて自分が体調を崩した事を知った。
 指摘された途端に鉛のように重くなった身体を引きずるようにしてよろよろと部屋に戻り、ドサリとベッドに身体を投げ出した。

 何かが額の上にある。
 払い除けようと思っても、腕が重くて上がらなかった。
 いや、払い除ける必要なんてないのに。
 額の上のそれはひんやりとしていて気持ちいいのだから。
 重いまぶたを無理矢理持ち上げる。
 いつもより狭い視界の中、ようやく焦点の合ったすぐそこに心配そうに覗き込んでくる顔があった。
「あ、起こしちゃってごめんなさい。 具合、どうですか?」
「── こひ、な、た…?」
 弱々しくて嗄れた声。 一瞬置いてそれが自分の声なのだと気がついて、情けなさのあまり思わず顔をしかめた。
「どこか痛いんですかっ?」
 ── 喉が少し痛いな。 ああ、頭はぼんやりしてはいるが、痛みはないぜ。
 そう答えたいのに、だるくてだるくて口が動かせない。 せっかく開けたまぶたもゆるゆると落ちてきた。
「……どうしよう、お医者さん呼んだほうがいいのかな」
「── 昨日までコンクールで根詰めとった疲れが出たんやろな。 俺と違て体力もあるし、一日寝たら大丈夫やろ」
 泣きそうな声への答えを代弁してくれたのは、耳に馴染んだ親友の柔らかい声。
「でも」
「心配せんでええ、俺も芹沢クンもおるし。 あんたはしっかり練習しといで」
「………はい」
 額の上の僅かな重みがふっと消えた。
 どこかからちゃぷちゃぷと水音が聞こえてくる。
 額の上がひんやりとして、また重みが戻ってきた。 今度は目の上までが冷たくなって、完全な闇になった。
「じゃあ……行ってきますね」
「頑張ってな」
 空気がさわさわと動いて、カチャリと音がした。 取り残されてしまったようで、なんだか心細い。
 と、再びカチャリと音がして、ふわっと空気が動く。
「……もう寝ちゃったかな」
 ── まだ寝てはいないが……いいからさっさと行け。 風邪がうつったらどうすんだ、馬鹿。
「……えと、コンクールお疲れさまでした」
 ── ああ、サンキュ。 まさかぶっ倒れるほどのめり込んでたとは思わなかったがな。
「ふふっ」
 ── 寝込んだ人間を前にして、なんで笑う?
「弱ってる東金さん、なんか可愛い」
 ── なっ、俺に向かって『可愛い』だと !?  可愛いのはお前の方だろうが。
 ゆっくりと撫でられる頭がやけに気持ちいい。 ずっとこのまま、なんて願ってしまうほどに。
「── 早く元気になりますように」
 柔らかい何かが頬に触れた。
 その瞬間、あれだけ重かった身体が少し楽になったような気がして、そのままふわふわと心地よく眠りの中に吸い込まれていった。

*  *  *  *  *

 ふっと意識が浮上した。
 同時に細く目を開けてみる。 この明るさは、まだ日中らしい。
 もぞりと身体を動かして、ガリガリと頭を掻いた。 腕が触れて、額の上に薄いものが張り付いているのに気がついた。 てっきりタオルが置いてあると思っていたのに。
「あ、目ぇ覚めたん?」
 ぱたん、と音がして、視界に入ってきたのは親友の顔。
「あ゛ー……」
 声を出してみたら、やっぱりまだしわ嗄れた情けない声だった。
「……今、何時だ…?」
「もうすぐ4時や」
 そんなにも寝ていたのか。 愕然としながらも、休んだおかげか随分と身体が楽になっていて、ゆっくりと起き上がった。
 差し出されたスポーツドリンクを受け取って、一口飲み込んだ。 全く冷えてないそれは口の中に嫌な甘さを残したけれど、汗をかいて水分を失った身体はもっと欲しいと要求しているようだった。 ペットボトルの半分ほどを飲み干して、ふぅ、と息を吐く。
「ふふっ、昔と逆やね」
「はぁ?」
「昔、俺が昼間目ぇ覚ました時、大抵枕元に千秋がおったわ」
「……ああ」
「昼に小日向ちゃんがお粥とプリン作ってくれとるんやけど、どっちか食べるか?」
「……両方食う」
 あまり食欲はないが、彼女が作ってくれたと聞いたら食べないわけにはいかないではないか。
「ほな、持ってきたるから、その間に着替えとき。 汗かいたまんまおったら、また具合悪うなってしまうよ」
 くすくす笑いながら親友は部屋を出ていった。
 言われたとおり、もそもそと着替えを済ませ。 むずがゆい額の何かをぺろりと剥がすと、それは干からびかけたジェルシート。 ゴミ箱にひょいと放り投げた。
 しばらくして運ばれてきた淡いピンクの梅粥と優しい黄色の手作りプリンは美味しくて、驚くほどすんなり胃に収まった。

*  *  *  *  *

 満腹になったせいか、横になった途端に意識がなくなって。
 次に目が覚めた時、枕元に置いておいた腕時計の針は6時過ぎを指していた。
 ── なんだ、あれから2時間も寝てたのか。
 べたべたする身体が気持ち悪くてシャワーを浴びた。
 身体はまだ少しだるいものの、頭はすっきり。 ぼんやりと頭の中に覆い被さっていたものが、シャワーと一緒に流れ落ちていったかのようだった。 身体のだるさはたぶん寝過ぎたせいだろう。
 部屋に戻って、お粥とプリンの礼でも言っておくか、と携帯を手に取って驚いた。 ディスプレイに表示されている時間はお粥を食べた2時間後ではなく、さらに12時間経った翌朝だったのだ。
 ── そりゃダルいはずだ。
 思わず一人くすくす笑い、皆が起き出してくる時間を待った。

 食堂が朝食を取る寮生たちで賑やかになる少し前、時間を見計らって台所へと向かう。
 思った通り、弁当作りに勤しむ後ろ姿があった。
 足音を殺してそっと近づき、ふわりと背中から抱き締める。
「ひゃっ !?」
「── 昨日のプリン、美味かったぜ。 また食わせろよ」
「とっ、とと東金さんっ !?」
 抱き締めた瞬間真っ赤に染まった耳元に囁いてやれば、思った通り彼女はあたふたと慌てまくる。
「あ、あのっ、もう起きても平気なんですか?」
「ああ、誰かさんの『おまじない』が効果絶大でな」
 そう言って、わざと音を立てて彼女の赤い頬にキスをする。
「えっ、あっ、そ、そのっ」
「で、誰が『可愛い』って?」
「……やだもう……起きてたんですね……ずるい…」
 胸元に回した腕に顔が埋まるくらいに俯いた彼女は、腕に添えていた手にきゅっと力を入れた。
「ずるいって……眠ったと勝手に判断したのはお前だぜ?  俺だって好きで寝たふりしてたわけじゃない。 口も利けないくらい弱ってたんだからな」
「そ……そうですよね……ごめんなさい」
 何を謝ってるんだか。
 弱った姿を人前に晒すのは真っ平だと思うが、彼女になら見せてもいい。 むしろそれで彼女があれこれ世話をしてくれるのを想像するだけで楽しくなってくるなんて。
 笑いながら彼女の頭の天辺にぽすんと顎を乗せた。
「小日向、俺が次に寝込んだ時も、ちゃんと看病しろよ」
「えっ、東金さんってそんなに身体弱かったんですか !?」
「俺がそんなひ弱な人間に見えるのか?  あんな風に寝込むのは、せいぜい何年かに1回あるかないかだ」
「え……じゃあ……」
「そうだな……とりあえず5年後くらいに一度寝込むことにするか」
「あ…えと……わ、わかりました」
 本当に意味がわかってるのか?
 問い質してみたい気もしたが、彼女はちゃんと望んだ答えを返してくれていた。 抱き締めた身体が気の毒なほど熱い。
 これ以上作業の邪魔をするのも可哀想なので、巻き付けていた腕をするりと外してやった。
「練習、頑張ってこいよ」
 くしゃりと彼女の頭を撫でて。
「はい── あ、あの、病み上がりでも食べやすそうなものを作ったので、お昼に食べてくださいね」
 ラップをかけた皿を掲げて見せ、へらりと笑う彼女。
 ── こんなに気にかけてもらえるなら、たまには風邪を引くのも悪くないな。
 冷蔵庫の中に皿をしまい込む彼女の背中に、サンキュ、と声をかけ、頬が緩んでくるのを自覚しつつ台所を後にした。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 転んでもタダじゃ起きないよ(笑)
 昨日ブログにも書きましたが、体調悪くてぼんやりした頭に降りてきたネタ。
 ソロファイナル後の東金さんは確実に『かなでは俺の嫁』だから(笑)
 こんなもん書く暇があるなら連載書けよ、とか言わないでぷりーず。

【2010/05/21 up/2010/06/07 拍手お礼より移動】