■The mischief of a fairy 東金

 星奏学院に土煙を上げながら駆け込んできた少女がひとり。
 彼女の名は小日向かなで。
 今は迫るコンクール決勝に向け、練習に励む日々を送っている。 今日は午前に行われた同じコンクールのソロ部門決勝を見に行った帰りだった。 午後は学校でアンサンブルの練習である。
 彼女は正門前の広い通路の中央にそびえ立つ妖精像の台座に片手をつき、ぜーはーと肩で荒い息を吐く。 俯く顔は赤い塗料を塗りたくったかのように真っ赤だった。
「……私、キス、なんて……ほっぺだけど……なんであんな約束……やだもう……恥ずかしくて、顔合わせられない……」
 荒い呼吸の合間にぶつぶつと呪文のような呟きが挟まって。
「……ああもうっ、時間を巻き戻したいっ!」
 ぎゅっと目を瞑り切なる願いを紡いだ瞬間、彼女の身体がぽぅっと光に包まれた。

*  *  *  *  *

 夕方、コンクール優勝者を称える祝賀パーティから戻ってきた東金千秋は、一歩足を踏み入れた寮の雰囲気が違うことに気がついた。 何故か奥から子供のはしゃぎ声が聞こえてくる。
 声を頼りに食堂を抜け、辿り着いたラウンジには現在寮で暮らす全員が集まっているらしかった── ひとりを除いて。
 奥まった塔の部分の席を取り囲む彼らはいつもの3割増しで優しい顔つきをして、テーブルの方を覗き込んでいる。
「── ほら、次はここを折ってごらん」
 聞こえたのは遠く離れて暮らす幼なじみの声。 どうやら折り紙を教えているらしい。
「ここ?」
 続いて聞こえたのは、明らかに幼い声。
「そうだよ」
「こう?」
「VIVA!  上手だね、かなでちゃんっ!」
「……『かなで』…?」
 他校の元気な1年生が呼んだ名前に反応し、つい繰り返してしまった自分の声に皆が一斉に振り返った。
 そして背凭れと肘掛けが曲線で繋がった、身体を包み込むような形の椅子の陰からひょこっと出てきたのは、昼間熱烈な祝福のキスをくれた彼女に瓜二つの幼い子供の顔だった。

 東金は遠巻きにして立っている如月兄弟の方へと近づいて、
「……どういうことだ?」
「あーオレらにもよくわかんねぇんだけど……午後の練習で学校に向かってたら、子供の泣き声がしてさ。 慌てて行ってみたら、こいつが大泣きしてて。 顔見りゃガキの頃のかなでだし、周りにあったのもかなでの荷物だったし……本人に間違いないと思うんだよな」
 第1発見者だったらしい如月響也が頭をガリガリと掻きながら、まともな説明にもなっていない状況説明する。
 と、外から一緒に戻ってきた土岐蓬生が子供の座る椅子に近づき、横にしゃがみ込んだ。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「こひなたかなで!」
「年はいくつやの?」
 小さな彼女はぎこちなく立てた3本の指を誇らしげに土岐に向かって突き出して、床に着かない足をぷらぷらと揺らした。
 はぁ、と込み上げる溜息を漏らして東金も椅子の方へと歩いていく。 しゃがみ込んでいる親友とは反対側から近づいて、小さな彼女の脇を支えてひょいと抱え上げた。 空気が流れて、テーブルの上にあった作りかけの折り紙がひらりと舞って床に落ちた。
 ふわふわとした髪、くりっとした目は今はきょとんと見開かれていて。 可愛らしい顔立ちは『天使のようだ』と比喩されるにふさわしい。 着ている服は見慣れた星奏の制服をそのまま小さく作り変えただけのまったく同じデザインで。
 何の因果か、小日向かなでは小さな子供の姿になってしまったらしい。
「ふぇ……」
 くしゃ、と愛らしい顔が歪む。 途端、堰を切ったように泣き始め、じたばたと暴れ出した。
「やぁだぁっ! りっくんがいい! りっくんとこいくーっ!」
 振り回される小さな手が顔にぺちぺちと当たる。 遠慮がないせいで、当たると結構痛かった。
 床に下ろしてやると小さな彼女はダダダッと走り出し、弟の横に立っている如月 律の足にばふっとしがみついた。 大きかろうが小さかろうが、幼なじみは幼なじみ、ということだろうか。
「あーあ、嫌われてもうたな」
「うるせぇ」
「そんな怖い顔見せられたら当然やな」
 分かってはいるが、どうしろというのだ。 この状況でニコニコ笑っていられる方がおかしいだろうに。
 律はしがみつく彼女をそっと引き剥がし、腕を持ったまま静かに膝を落とした。 小さな彼女としっかりと視線を合わせ、
「人を叩いたら駄目だろう?」
「わるいこと?」
「そうだ、悪いことだ。 悪いことをしたら、どうすればいい?」
「……ごめんなさいする」
「ああ、そうだな」
 まるで父親のように諭した律は、くしゃっと彼女の頭を撫でてから、そっと身体の向きを変えてやった。 ほら、と背中を優しく押してやる。
 押された彼女はとてとてと歩いて来て東金の前に立つと、
「ごめんなさい」
 深々と頭を下げた。
 子供に頭を下げられてそのまま突っ立っているわけにもいかず、東金は片膝をついてしゃがみ込んだ。 身体を起こした彼女とは、目の高さがほぼ同じになる。 と、彼女はこわごわと手を伸ばしてきた。
「まだいたい?」
 小さな手が頭を撫でてくる。 実際叩いた部分である顔ではない、というところが子供の行動らしくて微笑ましい。
「いや……痛くない」
 不安そうだった顔がにぱっと明るく輝いた。 思わず釣られて東金の口元が緩む。
「じゃあ、なかなおり♪」
 彼女の小さな手がぱちんと頬を挟んだかと思ったら、少し突き出した唇をぶちゅっと口に押し付けてきた。
「おおーっ !?」
 一斉に起こったどよめきで、老朽化した寮の建物が揺れたような気がした。

「── 出たっ! 『仲直りのチュー』!」
「……あんたら、昔からあんなことしとったん?」
「ばっ……幼稚園の頃ぐらいまでだって!」
「へぇ〜……千秋には言わんとき? 殺されるで?」
「げっ! 言うわけねぇだろっ!」
 少し離れた場所でそんな会話がひっそりと交わされていたのを、予想外の事態の連続に混乱する東金が知る由もなかった。

*  *  *  *  *

 その後、子供の姿になってしまったかなでは、なぜかすっかり東金に懐いてしまっていた。
 騒ぎのせいで少し遅れた夕食中も隣の席にちゃっかり座り、誰かが持ってきてくれたジュースを足をぷらぷらさせながら飲んでいた。
 風呂に入ってくる、と東金が男子棟に戻った時は、彼の姿を探して大泣きした。 兄弟が多く子守りに慣れている八木沢ですら、彼女の機嫌を取るのは不可能だった。 そして風呂上がりの東金がパジャマ姿でラウンジに戻ってくると、ダッと駆け寄って抱っこをせがむ。 それ以降、かなでは東金の傍を片時も離れようとしなかった。
 そして、午後9時を過ぎた頃。
 高校生にとってはまだまだ早い時間でも、3歳児にしてみればもうおねむの時間。
 彼女はラウンジの椅子に座る東金に横向きに抱えられ、彼の胸に凭れてすっかり夢の中だった。 部屋のベッドに寝かせてやろうと思っても、パジャマの胸元を小さな手ががっしり握り込んでいて離れない。 自室に連れていってもよかったが、夜中にもしも彼女が元の姿に戻った時にさすがにマズいだろう、ということで今に至る。 自分のコンクールは終わったし、一晩ラウンジで明かしたところで特に支障はない。
「ふふっ、可愛らしいなぁ」
 皆が自室に戻った後のしんと静まり返った中で、土岐が彼女の寝顔を覗き込みながら声をひそめて笑った。
「父親になった気分だな……妙な感じだ」
「『仲直りのチュー』されて真っ赤になっとったくせに」
「……まさかそんなことしてくるとは思わなかったから驚いたんだよ」
 くすくすと笑う親友をギロリと睨み付けた。
 それでも笑い続ける土岐は手に持っていたタオルケットを二人の上にふんわりとかけた。 彼女が息苦しくならないように形を整える。
「ほな、俺は部屋に戻るわ」
「ああ」
 パチン、と音がして辺りが暗くなる。 残ったのは窓から差し込む月明かりと、熱帯魚の水槽を浮かび上がらせる青白い光。
 くぅくぅと寝息を立てる彼女の顔を覗き込んだ。
「── 何歳のお前も、必ず俺に惚れる運命なんだよ」
 呟いてみると妙に満ち足りた気分になって、彼女を起こしてしまわないようにそっと額に口づけた。

*  *  *  *  *

 全身を重たい何かで押し潰される夢を見た。
 ゆっくりと目を開く。 開いたつもりだが、そこはまだ闇。 視線を巡らせると、差し込む月明かりの角度が変わっているから、そこそこ時間は経っているらしい。 練習疲れとやり終えた気の緩みからか、いつの間にか眠っていたようだ。
 まだ夢の中なのか、身体がずっしりと重い。 いや、目は覚めたはずだ。 たった今、月明かりを確認したのだから。
 と、頬を何かがくすぐった。
 視線を下ろすと顔のすぐそばにふわふわの何かがあった。 柔らかさが心地よくて、すりすりと頬を擦り寄せてみた。 それから膝の上に乗っている柔らかな重みをぎゅっと抱き締めた。
「──── !?」
 完全に覚醒した東金の膝の上で彼に凭れて眠っているのは、紛れもなく昼間祝福のキスをしてくれた小日向かなでだった。

 なぜか子供の姿になってしまったかなでは、眠っている間に元の姿に戻れたらしい。
 安堵のあまり、もう一度彼女の身体を抱き締めて。
「── 小日向、おい起きろ」
 彼女の柔らかな頬をぺたぺたと叩きながら声をかける。
 ん、と小さく唸ってゆっくりと目を開けたかなでがひくっと顔を引きつらせた。
「あっ、えっ !?」
「大きな声を出すな」
 飛び逃げようと思ったのか、彼女が身を捩った。 だが、彼女の両足は椅子の肘掛けの上に乗っている。 バランスを崩して転がり落ちそうになるのを慌てて抱き止めた。
「馬鹿、痛い目見たいのか?」
 彼女の膝裏にそっと腕を差し込み、身体の向きを変えてやる。
「ほら、部屋に戻って寝ろ」
 背中をとん、と押した。
 ばっと立ち上がった彼女はぐるんと向きを変え、がばっと頭を下げる。
「ごっ、ごめんなさいっ!」
 逃げるように女子棟へと走り去る彼女は、何が起きたかわからなくて混乱しているのだろう。 時折縺れる足元が危なっかしい。
 ゆうらりと椅子から立ち上がった東金は、凝ってしまった首をこきこきと回しながら、
「……あいつは、昔からああなんだな」
 ごめんなさい、と頭を下げる小さな姿と大きな姿が重なって、思わず笑みを漏らしながら自分の部屋へと戻っていった。

*  *  *  *  *

「── ご心配おかけしましたっ!」
 隣人から一部始終を聞かされたかなでが朝食の席で皆に頭を下げ、この不思議な出来事は原因不明のまま終止符が打たれることとなった。
 彼女は昨日の午後以降のことは全く記憶にないらしいのだが、『仲直りのチュー』の決定的瞬間は事実として隣人のカメラに収められていて、 しばらくの間彼女の顔から恥ずかしさによる紅潮が消えることがなかった。

 そしてその後、ラウンジの椅子で真っ赤な顔の彼女を膝に乗せて喜んでいる東金の姿が頻繁に見られるようになったという。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 タイトルを訳すと『妖精のいたずら』。
 ええ、リリのいたずらだったんです。
 かなでさんに流れた時間だけが巻き戻された、という話。
 あ、もちろん『仲直りのチュー』はあたしの捏造です。

【2010/05/14 up】