■なまえ 東金

 コンクールファイナルの翌日、全国制覇を報告に行った学校から寮へ戻ってきた時である。
「── それじゃひなちゃん、またね」
 ウィンクひとつ、爽やかに手を振って寮を出て行く榊 大地に手を振り返して見送ったかなでは、ふいに背後から何かに捕らわれた。
 こんなことをするのは一人しかいない。 現在菩提樹寮に居候中の東金千秋である。 神戸在住の彼は、残るわずかな夏休みをここで過ごすことにしたらしい。
「あの……暑いんですけど」
「当たり前だろ。 終わりが近いとはいえ、まだ夏なんだぜ?」
 耳元で囁かれ、かなでの頬が朱に染まる。 こめかみに柔らかいものが触れたと思ったら、ちゅっ、と小さな音を立てて離れていった。 追い打ちをかけられて、かなでの顔はこれ以上ないほどに赤くなる。
「ったく……大胆な女だと思えばこの程度のことで赤くなる── まだまだ先は長いな」
 溜息と含み笑いの混ざった囁きにカチンときたかなでは彼の腕の中で身を捩った。 が、抵抗空しくますます腕に力が込められ、ガッチリとホールドされてしまうことに。
「── ひとつ、気に入らねぇことがある」
「え?」
「あんな優男に『ひなちゃん』とか呼ばれて、へらへら笑って手ぇ振ってるお前がな」
 頭のてっぺんがズシリと重くなった。 どうやら彼が顎を乗せたらしい。
「そ、そんなこと言われても…… 榊先輩には転校初日からお世話になってるし……」
「気に入らねぇもんは気に入らねぇ。 ま、俺としてはいつまでもお前に『小日向』を名乗らせておくつもりもないけどな」
 くくくっ、と楽しげな笑い声が頭蓋骨に直接響いてくる。
 真っ白になった頭でかなでは必死に考えた。
 ── 苗字が変わる…? どうして私の苗字が……?
「だっ……だったらムコに来ればっ!」
 するりと口から言葉が滑り出ていた。 もちろん熟慮した上での言葉ではなく、『勝手に私の苗字を変えるな!』という売り言葉に買い言葉的なものである。
 気がつけばなぜか身体の拘束が緩んでいて、かなではくるりと振り返った。 見上げれば、ぽかんとした東金の顔。 ぱちぱちと瞬き数回、彼ははじけるように笑い出した。
「ははっ、そりゃあいい!」
 今度はかなでの方がきょとんとする番だった。 それも束の間、すぐに正面から抱きすくめられた。
「だがそれは却下だ。 お前が『小日向』じゃなくなることが重要なんだからな!」
 嬉しくて仕方ないらしい笑い声に全身を包まれて。
 もしかするととんでもないことを口走ったのかも、と思いつつ、それが決して嫌ではないことに気づいて、かなではクスッと笑みを零していた。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 ありえねぇ。
 無理矢理書いてみましたが……絶対ありえねぇ(笑)
 ひと夏の恋は長続きしないんだぞ、とか思いつつ。
 愛称設定は榊先輩のためだけなんだな、とか思った時に浮かんだネタ。

【2010/03/01 up/2010/03/04 拍手お礼より移動】