■ベジタブル
昨日の夜からずっと、口から飛び出しそうなほどに跳ね回り続けている心臓は、もう悲鳴を上げていた。
セレクションの舞台に立つのは3度目だけれど、まだ慣れるはずもなく。
『セレクション参加者は舞台袖に集合してください。繰り返します、セレクション参加者は──』
控え室のスピーカーから流れるアナウンスに、香穂子の心臓は一層大きな悲鳴を上げた。
けれど、逃げ出すわけにはいかない──。
ヴァイオリンのネックをすがるようにキュッと握り、椅子から重い腰を上げた。
(──頼むよ、魔法のヴァイオリン……)
祈りを込めてヴァイオリンを見つめる。
震える指先に弾かれた弦が小さく音を響かせた。
自分の祈りに答えてくれたようで、香穂子はなんとなく嬉しくなった。
それでも気が重いことに変わりはなく、はぁ〜っ、と長い溜息を引きずりながら、控え室の扉を押し開け、廊下へと出た。
「よ、調子はどうさね」
後ろからかけられた声に、今までと違った緊張が跳ね回る心臓に追い討ちをかける。
振り向けば、緩いウェーブの髪を後ろで無造作に纏め、顎には無精ヒゲ、ヨレヨレの白衣にサンダル履きの長身の男──。
「あ…… 金澤先生…」
「うわー、お前さん、ガチガチだなー。ほれ、リラックスリラックス」
サンダルをペタペタ言わせて近づいてきた金澤が、香穂子の肩をポンッと叩いた。
白衣に染み付いたタバコの臭いがふわりと漂ってくる。
「舞台に立つのも3回目なんだしさ、もうちょっと肩の力抜いていけよ」
「そんなこと言われても、緊張するものは緊張するんですっ」
香穂子がコンクールに参加することになった経緯を知っている金澤が、軽口で緊張をほぐしてくれようとしてくれているのはわかったが、
照れ隠しについ素直じゃない言葉を発してしまう。
眉間にシワを寄せて唇を尖らせる香穂子に、金澤は思わず苦笑する。
「あー、悪い悪い。じゃあ、こういうのはどうだ? 客席はな、野菜畑なんだよ。カボチャやらじゃがいもやらがゴロゴロしてると思ってみ?
きっと楽しいぞー。あ、ちなみに俺はトマト希望ね」
「トマト…?」
香穂子の眉間のシワが深くなる。
「そう、トマト。トマトはいいぞー、イタリアンにはやっぱりトマト! 生でよし、煮てよし、焼いてよし。ジューシーで爽やかな酸味がだな──」
「あのー、先生?」
「ん? どうした?」
「私─── トマト苦手なんですけど。特に生のヤツ」
二人の間に気まずい沈黙が流れた。
「あ… 苦手か………… んー、そうか、苦手かー…… そりゃ困ったなー」
心底困ったように、頭をわしわしと掻いている金澤。
「どうして先生が困るんですか」
香穂子のツッコミに金澤の手がピタリと止まった。
「え゛──、あ、いやいやいや、頑張ってるお前さんにだな、俺の知ってる旨いイタリアン食わせる店の情報をコッソリ教えてやろうと思ったわけだ。
そうかー、トマト苦手かー」
明らかに落ち込んだように見える金澤は、何かブツブツ呟きつつ、首筋をスリスリ撫でながら、猫背の背中をさらに丸め、
サンダルの音をペタリペタリと響かせて歩いていった。
「先生… 何が言いたかったんだろう…?」
香穂子は寂しげに歩いていく金澤の後ろ姿を呆然と見送りながら、たった今まで繰り広げられた訳のわからないトマト話に首を捻った。
しかし、ふと気付くとさっきまで飛び跳ね回っていた心臓はすっかりおとなしくなっていた。
香穂子はくすっ、と小さく笑うと舞台袖へと急いだ。
『帰ったら、トマト、食べてみようかな』などと思いつつ。
そして、『禁断の恋』が解禁になり、香穂子が生のトマトを食べられるようになった頃──。
遊びに行った金澤のアパートの食卓の上に、彼の得意料理『フレッシュトマトの冷製パスタ』が出されると、
あのセレクション前の金澤のうろたえっぷりが香穂子の脳裏を過ぎり、込み上げてくる思い出し笑いが止まらなくなるのだった。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
ををー、金やんだー。
20のお題の中の1篇以来の金やん話でございますな。
先日コルダ再プレイした時、第1セレ前に見たミニイベントより妄想。
【2006/05/07 up】