■勝負! 火原

「香穂ちゃん! おれと勝負だ!」
 お昼時のエントランスのざわめきが、その一声によって水を打ったようにしんと静まり返った。
 皆の視線の注がれる場所にいるのは音楽科3年B組のトランペッター、火原和樹。
 肩幅に足を開き、両手を腰に当てて、無意味な程に胸を張っている。
「受けて立ちましょう!」
 壁際のベンチに座っていた女子生徒がすっくと立ち上がり、火原と同じように腰に手を当て胸を張る。
 こちらは普通科2年2組、日野香穂子。普通科でありながらヴァイオリンを弾きこなす。
「おれ、絶対負けないよ! 後で後悔しても知らないからね!」
 火原が香穂子の鼻先に右手の人差し指をビシッと突きつける。
 香穂子はフッと不敵な笑みを浮かべると、その指をやんわりと払いのけ、
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ、火原先輩」
 二人はしばし睨み合うと、くるりと踵を返し、逆方向へと歩いていった。

 昼休みのエントランスでの出来事は、あっという間に学校中に広まった。
 何しろ、言い争いをした二人というのが学内でも有名な仲良しカップルだったからである。
 周囲がうんざりするほど仲のよい二人に何があったのか?
 アンサンブルでの解釈の相違か?
 はたまた単なる痴話喧嘩か?
 そして勝負は何によって行われるのか?
 噂は噂を呼び、あるところでは二人の勝敗のトトカルチョが行われ、そして二人を取り巻く空気はピリピリとしたものになっていった。

「や、日野ちゃんっ!」
 2年2組の教室に、よく通る声が響く。
 後ろで緩く纏めた長いウエーブヘアを揺らしてきたのは、隣のクラスの天羽菜美。
 『自称・早耳天羽』の彼女は報道部らしく手に筆記用具を携えている。
「……なんだ、天羽ちゃんか」
「なんだとはご挨拶だねぇ。どうしちゃったの、突然ガリ勉少女になっちゃって?」
 香穂子はその問いには答えず、手元の教科書に目を戻し、ノートに英単語を書き込んでいく。
 今は5時間目と6時間目の間の休憩時間。
 おしゃべりに花を咲かせている友人たちの輪には入らず、ひとり机に向かう香穂子はひたすら勉強していた。
「コンサートの取材なら一昨日受けたばっかだよ?」
「あー、そうじゃなくってさ」
 いつもならズバリと質問してくる天羽の態度の歯切れの悪さも仕方のないことだろう。
 今や香穂子と天羽は無二の親友とでも言うべき間柄なのだから。
 親友とその彼氏がケンカした、と聞いて、居ても立ってもいられなかったのである。
 当然、手に持った筆記用具は単なるいつもの癖で、取材目的などでは決してない。
「あのさ……日野ちゃん、火原先輩となんかあった?」
「別にー」
 机から目を上げぬまま、香穂子はそっけなく答える。
「けどさ、みんなあんたたちのこと、噂してるんだけど。ケンカでもしたんだろうってさ」
「ケンカ? そんなのしてないよ。それより天羽ちゃん、試験大丈夫なの?」
「えっ、もしかしてそれって試験勉強っ !? うわっ……確かに最近取材ばっかでヤバイかも……って、あんたも試験前に仲直りしといたほうがいいんじゃない?」
 香穂子はほんの少し小首を傾げた。
 ともかく二人は放課後、図書室にて試験勉強をすることになった。

「どうしたの、火原?」
「え…あー、柚木」
「火原が休み時間に勉強してるなんて珍しいね」
「そ、そうかな?」
 火原は眠そうな目をゴシゴシとこする。
 ここは3年B組の教室。
 いつもとは違う親友の様子に、クラスメイトであり親友でもある柚木梓馬は見かねて声をかけたのだ。
 少し伸びた髪をゴムで結わえているところを見るとやる気になっているのは判るものの、机の上に散乱した教科書や単語帳を見れば、そのはかどり具合は推して知るべしである。
「だってもうすぐ試験だし、おれだってやる時はやるってとこ見せないとさ」
 鼻息荒く、拳を握り締める火原。
 そんな火原の仕草に柚木はくすりと笑う。
「おやおや、もしかして『ヤケ勉強』かい?」
「そ、そんなんじゃないよ!」
「ふふ、それならいいけど。君と日野さんが喧嘩をしたと噂に聞いたものだから、少し心配になってね」
「ケ、ケンカなんてしてないよ! そんなことより、今はおれ、勉強しなくちゃいけないんだ!」
 火原の必死の形相に、柚木は小さく溜息を漏らす。
「火原、よかったら勉強教えようか?」
「んー……いや、遠慮しとく。自分の力でやらなくちゃ意味ないし」
 強い意志を持っているらしい火原に、柚木は目を丸くした。
 が、その表情はすぐにいつもの微笑みに変わる。
「そう、じゃあ僕も一緒に勉強させてもらおうかな。けれど火原、わだかまりは解消しておいたほうが勉強もはかどると思うけど?」
 親友のアドバイスに、火原はぱちぱちと不自然な瞬きを数回。
 そして二人は放課後、図書室へ向かうこととなった。

 放課後。
 図書室にずらりと勢揃いしたコンクールメンバー+α。
 2年生と1年生は天羽が声をかけ、図書室に来たときには3年生はすでに勉強を始めていたのだ。
 先に席に着いていた火原の隣に座ると思われた香穂子は、火原から最も離れた席に腰を下ろした。
 そして無言で勉強道具を取り出し、黙々と勉強始めたことに、他の面々は思わず顔を見合わせた。
 火原のほうも香穂子に話しかけることもなく、ただただ教科書に向かっている。
 全員、噂は耳にしていた。
 一度も視線すら合わせようとしない二人に、それほどケンカの根は深いのだろうと感じていた。
 とはいえ他人が口出しすることも憚られるゆえ、居心地の悪い空気を感じながらもただ試験勉強を進めるしかなかった。

 試験も無事終わり、そろそろ結果が返ってくる頃。
 依然として香穂子と火原がじゃれ合う現場を目にしたものはいなかった。
 結局あの二人は破局を迎えたのだろうと皆が囁き始め──
 そしてある日の昼休み、天羽は香穂子の教室で一緒に弁当を広げていた。
 香穂子は落ち着かない様子でそばに置いた携帯を気にするばかりで、食も進まないようだった。
 そんな状態になるのなら、早いうちに仲直りしておけばよかったのに、と天羽は小さな声でひとりごちる。
 ふいに香穂子の携帯がメールの着信を告げた。
 待ち構えていたかのようにすばやく携帯を開いてメールを読むと、弁当箱にさっと蓋をして席を立つ。
「ど、どうしたのっ、日野ちゃんっ !?」
「決着つけてくる!」
「はあっ !?」
 香穂子はカバンから畳んだ紙を取り出すと、教室を飛び出していった。
 今の香穂子にとって『決着をつける』のは火原とのことしか考えられない。
 天羽は慌てて廊下に出て香穂子の向かった方向を確認すると、一旦席に戻って弁当箱に蓋をしてから香穂子の後を追いかけた。

 屋上へ続く扉を開けた瞬間、吹き込んだ外からの冷たい風に首をすくませる。
 まもなく本格的な冬がやってくるのだ、当然といえば当然のこと。
 細く開けた扉の隙間から外を伺い見て、人の姿がないことを確認してから静かに扉を開け広げた。
 気候のいい時ならば弁当を広げる生徒がちらほらいるこの屋上も、寒さが身にしみるようになってきた今は誰もいない。
 よく晴れた空は高く、吹きすさぶ冷たい風がなければそこそこ暖かいのだろうが。
「── 香穂ちゃん、覚悟はいい?」
「もちろんです。先輩の方こそ大丈夫なんですか?」
 声が聞こえる。
 一段高くなった、風見鶏のあるフロアに二人はいるようだ。
 天羽を先頭に、彼女に無理矢理召集されたコンクールメンバー+αが階段下の壁に張り付いた。
 二人の問題を盗み聞きするような真似は非常に心苦しいものがあるのだが、それも二人を心配してのこと。
 そう理由付けをして全員で耳を澄ませた。
 緊迫感が漂う中、ガサガサと紙がこすれる音がして、
「「せーの……」」
「68点!」「62点!」
「やった! 私の勝ち!」
「うわぁっ、負けたっ! あーっ、あんなに頑張ったのにっ!」
 盗み聞き隊がズルッとコケた。
 その拍子にガタンと大きな音がして、上にいる二人が何事かと手すりから身を乗り出して下を覗き込んできた。
「あれ、天羽ちゃん?」
「あ、あははははー、日野ちゃんここにいたんだぁ〜」
「みんな揃って何やってんの?」
「え、あ、えーと……そうそう、今度のコンサートの記事に添える写真を撮ろうと思いまして」
「天羽ちゃん、カメラは?」
「えっ、カメラ? あ…カメラね、えーっとどこに置いたかな〜」
「やだなあ天羽ちゃん、慌てんぼうさんだなぁ」
 カラカラと笑う火原だが、階下にいる盗み聞き隊は誰一人笑えるはずもなく、ただ顔を引きつらせるばかり。
「ところで火原」
 ずいっと進み出たのは柚木。
「君たちの勝負っていうのは試験の点数だったのかい?」
 ニコニコと笑みを浮かべつつ、皆が聞けなかったことをズバリと訊ねた。
 うっと息を呑む一同。心の中では『さすが』と拍手を送る。
「そうだよ。それがどうかした?」
「じゃあ、二人は喧嘩をしているわけじゃないんだね?」
「うん、もちろんだよ。こないだおれ、英語苦手なんだって話したら、香穂ちゃんも苦手だっていうんだ。じゃあどっちがいい点取れるか勝負しようってことになってさ。 香穂ちゃんが勝ったらおれが駅前の喫茶店のケーキ、おれが買ったら香穂ちゃんが購買のカツサンドおごるって約束して。 勝負するからにはテストが終わるまでは敵同士! だからおれ、久しぶりに勉強頑張っちゃったよ!── ってみんなどうしたの?」
 得意げな火原の話が終わる前に、皆はぞろぞろと屋上を後にする。
 『人騒がせな』『アホくせー』『勝負して60点台なんてレベル低〜』『バカは嫌いだよ』なんて呟きは、勝負を終えて達成感に浸る二人には聞こえるはずもなく。
 きょとんとして顔を見合わせる火原と香穂子の横で、風見鶏が二人のことを小バカにしたようにカラカラと軽い音を立てて回っていた。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 久しぶりの火原話がこんなでゴメンよ〜。
 この二人だと徹底的におバカさんになっちゃうんだよな〜。
 先日、某アニメを見てまして、死神代行と虚化ジャージ娘が戦ってるシーンがありまして。
 『あー、中の人、火原と香穂子だな〜』と思ったときに、
 何とか『火原VS香穂子』が書けないかと。
 そんなこんなでこういう話が生まれたのでございます。

【2007/5/21 up/2007/5/23 改】