■リップクリーム
その日、火原和樹は音楽科棟の屋上へと向かっていた。
彼はもうここの生徒ではない。
だが付属大学に入学してまだ数週間、卒業式はついこの間のような気がするし、まだ慣れないキャンパスよりも3年間で馴染んだこの校舎のほうが余程しっくりくる。
海外に拠点を移した先輩の代わりにオーケストラ部の面倒を見ることにしたのだが、見慣れた部員たちの中に入ると高校生気分が抜け切らないのが実情だ。
全体練習の時間まであと少しある。
なんとなく足が向いたのが屋上だったのだ。
ここから吹くトランペットの音は、空に突き抜けていくようで一番好きだった。
重い扉を軋ませ、ぐいっと押し開ける。
爽やかな風が吹き抜け、空の青が目に飛び込んできた。
相棒であるトランペットを音楽室に置いてきてしまったのが悔やまれる。
上のフロアでカラカラと回る風見鶏を見上げながら奥に進むと、
「── あれ?」
天気のいい日の心地よさに反してあまり人が来ない屋上だから誰もいないだろうと思っていたのに、先客があったらしい。
手すりに凭れ、外を眺めている後ろ姿。
長い髪が白いジャケットの上で柔らかな風にそよいでいる。
「日野ちゃん!」
くるりと振り返り、にこりと笑ったのは日野香穂子。
「……あ、火原先輩!
お久しぶりです」
学年が上がると同時に転科した彼女は、今では音楽科の生徒。
普通科の制服がよく似合っていたけれど、今着ている音楽科の制服もなかなか似合っていると火原は思う。
「日野ちゃん、どう?
音楽科の授業、大変じゃない?」
「あ、あはは……専門教科を懸命に頭に詰め込んでるところなんですけど、もう頭が爆発しそうです。
先輩は大学、どうですか?」
「あー、日野ちゃんと一緒かも。
一般教養で頭が大爆発中だよ……」
火原は彼女の隣の手すりに力なく凭れかかる。
「お、お互い頑張りましょう……あ、そうだ、そんな時は脳に糖分補給ですよ!」
香穂子がジャケットのポケットをごそごそと探り、取り出したのは宝石みたいに綺麗なキャンディ。
と同時に、何かがカランと軽い音を立てて下に落ちた。
「あっ」
火原は反射的にそれを拾い上げる。
それは筒状のプラスチック──
白に深い緑色のプリントが施された、ごく普通の薬用リップクリームだった。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。
じゃあ、これ、お礼代わりに」
拾ったリップを彼女に返す。
代わりにオレンジ色のキャンディが手のひらに乗せられた。
「貰い物ですみません」
「ううん、ありがとね、日野ちゃん。
じゃ、早速──」
透明な包装をピッと破り、オレンジ色を口の中に放り込んだ。
柑橘の爽やかな香りと酸味と甘さが口の中に広がっていく。
と、後ろからガチャリ、バタン、と重い音が聞こえ、ゆったりとした足音が近づいてくる。
「悪い、待たせ──
うわっ、火原先輩っ !?」
「やあ土浦!
久しぶり!」
現れたのは土浦梁太郎。
火原にとって、恐らく後輩の中では一番親交のある人物だろう。
去年のコンクールやコンサートだけじゃなく、昼バスケや昼サッカー仲間でもあったのだから。
彼もまた身に纏っているのは普通科の制服ではなく音楽科の制服だ。
前に『似合わない』とぼやいていたけれど、意外にしっくりきているのではないだろうか。
着崩さずにきちんとアスコットタイを着けているが、ステージ衣装で見慣れていたせいか、彼が気にするほどの違和感はない。
同じ普通科同士で仲が良さそうだった彼らだが、一緒に音楽科に転科したことでさらに仲間意識が強くなっているに違いない。
土浦がここに来た時の言葉と、自分を見た時の驚き方からして、二人はきっとここで待ち合わせしていたのだろう。
なんだか羨ましいな、と火原は思った。
ちょうどその時、火原のジーンズのポケットの中で携帯が喧しく鳴り始めた。
ディスプレイにはオケ部の部長の名前。
出なくても内容がわかってしまう──
いつの間にか約束の時間を少し過ぎてしまっていた。
「── ご、ごめん!
すぐ行くから!」
話も聞かずにそう叫び、畳んだ携帯をポケットに捻じ込みながら、
「せっかく会えたのに、おれ、行かなきゃ!
またゆっくり話そうね!」
慌てて駆け出し、校舎内に続く扉へ。
ぐいっと思い切り引っ張り開けたところで、うっかり踏みつけてしまったスニーカーの紐がほどけてしまった。
「うわっ、こんな時に!」
慌てつつも紐を結び直す。
しゃがみこんでいる間に、せっかく開けた扉がバタン、と大きな音を立てて閉まってしまった。
ほどけないように、ぎゅっと力を入れて紐を締めた。
よし、と心の中で呟いて、すっくと立ち上がる。
すると──
「── お前、まだそのリップ使ってんのか?」
聞こえてくる土浦の声。
さっきまでいた場所は、この扉からは建物の死角になっていて見ることはできないが、さっき拾って渡したリップを彼女はポケットにしまわずに、まだ手に持っていたのだろう。
「うん、もうちょっとでなくなるかな」
「なあ、それ……使うのやめないか?」
「なんで?」
「それ、メンソールがキツイだろ……後でスースーするんだよな」
「えーっ、そのスースーがいいんじゃない」
── ん?
なんで日野ちゃんがメンソールのリップをつけると、土浦がスースーするんだ…?
火原はふと考え込んだ。
「あーそれから、こないだ出かけた時につけてたヤツもやめてくれ」
「こないだ?
ああ、あれはリップじゃなくて、ラメ入りのグロスだよ」
「ラメ?
……それでか」
「どうかした?」
「……あの日、家に帰ってから姉貴にからかわれたんだよ……『梁太郎、あんた口の周りキラキラ光らせて、一体どこで何を食べてきたのかしら?』ってな」
「うわぁ、恥ずかしい!
……どうしよう、来週お姉さんと買い物行く約束してるのに……」
「はあっ !?
お、お前、いつの間に姉貴とそんな約束してたんだっ!」
火原は今にも爆発しそうな心臓を押さえながら、そーっと、そーっと、音を立てないように扉を開け、できた隙間に身体を滑り込ませた。
再びそーっと、そーっと、音がしないように扉を閉める。
それから階段の一番上の段に座り込んで、がばっと頭を抱えた。
「今のって……今のって……つまり、そういうことなんだよね……」
はふぅ、と大きな溜息を吐いた火原はゆらりと立ち上がり、よろよろと階段を下りていった。
その後、音楽室に入ってきた幽霊のような抜け殻のような火原の姿を見たオケ部員たちは、あの明るい先輩にも何か悩みでもあるのかと相当心配していたという。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
元ネタは2の昼休みイベントの火原+冬海。
なんとなく思い出したので、なんとなく書いてみました(笑)
まあ結局、土浦さんと香穂子さんはいちゃいちゃちゅっちゅしてるってことで(笑)
【2011/09/04 up】