■音を楽しむ 土浦

 春の音楽祭に出演するオーケストラのコンミスに抜擢された日野香穂子が、その大役を任せるに足る人材であるかどうかの試験まであと少し。 演奏する曲を決めて以降個人練習に励んでいたが、そろそろアンサンブルの練習を始めてもいいかもしれない── そんな2月の初旬のこと。
 練習室の一室にヴァイオリンとピアノの音が響いていた。
 曲はチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」。 昨年の秋から冬にかけての怒涛のコンサートで演奏した曲のひとつである。 土浦梁太郎にとっては好きな作曲家であり、ピアノが参加できる曲でもあるため、特にお気に入りの一曲。 香穂子が試験のためにこの曲を選んだことは、梁太郎にとっては嬉しいことだった。
 だが演奏経験があり譜読みができているとはいえ、練習に手を抜くわけにはいかない。 あの厳しい指揮者をうならせるには、これまで以上に演奏に磨きをかけることが必要だった。
 アンサンブル練習にはまだ入っていないのに二人が一緒に練習しているのは、単に恋愛感情という個人的な理由からである。 一緒に行動することが多くなった彼らにとって、二人での練習はほとんど個人練習の一部となっていた。
 何回目かの演奏中、ふと気になって梁太郎はピアノを弾く手を止めた。
「あれ……どうかした?」
 同じく手を止めた香穂子が、怪訝な顔で首を傾げた。
「いや、ちょっと休むか?」
「……まだ大丈夫だけど」
 決して弾けていないわけではない。 楽器を最大限に鳴らしきれていないというか、音に余裕がないというか。 大丈夫、と言いながら彼女の顔色は良くはないし、表情も硬い。
 それは当然のことだろう。 普通に授業を受けた上に春からの音楽科への転科の準備、そこにコンミス試験に向けた重圧が加わっているのだから、その負担は計り知れないものがある。
 さらについ先日まで身勝手な行動で彼女に余計な心労を与えていたのは、紛れもなく梁太郎自身だった。 罪滅ぼし、という意味だけではないが、今はとことんまで彼女に付き合ってやるつもりでいる。
 だが、今の彼女の状況を改善してやるには、癒しの魔法でも使えない限りはどうにもならないのが梁太郎にとって辛いところだ。
「最初から、お願い」
「……わかった」
 出だしのチェロパートは、ここにはいないチェリストの代わりに梁太郎がピアノで音を出す。 そこに香穂子の音が重々しく入っていく。
 そして本来の重厚なピアノパート。 それを支えるように弦の音がゆったりと響く。
 ふと梁太郎の口元に笑みが浮かんだ。
「── そのまま続けろよ」
「?」
 弓を動かしながらも不思議そうに眉を寄せる香穂子。
 梁太郎は更に笑みを深くする。 そして彼の指はチャイコフスキーが五線譜に記したものとは違うメロディーを奏で始めた。
「!?」
 香穂子は律義に演奏を続けながらも驚きに目を見開いていた。
 ニヤリ、と笑った梁太郎が弾いているのは『猫ふんじゃった』。 以前彼女と戯れに連弾をしたことのある、誰でも知っているこの曲を、梁太郎は適当なアレンジを加えながらチャイコフスキーに乗せていく。
 ふ、と香穂子の顔が笑みの形に緩んだ。
 今、練習室のドアが開いて音が外に漏れたら── 何を馬鹿なことをやってるんだ、と笑われてしまうに違いない。 そんな曲の伴奏に使うとは何事だ!と天国にいる偉大な作曲家は烈火の如く怒るかもしれない。
 そんなことを考えながら、『猫ふんじゃった協奏曲』は続いていった。

*  *  *  *  *

「ふふっ」
「ははっ」
 演奏を終えて顔を見合わせた途端、思わず二人同時に笑ってしまった。
 とてとてと近付いてきた香穂子がくるりと後ろを向き、ピアノ椅子の空いているスペースにぽすんと腰を下ろす。
「……ちょっと休憩」
 ちょうど90度、座る向きの違う彼女の背中が梁太郎の腕にもたれかかってきた。
「── ねぇ」
「ん?」
「…………音楽って、やっぱり楽しいね」
「ああ」
 今の位置から彼女の表情は見えないけれど、きっと柔らかく笑っているのだろう。
「── 私、頑張るね」
 小さいけれど、意志のある声。 他人からはくだらないと思われそうな今の演奏で、彼女はしっかりと気分転換ができたのだろう。
「おう、頑張れ」
 少し身体を捻った梁太郎は、香穂子の背中を胸で受け止め、励ますようにそっと抱きしめた。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 今朝、某番組にて音楽家さんたちによるアレンジバトルをやってました。
 その中のひとつ、「もしもチャイコフスキーが猫ふんじゃったら…?」
 「ピアノ協奏曲第1番」はもちろん、「猫ふんじゃった」も立派な土浦曲!(笑)
 というわけで、こんなお話ができました。
 弱ってる香穂子さんを元気づける土浦さんはおいらの大好物です♪

【2011/08/14 up】