■誕生日のお祝いは 土浦

 7月も半ばになれば、これからやってくる長期の休みに浮き足立つ者が増えてくる。
 が、そうも言っていられない者が約2名── 星奏学院音楽科ピアノ専攻・土浦梁太郎と、同ヴァイオリン専攻・日野香穂子である。 4月に普通科から転科した二人にとって、たった3ヶ月では詰め込み切れなかった2年分の専門教科の勉強と演奏技術を磨くための練習とで、過去最高に忙しい夏休みになるのは確実だった。
 隣同士の練習室で練習していた二人は、午後6時を知らせる放送で学校を追い出され、そのまま同じ方向にある自宅への帰途に就く。
「── あー、もうすぐ夏休みかぁ……休みに入ったら、すぐに梁の誕生日だね」
「ん?  ああ……ま、もう誕生日で浮かれるような年でもないけどな」
 苦笑混じりに言ってはみたものの、実のところは期待に胸を膨らませている梁太郎。
 7月25日── 夏休み中の誕生日ということで、学校で友達から『おめでとう!』と祝ってもらうことはなかったし、 家族に至っては8月に突入した後で『あら? 梁太郎の誕生日、過ぎちゃったわねぇ』というのがここ数年続いている。
 だが、今年は事情が違う。 去年の春に出会った── 厳密には『再会した』だが── 香穂子がいるのだから。 残念ながら去年の夏は彼女との個人的な付き合いはなかったから何事もなく過ぎていったけれど、今年は違うはずなのだ。
「ねえ、プレゼント、何がいい?」
「いや、そんな気ぃ遣うことないぜ。 つか、普通渡す本人に聞くか?」
「えー、でも、趣味ハズしてがっかりされるより、ちゃんと使ってもらえるものを贈りたいもん。 いいから何が欲しいか考えてよー」
 通い慣れた道を歩きながら、言われるままにしばし考える。
「そうだな…………んじゃ── 『お前』」
「……へ?」
 きょとんとして大きな目をぱちくりさせる香穂子に、梁太郎は思わず苦笑した。
 間もなく18歳を迎える健康な青年男子としては、好きな異性がすぐそばにいれば触れたいと思うし、全てを自分のものにしたいという独占欲が生まれるのは当然の帰結。 最近は抱き締めてキスするくらいでは満足できなくなりつつあるのが正直なところだ。 『あんなこと』や『こんなこと』を想像してしてしまい、ちょっとした罪悪感に頭を抱えたことも一度や二度ではない。
 かといって『何が何でも今すぐ』、なんて無理強いするつもりはない。 今だって『こんなことを言ったらきっとこいつは真っ赤になって慌てまくるんだろうな』程度の軽い気持ちだったし、すぐに冗談に紛らすつもりだった。
 だが──
「── うん、いいよ」
 顔色をまるで変えることなくさらりと答えられて、逆に梁太郎のほうが慌てる羽目に陥ってしまった。
「い゛っ !?  い、いや、誕生日だからって無理する必要はないっつーか、その、もうちょっと自分を大事にしろっつーか」
「でも、1日くらい大丈夫だよ?」
「いや、でもな」
「だってこれから忙しくなるんだもん、1日くらい羽伸ばそうよ。 朝早めに出れば、あちこち回れると思うし」
「……は?」
「あ、遊びに出かけるのがイヤだったら、私、お祝いの料理作ろっか?」
「……………………」
 いつしか立ち止まっていた道路で、こくんと小首を傾げる香穂子と見つめ合うことしばし。
 はぁぁぁぁ、と深い溜息が漏れた。
「……出かけるのは嫌じゃないから、料理だけは遠慮しておく」
 ぽふぽふ、と彼女の頭の上で手を弾ませる。 それから止まっていた足を再び動かし始めた。
「ちょっ !?  ひっどーい!  ひどすぎるよ、それ!」
 追いかけてきた彼女の拳がごつんと脇腹に入れられる。 さして痛くもなかったが、いてぇ、と大仰に脇を押さえ、笑いながら残る家路を足早に歩いた。
 ここは彼女の超人的な鈍感さに感謝しておくべきなのだろう。 ほっとしたような、少しだけがっかりしたような複雑な気持ちが、梁太郎の口元を苦笑の形に歪ませた。

*  *  *  *  *

 そして数日後── 7月25日。
 二人は普段学校へ行くのと同じくらいの時刻に出発し、水族館に向かうことにした。
 夏休みとあって、小さな子供たちが館内を賑やかに駆け回り、それを親がたしなめるという光景があちこちで見られる。 そんな子供たちにぶつかられたりと落ち着かない空気の中、二人は巨大な青の前に立った。
 高い天井までの分厚いガラスの壁面の向こうは、人工的に再現された海。 上の方では小さな魚が見事に統制された動きで群れをなし、その下を中くらいの大きさの魚がなかなかのスピードで泳ぎ抜けていく。 底に近いところで見物客の目の前を悠然と横切っていく大きな魚は、まるで空をゆっくりと進む飛行船のようだ。
 たぶん、話そうと思えばいくらでも会話は弾むのだろう。 『色気より食い気』の彼女のことだ、『あの魚、おいしそう』とか『あれは食べられるのかな?』とか、言いそうな言葉はいくらでも思い付く。
 けれど、今は目の前に広がる小さく切り取られた海を、ただ無言で眺めていた。 肩が触れるほどの距離に並んで、しっかりと手を繋いで。
 いろんなことを話しながら楽しく過ごすのもいいけれど、こうして同じものを見ながらただ静かに時間を共有するのもいいものだと梁太郎は思う。 目の前の景色にしろ、目指している音楽の世界のことにしろ。
 ただし『言葉にしなくてもわかってくれるだろう』なんて考えが間違っていることは、骨身にしみてわかっている。 その辺りは時と場合を考えて臨機応変に、といったところか。 後でそれぞれが感じたことを伝え合って、それが少しでもお互いの実りになるといい。
「── あ」
 香穂子が小さな声を上げた。 海を見上げる彼女の視線を辿ると、敷き物を広げたような大きなエイが、縁をひらひらとカーテンのように波打たせながら漂ってきた。
「……でかいな」
「うん……なんだか『空飛ぶじゅうたん』みたいだよね」
 似たようなことを考えていたことが可笑しくて、梁太郎は小さくぷっと吹き出した。
「なに?」
 じろっと睨まれた。
「……いや、お前の方がファンタジーだな、と」
「なにそれ?」
「……俺は風に飛ばされた敷き物を連想した」
「ぷっ、夢がなーい」
「そんなに笑うなって…… ほら、そろそろ先に進もうぜ」
 握った手にきゅっと力を込めて、軽く引っ張る。 二人は次の『小さな海』目指して、肩を並べて歩き始めた。

*  *  *  *  *

 楽しかった一日の名残りを惜しむように立ち寄ったのは、香穂子の自宅に程近い公園。 夕飯時を過ぎた今は駆け回る子供たちの姿はない。
 結局丸一日をのんびりと水族館で過ごした。 ゆったりと水中をたゆたう海洋生物を眺めているのは、思った以上に心地よかったのだ。 普段忙しい日々を送っている二人だけに、のんびりとした時間が癒しになったのかもしれない。
「── さあ、明日からまた頑張らなきゃ」
 ベンチの背もたれが軋むほど身体を反らして背伸びをした後で、香穂子が気合いを入れ直すように拳を握る。
「だな。 けど、夏休み中にもう1回くらいはどこか出かけようぜ」
 休み中、勉強やら練習でちょくちょく顔を合わせることにはなるだろうが、今日のようにがっつり遊ぶような暇はそんなにないだろう。
「そうだね……じゃあ、頑張った夏のご褒美に、パーッと?」
「褒美っていうなら、お互いこの夏は死に物狂いで頑張らないとな」
「うっ……頑張ります……」
 さっきの拳を握った力強さはどこへ行ったやら、心細そうに俯く香穂子の姿に笑いを誘われる。 何気なく腕時計に目をやると、もう彼女を家に帰さなければならない時間だった。
「── さて、そろそろ帰るか」
「あっ、待って!」
 立ち上がりかけた梁太郎の肩を、香穂子がぐいっと押し留めた。 僅かに浮いた尻がぺたんとベンチに逆戻りする。
「えと、あの……目を瞑って、手を出して」
 何かくれるというのだろうか。 あれほどプレゼントはいい、と言ったのに。 言うなれば、今日一日の時間が彼女からの立派なプレゼントだ。
 とはいえ、彼女の心遣いが嬉しくないわけがない。 少し緊張して、鼓動が喧しく鳴り始めた。
「早く!」
「お……おう」
 急かされたこともあって、梁太郎は素直に手のひらを上に向けた片手を差し出し、目を瞑る。
「開けちゃダメだからね!」
 ぺちん、と軽い音を立てて彼女の手が目元を覆う。 これでは目を開けようにも開けられないし、開けたところで手に遮られて何も見えない。 抗議の声を上げようとしたところでぐいっと後ろに押されて梁太郎の頭は後ろに仰け反る形になった。
「おい……」
「あ、あのねっ……とてもささやかなもの、なの、デスガ──」
 プレゼントを披露するくらいで何を緊張しているのか、だんだん言葉がカタコトになってくるのが面白い。
 と、出した手の上に、何かが乗った。 それはしっとりと柔らかいもので── 間違いなく彼女の手だ。
 不思議に思っていると、手をぐっと下に押された。 同時に、覆われた目元にも力が加わった。
 直後、唇に柔らかい感触。
 ── え?
 今何が起きているのか、梁太郎の頭が理解しかけた時には、唇からも、目元や手からも温もりが消えていた。
「── あのっ、この前言ってたプレゼントは、もうちょっと心の準備ができるまで待ってくれるかなっ」
 また電話するねっ!という声と一緒にばたばたと慌ただしい足音が遠ざかっていく。
 上げていた手が、ぱたんと力なく膝の上に落ちた。
 ゆるゆると目を開けると、瞬く星が見えた。
「── なんだ……わかってた、のか……?」
 あの時には平然としていたくせに。
「あいつ……ヴァイオリンやめて、女優にでもなる気か?」
 最初から言葉の意味を理解していたのにあの日から今日までそれを悟らせずにいたのなら、大したポーカーフェイスじゃないか。 くくっと喉の奥が鳴る。 背中がずるずると背凭れを滑って、どさりとベンチに倒れ込んだ。
 これまでにみっともないところも情けないところも曝け出してきた間柄だ。 今更ひとつくらい疾しい部分を見られたところで動じる必要もない。
 ふと唇に蘇ってくる感触は初めてのことでもなく、今では数えるのも馬鹿らしくなるものだったけれど。 けれどこうも見事に不意打ちされると、さすがに照れ臭くなってきた。
 たぶん── いや、間違いなくこれまで貰った誕生日プレゼントでは一番嬉しいものだ。
 ふん、と腹筋に力を入れて身体を起こす。 まいった、と呟きながらガリガリと頭を掻いた。
 そろそろ家に帰らなければ、とベンチから勢いよく立ち上がる。
「俺も頑張らないとな、『ご褒美』のためにも──」
 ── 『ご褒美』…?
 香穂子の言った言葉を口に出してみると、ふとよからぬ想像が頭をよぎった。 誰が見ているわけでもないのに、ごふっと妙な咳払いで誤魔化して。 暗くてよかった、と感謝しながら、梁太郎は真っ赤になった顔を隠すようにして公園を後にしたのだった。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 土浦さんお誕生日記念。
 コミクス完結とか新展開とか、いろいろムシャクシャして書いた。
 後悔はしていない(キリッ)
 しょうがないよ、人間の三大欲求のひとつなんだもの(笑)

【2011/07/22 up】