■歓喜の衝動 土浦

 学校に続く坂道の真下にある交差点。 信号待ちしている数人の生徒たちの後ろで足を止めると、歩いている時にはそれほど感じなかった冷たさが足の裏から全身を凍らせた。
「うー、寒い」
 呟いたら余計に寒くなった。 ヴァイオリンケースの取っ手を握る手に思わず力がこもる。
「── よう、日野!」
 後ろからかけられた声に香穂子ははっと振り返った。
「あ、おはよう、土浦くんぶっ !?」
 声をかけてきたのは、整ったそのルックスから学内人気は高いものの『強面』だの『怖い』だの噂されている土浦梁太郎。 その彼がやけにご機嫌な様子で駆け寄ってきたかと思えば、そのまま走るスピードを落とすことなくぶつかってきたのである。
 ── ちょ、ちょっと、何よこれっ!
 土浦はただぶつかってきたわけではなかった。 今の香穂子は彼の胸に顔を塞がれ、両腕ごと強く抱き締められている。
 香穂子の頭はただただ混乱の極みだった。
 彼と自分はこんなことをするような間柄ではない。 そういう間柄になりたいな、という希望はこっそりと抱いているけれど、今はまだ大切な友人であり、心強いアンサンブル仲間でしかないのだ。
 百歩譲ってそれはいい、今は。
 だが、この身体にドスンドスンと響く衝撃は勘弁してほしい。 普段なら鍵盤の上で大胆に且つ繊細に踊る彼の大きな手が、ばしばしと容赦なく背中を叩いているのだ。 余りの苦しさに咳き込もうにも、顔はすっかり塞がれていて呼吸すらままならない。
 と。
「── 土浦ぁーっ!」
「おう、実川っ!」
 ふっと身体が楽になった。 代わりに身体を包んでいた暖かさが急になくなって、冷たい空気に肌を刺されてぶるりと震えた。
 けほけほと咳き込みながら、何とか呼吸を整える香穂子の目の前で、男二人は感無量の表情で向かい合っていた。
 そして。
「「アジアカップ優勝おめでとうっ!」」
 手袋に包まれた両手でぼふっとハイタッチ。 そして二人はがしりと抱き合ったのだ。
 ようやく信号が変わり──
「いやぁ、いい試合だったよなー!」
「ああ、延長まで勝負が決まらないのにはハラハラさせられたぜ」
「まさにドーハの奇跡!」
「馬鹿言え、実力だよ、実力!」
「だよなー!」
 男二人、がっちりと肩を組んで横断歩道を渡っていく。
 そんな彼らの後ろ、少し離れてついていく香穂子は、
「もう………サッカーバカ」
 人の気も知らないで抱きついてきた大馬鹿者の背中を、真っ赤になった顔で恨めしそうに睨みつけるのだった。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 サッカーといえば土浦さん。ここは書かねばならんだろ。
 というわけで(笑)
 設定は時期的にアンコ通常ルートになるかと。
 いやあ、ザックジャパンほんとにおめでとう!

【2011/01/30 up】