■Dreams come true
迫り来るクライマックス。
ヴァイオリンが切なくも激しく歌い上げ、オケは底から支え上げつつ迫力の大音量を響かせる。
それを今、纏め上げているのは、この俺だ。
研ぎ澄ました心の中に湧き起こる激情をぶつけるかのように渾身の気迫でタクトを振り上げれば、その勢いで流れる汗が飛び散った。
他に音がなければ風を切る音が聞こえたであろう勢いで腕を振り下ろす。
同時にズシンと腹の奥底に響く。まるで音の塊が腹を直撃したような。
すぐさま高く上げた逆の手で、たった今解き放たれたものを逃さないように掴み取る。
途端、ストン、と何かを切り落としたように訪れる無音。
正確には今まで鳴り響いていた楽器たちが空気を震わせた余韻が残っていた。
それが達成感と極度の疲労感にふらつきそうになる身体を柔らかく包み込んでくれている。
ゆっくりと腕を下ろし、ゆっくりと後ろ── 客席の方へと振り返る。
照明の落ちた客席は水を打ったような静寂に支配されていた。
俺の指揮は、音楽は、受け入れてはもらえなかったのか── 絶望にも似た思いに打ちのめされる。
思わず項垂れそうになった時。
巨大な津波のような拍手が客席から押し寄せてきた。
あちらこちらから上がるブラボーの声。
客席のほぼすべてがスタンディングオベーションだった。
こみ上げてくるものを感じて、天井を振り仰ぐ。
それから感謝を込めて客席へと深く頭を下げた。
そして俺は、共に戦い抜いた戦友とも言うべきソリストへと手を差し延べた。
向こうからも伸ばされた手をがしりと握る。
「── やったな、月森」
「ああ……いいコンチェルトだった」
お互いに流れる汗を拭うことも忘れ、不敵とも言える笑みを浮かべていた。
背後で拍手がわっと膨れ上がった。
それから指揮台を降りた俺が次に向かったのは、今の演奏における最大の功労者であるコンマス── いや、コンミスのもと。
椅子から立ち上がり、手を伸ばしてくれている。
少し涙ぐみながら満面の笑みを浮かべる彼女の手を、縋るように握り締めた。
「……サンキュ、香穂」
「うん、楽しかったね」
「ああ」
感極まった俺は舞台の上であることも忘れ、無意識に彼女を引き寄せ、抱き締めていた。
拍手に代わって湧き起こった悲鳴のような声も、今の俺にはまったく耳に入ることはなかった──
* * * * *
── ざわめく空気が肌を撫で、カランカランと何か硬いものがぶつかる音が耳を刺激する。
ぼやける視界の中、白く細長いものがピコピコと揺れていた。
一度目を閉じ、再びゆっくりと目を開ける。
「── 起きた?」
「おう……うおっ !? か、香穂 !?」
よく寝てたね、と笑う香穂からは、もごもごともカチカチとも言いがたい音が聞こえてきた。
「疲れた時は甘いものだよ。さっき火原先輩がくれたんだ〜。どれがいい?」
彼女がポケットから出した手にはカラフルな棒つきキャンディが乗っていた。
しゃべるたびに口元でピコピコ揺れる白い棒は、彼女の口の中にキャンディのひとつが入っているからに他ならない。
カチカチいう硬い音は、キャンディが歯に当たる音だ。
「……いや、俺はいい」
「そう?」
キャンディをポケットに戻し、香穂は膝の上に置いた楽譜に目を落とした。
── あれ? なんで香穂がここにいるんだ?
でもって、なんで俺はここに……
「── お、お前、オケの練習はっ !?」
「んー? 今、休憩中。15分間」
音符を目で追いつつ、くすくすと笑ってサイドの髪を耳にかける香穂子。
ぐるりと見回した講堂の舞台の上には人がまばらにしかおらず、客席のいたるところで思い思いに過ごしていた。
そうだった。
間近に迫った音楽祭に向けて練習の追い込みに入った香穂の陣中見舞いに来ていたのだ。
指揮者を目指す自分にとってもいい勉強になるし、と見学していたのだが、いつの間にか眠ってしまったらしい。
音楽科編入に向けての専門教科の勉強と、指揮の勉強、ピアノの練習、残り僅かになった普通科での勉強。
どれもおろそかにできない以上、時間の捻出は睡眠時間をカットすることでしかできない。
我ながら、相当疲れが溜まっているとは思う。
だが、こいつだって条件は同じ。
いや、俺以上だ。
編入の準備に加え、コンミスという大任の重責は彼女の細い肩にずっしりと圧し掛かっているはずだ。
こういう時、女って強いと思う。
いや、こいつ限定なのかもしれないが。
それにしても、すごいヤツだよな、こいつは。
ふぅ、と大きく息を吐き、座席の背凭れに身体を沈めた。
「── で、何が『サンキュ』だったの?」
「ぅえっ !?」
まさか俺、寝言言ってたのか !?
秘密を覗き見られたような気恥ずかしさに、かっと顔が熱くなる。
にまにまと笑いながら顔を近づけてくる香穂から、逃げるように顔をそむけて。
「……お、覚えてねえよ」
つい最近まで組んでいたアンサンブルで練習をしていた時、どうもしっくりこなくて全員の楽譜を見せてもらった。
その時にメンバーのひとりである月森に指摘されたのだ── 『君は指揮者志望なのか?』と。
ああそうだ、とさらりと言ってしまえばよかったのに、なんとなく突っ張って、ヘソを曲げてしまった。思い返せば恥ずかしいほどに大人気ない。
結局、香穂のとりなしで丸く収まったのだが、その時に月森から言われた言葉が頭に残っていたんだろう。
『君の指揮するオーケストラと、ソリストとなった俺が協演する日が来るかもしれない』
その言葉が、俺の中でいい目標になったことは間違いない。
その時のオケのコンミスは香穂がいい、と思ったのも自分自身だ。そう口にも出した。
だから、彼女がコンミスを務めるオケの音を聞きながら眠ってしまったことが、そんな夢を見せたのかもしれない。
……都合よすぎる夢だったけどな。
だが、夢を夢で終わらせないためにも、今やれることはきっちりやらなければ。
新たに心に誓いなおす。身が引き締まる思いだった。
「ねえねえ、なになに〜?」
ぐいぐいと身体を乗り出してくる香穂の額に手を突っ張り、
「う…うるせぇ、詮索すんな」
「あ、やっぱり覚えてるんだ、夢の内容〜」
「── そこ! じゃれるのは後にして! 練習再開します、みんな集まってちょうだい!」
指揮者の凛とした声が響き渡る。
講堂の中にどわっと笑いが起きた。
恥ずかしさよりも、しつこい追及から逃れられたことにほっとした、と言ったらこいつは怒るだろうか?
すいませ〜ん、と照れ笑いしながら立ち上がる香穂。
「はい、これ」
自分の口から抜き取った白い棒を俺に押し付け、楽器と楽譜を持って舞台へと走っていく。
オーボエがチューニングの音を鳴らし始めた。
徐々にいろんな楽器が寄り添って、音の厚みが増していく。
「ではさっきの続きから始めます。弦は一音一音に緊張感を持って。木管はもっと柔らかく。金管はブレスに注意して」
指揮者・都築がタクトを振る。
途端に講堂は音の粒で満たされた。
15分間のリフレッシュが功を奏したのか、さっきよりも(といっても眠ってしまう前までしか記憶はないが)いい音だ。
コンミス席に座る香穂の横顔も、さっきまでのにまにました顔とはまるで別人のようにきりりと引き締まっていた。
ゆったりと座席に座り、音に耳を傾ける。
はたと思い出したのは、手の中に残った棒つきキャンディ。
一回りも二回りも小さくなって淡い色になったそれの処遇に悩む。
しょうがないか、と口に放り込むと、作り物のメロンの味が口の中に広がった。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
あれ? オチは?
えーと、対立イベントとスペシャルと火原昼休みイベントを取り入れてみました。
あ、オチは『香穂子さんの食いかけキャンディを躊躇いなく食っちゃう土浦さん』ですかね?
【2009/09/03 up】