■トマト
「ふぅ」
香穂子は肘まで袖を捲り上げた腕で額に浮かぶ汗を拭う。
アンサンブル漬けの日々を送っている頃、休日の練習の後でふらりと赴いて以来すっかりハマってしまったのである
── 『収穫の喜び』というものに。
湖畔公園の収穫体験ゾーンにあるビニールハウス。
まだ寒い日が続いているというのに、ハウスの中の季節は真反対。色とりどりの夏野菜がたわわに実っている。
今日のお目当ては真っ赤に熟した完熟トマト。
生でよし、加熱してよし、の万能野菜である。
ハウスの中は暖房の熱だけでなく、人々の熱気に溢れていた。
とはいえ、高校生というのは香穂子たちだけで、他は年配の夫婦連れや小さな子供のいる家族連れ。最も幅をきかせているのはおばちゃんの集団である。
皆それぞれが童心に帰ったように無邪気に収穫を楽しんでいた。
「── それ、いいんじゃないか?」
既にトマトが山盛りになったカゴを抱えた梁太郎が指を差す。
「わ、ほんとだ!」
ひときわ大きく真っ赤に熟れたトマト。
香穂子は左手でそっと掴んで、借り物の園芸バサミで茎をパチンと切り落とす。
採ったばかりのトマトを山の上に乗せながら、
「ふふっ、なんか病みつきになっちゃうね」
「だな」
うまくバランスをとってトマトを乗せると、香穂子は次のターゲットを物色し始めた。
「こうしてると、農家にお嫁に行くのもいいかも、なんて思っちゃう」
「悪かったな、ウチは農家じゃなくてピアノ教室だ」
「え」
ぴたりと動きを止めてしまった香穂子。
少し屈んでいるせいで髪に隠れた顔は見えないが、髪の間から覗く耳がみるみる赤く染まっていく。
「あ」
梁太郎は自分の発言に気づいて、思わず持っていたカゴを取り落としそうになった。
まるで香穂子の嫁ぎ先が自分の元だと決め付けるような。
「い、いや、だから、農家ってのは収穫だけじゃなくて育てなきゃいけないんだから大変で──」
「う……うん、そだね」
「だ、だから……微妙な話題を出すなよ」
「ご、ごめん」
くすくすと笑うおばちゃんたちの視線を一身に浴びながら、二人してトマトのように真っ赤になって俯くのだった。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
2f、進んでますか?
どうしてこの二人は食い物絡みが多いんでしょうね。
【2009/03/01 up/2009/03/13 拍手より移動】