■キスまでの距離【Side R】
春、巻き込まれてしまった学内コンクールによって、目を背けていた音楽に引き戻された後。
やっと復帰したサッカー部も秋にはまた休部することになった。教会のバザーでのアンサンブルコンサートに巻き込まれたせいだ。
と言っても、コンクールの時とは違い、自分から進んで巻き込まれに行ったんだが。
そして秋から冬にかけてはアンサンブル漬け。
その間に膨らんだ想いを伝えるべく、コンサートの達成感に浸るのもそこそこに、小雪舞う冬空の下のイルミネーション煌びやかなツリーの傍で呼び出した相手を待つ。
そこから俺、土浦梁太郎の人生2度目となる『男女交際』は始まった──
* * * * *
── つっても、どう動いていいものやらわからねぇ。
前の経験を活かせばいいじゃないか、というヤツもいるだろうが、『男女交際』がなんたるかをわかっていなかった中学生の頃の話だ。
苦い思いだけが残る、たった三ヶ月間のことをどう活かせっていうんだ?
第一、相手に対するスタンスがまるで違う。
前は『彼女』にどう接したらいいのかわからず、友達と遊んでいるほうが楽しかったし、実際そうしていた。
が、『あいつ』は違う。
世界にはあいつと、あいつと一緒に奏でる音楽があればいい、なんて、柄でもないことを考えてしまう。
休日も一緒に練習して、どこかへ遊びに行って……といっても、今はコンサートを控えているわけじゃないから遊びがメインだが。
楽器街のディスプレイもクリスマスからお正月ものにすっかり変わり──
…………『変わる』、か…。
クリスマスの夜、俺と香穂の関係は変わった── 『友達』から『恋人』に。
……たぶん。
いや、なんでそんな曖昧なのか、って聞かれても困るんだが……
ああそうだよ、面と向かって『好きだ』『付き合ってくれ』なんて気恥ずかしくて言えなかったんだよっ!
まあ、自分でも遠回しな言い方だとは思ったが、あいつの反応を見てると……わかってくれてると思う。
だが全然変わらない。
そう、『距離感』が。
俺だって高校生にもなりゃ『恋人』のその先に何があるのかくらいわかってるさ。だからといっていきなりそういう方向へってのもマズイだろ?
……って、いやいやいや、いつもそんなことばっかり考えてるわけじゃねぇって!
いやまあ、まったく期待してないってワケでもない、ってのも正直なとこなんだがな。
うっかり零れてしまった溜息に、慌てて隣を見下ろす。
……よかった、気づかれていない。
ほら、並んで歩いている時に相手に溜息吐かれたら、さすがに気分悪いだろ?
だが、香穂は何か考え事をしているらしく眉間に皺を寄せ、ただ前を見て歩いていた。
やっぱ機嫌、損ねちまった…のか? さっきからあれこれ考えてる間、しゃべってなかったもんな。
うおっ !? なんだこいつ、いきなり勢いよく頭を振り出して。
「おい、香穂? 香穂?」
「……へ?」
顔を上げた香穂は、きょとんとして大きな目をぱちくりして。
……やけに顔が赤いな。もしかして、悪いのは機嫌じゃなくて体調か?
「大丈夫か?」
「だだだだだだ大丈夫っ! ぜぜぜ全然平気っ!」
過剰反応な気もするが、限界まで我慢しちまうヤツだからな、こいつ。
「そうか? なんか顔赤いぜ? 熱でもあるんじゃ──」
香穂の額に手を伸ばす── あ、まずいっ!
どすんっ!
「きゃっ !?」
首をすくめて後ろに下がった香穂は、案の定後ろを通っていた通行人にぶつかった。
跳ね返されてよろめいたところを、腕を掴んで受け止める。
そこまで睨むか?と問いたくなるほど険しい顔のおっさんに、とりあえず『すみません』と謝っておいた。
「ご……ごめんね?」
「いいって。それより── ほら」
赤い顔のまま小さな声で詫びる香穂に手を差し延べる。
「あ……うん」
俺のごつごつした手に香穂のほっそりした手が乗せられた。まるで犬が『お手』をするみたいに。
内心でほっとする。
ちょっとした賭け、みたいなもんだったから。
額に触れようとした時、俺の手から逃げるように後ずさったのは俺を拒絶したんじゃないか、なんて我ながら気弱になっちまったんだ。
香穂の手を痛くないだろうぎりぎりの強さで握り締めて、人通りの多い楽器街を歩き出す。
まさか自分が人前で女と手を繋いで歩く日が来るなんて、ちょっと前まで想像もつかなかったんだよな。
初めて香穂と手を繋いだのは……無料コンサートの帰りだった。
あれはどちらかというとあまりの人の多さにはぐれないように、っていう意味合いが強かったが、不思議なことに全然抵抗がなかった。
むしろ放したくないと思ったくらいだ。
肩をぽんと叩いたり、からかうように頭に手を乗せて髪をかき回してみたり、そんなことはしょっちゅうだったが、考えてみればあの時初めてこいつの肌に直接触れたんだ。
決していやらしい意味ではなく、こいつの温度を直に感じて、一歩近づけたような満足感。
つらつらと思い出しながら手の中の温かさを感じていると、なんとなく欲が出てきた。
握っている手を少し緩めて、手のひらを合わせてみる。
ほんの少しずらして、指を組み合わせるようにして握り直した。
いわゆる『恋人つなぎ』ってヤツだ。
その名の通り、確かに普通に繋いでいる時よりも、より近い感じがする。
すると、香穂がすっと寄り添ってきて、手にぎゅっと力が込められた。
嫌がられることも覚悟の上だったが、杞憂に終わったらしい。
嬉しくなった俺は、お返しとばかりにぎゅっと握り返した。
午後は俺の気に入っているCDショップへ。
香穂の体調が悪いと思ったのは気のせいだったらしく、普段と変わらない食欲で昼メシをたいらげていたので一安心だ。
クラシックコーナーの棚を熱心に見ている香穂は、欲しいCDがある、と言う。
「一緒に探してやるよ。タイトルは?」
「えとね、ラヴェルのヴァイオリンソナタなんだけど」
「ふーん……」
ラヴェル、か。
棚の配置は作曲家別の五十音順。ラ行は下の方だと見当をつけて、膝に手を突っ張って棚の中段辺りを覗き込んでいる香穂の隣にしゃがみ込む。
「まさかとは思うが、それは練習するから俺に伴奏をしろっていう遠回しな要求か?」
悪くない、むしろ大歓迎だけどな。
目当てのCDを指先で手前に傾けて、見つけたことを教えてやろうと横を見ると、ほとんど変わらない高さに香穂の横顔があった。
ドキリ、と心臓が跳ねた。
指が離れて、CDはカタンと硬い音をさせて元の場所に収まった。
これまで、こんなに近くでこいつの顔をみたことがあっただろうか。
いつもくるくるとよく動く大きな目はくるんとカールしたまつげに飾られていて。
姉貴がいつも使っているハサミの変形したようなヤツ── 確かビューラーとか言ったか── あれをこいつも使っているのだろうか?
柔らかそうな頬は店の暖房のせいか、ほんのりと赤く染まっている。
CDを探すのに集中しているのだろう、少し尖らせた唇はリップクリームをつけているのか、つやつやと光って見えた。
「あははっ、違う違う、単純に聞いてみたいって思っただ── け──」
くりんと顔をこちらに向けてきた香穂と目が合った。
どちらかが少し動けば触れそうなほどの至近距離は、まるで──
またも跳ね上がる心臓。
すると香穂は屈めていた腰をがばっと起こし、
「みみみみ見つからないから今日はいいや! わ、私、ちょっとJ-POP見てくるね!」
早口でそう言って、ダッと駆け出した。
「おいちょっと待て! ここに──」
……まいったな…
襲ってくる気まずさにひとしきり頭をがしがし掻き毟った後、一枚のCDを棚から抜き取ってレジへと向かった。
楽器街を後にして、最寄の駅に着いた頃にはとっぷりと日が暮れていた。
冷たさを増した空気に街灯の明かりが街並みにくっきりと陰影を落とし。
まだ多くの人が行き交っている駅前通りを抜けてそっと香穂の手を攫えば、すんなりと俺の手の中に収まった──もちろん『恋人つなぎ』で。
「── 香穂」
進行方向に目を向けたまま、名前を呼ぶ。
「……ん?」
「ちょっと……公園に寄っていかないか?」
CDショップで感じた気まずさを引きずって、その後はあまり話せなかった。
たぶん、香穂もそれを感じ取っているのか、いつもよりおとなしい。
普段なら尽きることなく会話が弾むのに。
その気まずさをなんとか解消しておきたくて誘ってみた。
うん、と頷いてくれた香穂の手を引いて、学校の帰りに時々寄る公園へ入っていく。
昼間は子供たちが遊ぶ声で賑やかだが、暗くなれば不気味なほどにしんと静まり返り。
僅かな明かりは余計に闇を引き立てている。
その明かりから少し離れたベンチに並んで座り、
「── これ」
コートのポケットから取り出したCDを差し出す。
「え…?」
「ラヴェルのヴァイオリンソナタ」
「あ……あったんだ…」
「ああ。見つけて呼んだんだが、お前さっさと行っちまったから……一応買っといた」
「ご…ごめん……あ、お金! いくらだった?」
「お前にやるよ」
「でも!」
「んじゃ、聞き飽きたら返してくれな」
受け取ろうとしない香穂の手首を掴んで、手のひらにぽんとCDを乗せてやる。
香穂はそれを抱き締めるようにして俯いて、
「うん…ありがと」
聞こえてくる消え入りそうな声。
抱き締めたい……それから、もう一歩近づきたい、と思った。
そりゃ、これまでまったく考えたことがないと言ったら嘘だ。
誰だって……好きな女にキスしたい、って思うだろ?
CDショップで間近に顔を合わせた時、『まるでキスする直前みたいだ』と思ったのが気まずさの原因。
だが、情けない俺は、出ない勇気を無理矢理振り絞っていつもやるように香穂の頭に手を乗せた。
「……寒く、ないか?」
「……へ?」
さすがに唐突だったのか、きょとんとした香穂は俺の顔を見てぱちぱちと瞬きする。
……俺の疚しい考えを見透かされそうで怖い、と思ったら目を合わせていられない。
「い、いや、寒いに決まってるよな、冬なんだし」
「そ、そうだよね。昼間は日差しがあって暖かくても、日が落ちるとやっぱり寒くなるよね、冬なんだし」
「だ、だよな」
あははは、と二人して妙に乾いた笑い。
だが、ここで退いてなるものか。
俺はさらに勇気を振り絞り、香穂の頭に乗せていた手を肩へと下ろして、きゅっと力を込める。
── 華奢な肩だ。
吸い寄せられるように顔を近づけていく。
現状を把握していないらしい香穂は、大きな目をぱちぱちさせながら、俺の顔を見つめている。
堪りかねた俺は、
「バカ……目ぇ瞑れよ」
頼むから目を閉じてくれ。
嫌ならビンタでもなんでもして逃げてくれ──
願いは通じたのか、香穂はギュッと目を閉じた。
安堵のあまり崩れ落ちてしまいそうになるが、すぐさま別の緊張が襲ってくる。
距離はどんどん縮まって、ついに俺は香穂の艶やかな唇に自分の唇を押し当てた。
う、わ……想像してたより、もっと柔らけぇ……
ずっと冬の外気にさらされて冷たくなっていたお互いの唇は、触れ合っているうちにじんわりと温かくなっていく。
── ふと、あることに気がついた。
今はいい、目瞑ってるし。
だが、離れた後、どんな顔してこいつと顔を合わせればいいんだ…?
考えた途端、頭の中は大パニックだ。
あれこれ策を巡らせた挙句、『見せなきゃいい』という結論に落ち着いた。
肩に回していた手をそっと香穂の後ろ頭へ移動させ、唇を離した瞬間、ぼふっと自分の胸に香穂の顔を押し付ける。
「……悪い、今お前の顔、まともに見られねぇ……」
一応断っておいて、香穂が顔を上げられないようにぎゅっと力を込めて抱き締めた。
腕の中の感触をしばらく堪能した俺は、極力顔を見ないようにして香穂を家まで送り、そのまま逃げるようにして自宅へ向かった。
と、いくらも行かないうちにポケットの中の携帯が鳴り出した。
ディスプレイにはメールの着信の表示。送り主は香穂だ。
恐る恐る開いてみると、そこにはたった三文字── 『大好き』。
「………っ」
思わず緩む口元を手で覆い、すぐに返信メールを打ち込む。
『俺も好きだ』── と入れようとして、まだカーソルが点滅している『す』の文字を消去してから送信ボタンを押した。
ここまできて往生際の悪い俺。笑いたきゃ笑えばいいさ。
だが、今日一日で確実に近づいた俺たち。
ポケットに携帯を滑り込ませて自宅への道を走り出した俺には、頬に当たる冬の冷たい空気がやけに心地よかった。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
『書きたい』と公言していた土日リク初ちゅー話の土浦編でございます。
微妙に考えてることがズレてるところがポイント(笑)
夢見る乙女的思考の香穂子さんに対し、土浦さんはもっと現実的っていうか(笑)
男性の心理はよくわかりませんが、概してこんなもんじゃなかろうか、と。
【2009/01/30 up】