■雨だれ 土浦

「── ふーんふふーん、ふーんふーん♪」
 家に帰ろうと降りていったエントランスで、ふいに耳に入ってきた鼻歌。
 聞き覚えのある声に辺りを見回すと── いた。
 財布を持った手を大きく振りながら、ご機嫌な様子で購買の方へ向かっていくあいつが。
「おーい、日野!」
 ピタリと足を止め、小動物のようにキョロキョロと周囲を見回した日野は、俺の姿を見つけるとニコリと笑って走り出した。
「土浦くん、今帰り?」
「ああ、練習室の空きがなくてな。お前は?」
「私は練習室取れたからさっきまで練習してたんだけど、喉渇いちゃって」
 そう言って、赤い財布を振ってみせる。
 なるほど、購買に飲み物を調達に、ってところか。
「ところで、今の調子っぱずれな鼻歌は『雨だれ』、か?」
 聞こえたのは紛れもなくショパンの前奏曲の1曲。
 『調子っぱずれ』なんて嘘だ。
 音符通りの正確な音。
 ハミングだけでも良く通る声。
 ちゃんとした発声練習でもすれば歌でもやっていけるんじゃないかと思わせるような。
「あはっ、聞こえちゃった? でも今日の天気にぴったりでしょ?」
 そう、外は雨。
 梅雨入り宣言が出されたばかりの曇天からは、昨夜からしとしとと雨が降り続いている。
「人間ってゲンキンなもんだよね。前は雨が降ると『うっとうしい』としか思わなかったのに、ヴァイオリン始めてからは雨の音も音楽みたいに聞こえてくるんだから」
 照れ臭そうに少し肩をすくめ、ふふっ、と笑う日野。
「ショパンってスゴイよね〜、そういうのをちゃんと曲にしちゃうんだもん── って、音楽始めたばかりの私が言うのもおこがましすぎるか」
 あはは、と楽しそうに笑う。
 こいつは今、音楽が楽しくて仕方ないらしい。
「── 聴かせてやろうか? 『雨だれ』」
 するりと言葉が出ていた。
 すると日野は目をキラキラと輝かせ、
「ほんと !? やった、土浦くんのピアノ! あ、お礼に飲み物おごっちゃう!」
 日野はポケットに突っ込んでいる俺の腕を掴むと、購買の方へと引っ張って行こうとする。
「礼なら──」
 思わず口にしそうになった言葉を飲み込んで。
 引っ張っても動かなかった俺を振り返り、不思議そうに首を傾げる日野。
「……あ、いや……ありがたくご馳走になるか」
 ニコッと笑った日野に引きずられ、購買へと向かった。

 危ないところだった。
 あんなこと言ったら、俺の柄じゃなさすぎて爆笑されちまう。
 ── 礼なら『お前を独り占めする時間』だけで十分だ、なんてな。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 梅雨入りしたというのに、今日はとってもいい天気です(笑)
 そんな感じで『雨』をテーマに書いてみました。
 土→日ですな。
 んー、短いっ!
 時期的に最終セレ直前、もしくはコンクール終了直後ってとこでしょうか。
 ヴァイオリン・ロマンス成就せず、コルダ2へ続く感じで。

【2008/06/13 up】