■土浦くんの指
学内コンクールも残すところ最終セレクションを残すのみとなったある日。
練習室でピアノを弾いていた土浦梁太郎は、何気なく目をやった扉の細いガラス窓に映る人影にギョッとして手を止めた。
扉に張り付いてこちらを見ているのは、同じコンクールに出場している日野香穂子。目が合った瞬間、彼女はバツが悪そうに眉をしかめ、視線を逸らせて何か呟く。
読唇術を習ったことはないが、その唇の動きは『あ、バレた』と読み取れた。
再びこちらに視線を向けた彼女に、土浦はちょいちょいっと小さく手招きする。
と、遠慮がちに扉が開かれて、防音の聞いた練習室内に廊下からの僅かな雑音と香穂子本人がするりと入ってきて、彼女が扉を閉めると同時に雑音だけがシャットアウトされた。
「余裕だな、敵情視察か?」
「違いますぅ。購買に飲み物買いに行こうと思って前を通ったら土浦くんが見えたから、ちょっと観察してたんだよ」
「似たようなもんだろ」
いつから見られていたのだろうか。なんとなく恥ずかしい。
音楽に関しては素人だった彼女にうっかり関わってしまったがために参加する羽目になってしまったコンクール。
最初はとんだ厄介ごとに巻き込まれたものだとげんなりしていたが、今では巻き込まれてよかったと思っていた。
その巻き込んだ張本人である香穂子のことは、知り合った初めの頃は強面で知られる自分を怖がりもしない変わったヤツだと思っていたが、
現在は憎からず── いや、好ましく思っているから不思議なものだ。
最近の土浦にとって、彼女と会話をすること、彼女の音を聞くことは胸の中がむず痒くなるような妙な高揚感をもたらしていた。
そしてそれを何度でも味わいたいと願っている。
今まさに、その機会が巡ってきたのだ。
「ねえねえ、最終セレクション、何弾くかもう決めた?」
「いや、まだ思案中ってとこだ。お前は?」
「私も考え中。最後だし、パーッと派手な曲もいいかなー、とは思ってるけど」
香穂子はツカツカと歩いてきてピアノに向かっている土浦の背後に回り、彼の斜め後ろで足を止めた。
振り向いて手を伸ばせば楽に届く位置。土浦の心拍数が跳ね上がる。
「ね、1曲聞かせてよ」
「はぁ? ライバル様に手の内を明かすような馬鹿な真似はしないぜ?」
「そんなこと期待してないわよ〜。3セレの時の曲でいいから。ダメ?」
「ったく……わかったわかった、弾かせていただきますよ」
すっと息を吸い、奏で始めるのはショパンのエチュードop.10-5。俗に『黒鍵のエチュード』と呼ばれる曲。その名の如く、右手は見事に黒鍵しか使わない。
セレクションでの演奏時間は1分半以内という規定があるが、編曲などしなくても規定内に収まってしまう短い曲だ。
一気に弾き終え、ふぅ、と息を吐く。
しんと静まり返った練習室。
異様な気配を感じて、梁太郎は背後を振り返った。
いつもなら拍手なりコメントなりの反応してくれるはずの香穂子は、身じろぎも瞬きさえもせず、じっと鍵盤を見つめていた。眉間にうっすらと皺を浮かべ、心なしか顔色が悪い。
「お、おい、大丈夫か?」
「……え、あ……うん…」
声をかけられて我に返ったのか、香穂子は細く長い息を吐いて、怯えたように自分で自分を抱きしめた。
「それにしても……よく動くね」
「は?」
「指だよ、指」
彼女が青ざめたことと自分の指の動きがどう関係するのか。土浦は理解に苦しみ、首を捻る。
「まあ……この程度は動いてくれなきゃピアニストとしちゃやってけないだろ」
「だよね……」
いまだ虚ろな視線を鍵盤に注ぎながら、香穂子は自分を抱きしめる腕に力を込めた。
「おい、本当に大丈夫か? 顔、青いぞ?」
「あ、うん、大丈夫……ちょっと思い浮かべちゃっただけだから」
「はぁ? 何を?」
「……ムカデの足」
「はぁっ !?」
「土浦くんの指見てたら、ムカデの足がもにょもにょ動くの思い出しちゃって……あぅ、気持ち悪い…」
香穂子はブルッと身体を震わせると、自分を抱きしめたまま練習室を去っていった。
ガチャリ、と重い音を立てて扉が閉まる。
取り残された土浦は、ゆっくりと視線を落とす。
そこには好きな女に『ムカデの足』に喩えられ、『気持ち悪い』と言われてしまった自分の手。
そのまましばらくの間、土浦は固まってしまったように動けずにいた。
そして最終セレクション。
幼い頃に出たコンクールで受けた痛手より更に大きな心の傷を負ってしまった土浦の結果は散々なものだったらしい。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
えへっ、ごめんねつっちー(笑)
香穂子さんが『気持ち悪い』って言ったのは、君の指じゃなくてムカデだから(笑)
ほんとは【がむばれ!コルダーズ!】カテゴリに入れようと思ったんだけど、
まあこっちでいいかな、と。
『黒鍵』練習してて、あまりの指の動かなさに泣きそうになった時に降ってきたネタ(笑)
【2008/06/05 up】