■支えるということ 土浦

 2月下旬。
 バレンタインデーに行われたアンサンブルコンサートも成功し、日野香穂子は本格的にコンミスとしての活動に打ち込むことになった。
 が、指揮者の補佐としてオーケストラをまとめるための知識はほぼ皆無。
 そんな訳で、音楽祭でオケを指揮する都築や音楽科の教師たちに教えてもらった書籍に目を通すことから始めることにしたのだが──

*  *  *  *  *

 土浦梁太郎はなんとなく足が向いた屋上にいた。
 ベンチには見慣れた華奢な後ろ姿。
 2月にしては暖かい風が彼女の髪を背中で揺らしている。
「なーにやってんだ?」
 扉のところから声をかけてみるが、少し丸めた俯きがちな背中からは何も反応はない。
 アンサンブルコンサートで認められたとはいえ、彼女がコンミスを務めることにいまだ反対する者たちに何か言われて落ちこんでいるのだろうか?
 いや、その程度のことでヘコむようなヤツではないはずだ。
「……香穂?」
 その華奢な両肩にずっしりと重責が圧し掛かっている彼女を支えてやりたい。
 とりあえずは話を聞いてやって発破かけてやろう、と一歩足を踏み出したところで──
「ぅだああああぁぁぁぁっ !!」
 いきなり叫び出した香穂子は自分の頭を狂ったように両手で掻き回し始めた。その鬼気迫る様子は梁太郎が思わず後ずさるほど。
 その時、耳元にチラリと細いコードが見えて、イヤホンで何か音楽を聞いていたのだと理解する。
 梁太郎は香穂子の背後に立つと、頭上を這い回っている彼女の両手首をガシリと掴んだ。
「ぅきゃっ !?」
 サルのような悲鳴を上げてビクリと身体を震わせた香穂子がゆっくりと顔を上げ、上から見下ろしている梁太郎と目を合わせ、
「あ、梁…?」
 とへらりと笑う。
「よ。何ひとりで暴れてんだ?」
 掴んでいた手を放し、鳥の巣のようになった髪を指で梳いて整えてやる。
 と、香穂子は耳からイヤホンを外し、膝の上から数冊の本を持ち上げて、梁太郎に見せるように掲げて溜息を吐く。
「……もう、脳ミソ干からびそう…」
 香穂子の手から抜き取った本の背表紙を見れば、どれも『オーケストラ』『コンサートマスター』の文字がある。
「あー……なるほど」
 綺麗に整えてやったばかりの頭をぽん、と軽く叩き、彼女の隣に腰を下ろす。
「で、何がわからないんだ?」
「全部、すべて、何もかも」
「ぶっ」
 完全に途方に暮れて情けない顔になっている香穂子を見て、梁太郎は思わず吹き出した。笑われてムッとした香穂子は拗ねたように唇を尖らせる。
「だって文字だけ読んでもわかんないもん。実際にオケで演奏してみなくちゃ」
「そりゃそうだ」
 くすっ、と香穂子が笑った。どうやら同意されて機嫌が直ったらしい。
 視線を隣にいる香穂子から空へと移し、少し何かを考えていた梁太郎が、意を決したようにすぅっと息を吸い込んだ。
「なあ香穂…………コンミスの役目って、何だ?」
 空を見上げたまま、梁太郎が問う。
「え……? 何って……指揮者の補佐、でしょ?」
「じゃあ── 俺は何を目指してる?」
「もちろん指揮者でしょ── あ」
 視線を下ろせば、香穂子の真ん丸に見開いた目。
 梁太郎はニヤリと笑い、
「そういうこと── 俺を頼れよ。お前をほったらかしにしてまで手に入れたなけなしの知識、惜しまず提供してやるぜ?」
 香穂子もお返しとばかりにニヤリと口の端に笑みを浮かべ、
「やけに自虐的だねぇ、趣味悪ぅ〜」
「何とでも言え。事実は事実、せいぜい今後の教訓にさせてもらうさ」
「期待しときましょ──── さてと」
 CDプレイヤーを掴んでベンチからすっくと立ち上がる香穂子。場所を替えての勉強に付き合うか、と梁太郎も立ち上がる。
「じゃあさ、あっち向いてベンチ跨いで、この辺りに座って」
「はぁ?」
 いいからいいから、と急かす香穂子に従い、戸惑いながらも指示通りベンチを跨いで腰を下ろす。
 と、背後の一人分ほどのスペースに腰を下ろした香穂子が、とすんと背中に凭れかかってきた。
「おい、勉強は?」
「うだうだ考えるのに疲れちゃったから、今日はとりあえず心のままに音楽に身を委ねてみる」
 はい半分、と横から差し出されたのはコードの長い右耳用のイヤホン。左耳用は既に香穂子の耳につけられていた。梁太郎も素直に右耳にイヤホンをつける。
 カチャリ、と音がして、片耳だけに聞こえてくるオーケストラ。彼女がコンミスとして演奏する曲だ。
 この1年、理屈より実践でヴァイオリンを弾きこなしてきた彼女のこと、もしかすると書籍を読み漁るよりもこうして音楽を聞いているほうが実りがあるのかもしれない。
 そんな風に思いながら、梁太郎は背中を預けてくる彼女がリラックスして音楽に没頭できるよう、身体を前に傾け膝の上で頬杖をつく。
 香穂子から受け取ったままになっていた本をベンチの上に置き、パラリとページをめくってみる。
 次第にほんわりと温かくなっていく背中。
 気がつけば背中だけでなく頭まで凭れかかってきているらしい。
 ── リラックスしすぎだろ。
 梁太郎は苦笑しながらも、片耳だけのオーケストラをBGMにして、心地よい重みを受け止め支えることに専念することにした。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 アンコ引継END後。
 香穂子さんからすれば、『傍にいてくれるだけでいいの♥』ってとこでしょうか。

【2008/05/31 up】