■将来の夢
ある日の昼休み、普通科3年・サッカー部所属の長柄芹一はエントランスで見知った顔を捕まえて他愛ない話をしていた。
そこに現れたひとりの女子生徒。
モスグリーンのジャケットに身を包み、真っ白な短いプリーツスカートの裾を揺らして大股で闊歩している少女は学内で1、2を争う有名人だ。
普通科でありながら、その細腕に持ったヴァイオリンで並み居る音楽科の連中を薙ぎ倒し(嘘)、今や押しも押されもせぬ実力派ヴァイオリニストのひとりである。
その名を、日野香穂子、という。
愛らしい顔でころころとよく笑い、外見の線の細さに似合わず芯が強く、打てば響くような小気味よい会話のできる彼女に真っ赤なバラの花束を差し出し、
頭を深く下げて『お願いします!』と交際を申し込みたいところではあるのだが、いかんせん彼女には『男』がいた。
その『男』は部活の後輩で、春辺りから幽霊部員化した彼は一時期ゾンビのように復活したものの秋には再び幽霊化し、3学期になると成仏して『元部員』となり、
来春には彼女と共に音楽科へ移ることが決まっている。
長柄は口元にニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべ、すぅっと息を吸い込んだ。
「おーい、土浦の嫁〜!」
フロア中に響き渡るような大声。
香穂子はピタリと足を止めて声の主の方へと顔を向けると「あ、長柄先輩」と呟いて、アールデコ調の柱に凭れてしゅたっと手を上げている彼の方へと向きを変えて歩き始めた。
その形相を見て、長柄は彼女に声をかけたことを後悔する。
普通、女の子というものはこういう風にからかわれると顔を真っ赤にして照れまくるのが相場だと彼は思っていたのだが、
今こちらに近づいてくる香穂子は顔を赤らめることもなく不機嫌を顕にしていた。
目の前に仁王立ちになり腰に両手を当てると、キッと長柄を睨みつけ、
「先輩、その『嫁』っていうの、やめてもらえません?」
「す、すまんすまん、俺が悪かった」
「私は『嫁』になんかなるつもりはないんですから」
「え…?」
音楽に目覚めた彼女は、結婚もせずにヴァイオリンと一生を共にしていくつもりなのだろうか?
「……女の子は『好きな人のお嫁さんになりたい』とかって夢見たりするもんじゃねぇの?」
「それは私だってそう思いますよ」
── なんだよその矛盾は。
「でも、その『お嫁さん』っていうのは結婚式でウェディングドレスを着ている花嫁さんのことなんです」
「じゃあ『嫁』でいいじゃん」
長柄の言葉に、香穂子の目がすっと細くなった。くいっとわずかに顎が上がる。
「『嫁』って、漢字で書くと『女へんに家』ですよ? まるで女は外に出ずに家にいろ、って言ってるみたいじゃないですか」
「へ?」
「だから私は『妻』になるんです!」
腰にあった片手を胸元まで持ち上げて、グッと拳を握り締める香穂子。その背後にはメラメラと燃え上がる炎が見えた気がした。
「続柄で言えば『夫』には『妻』! 一般的な呼び方としては『旦那さん』には『奥さん』! 決して『嫁』じゃないんです!」
「じゃあ……『土浦の奥さん』…?」
「それならOKです♪」
握っていた拳を開いて親指と人差し指で輪を作り、ご丁寧にOKサインまで出してくる香穂子は、さっきまでとは打って変わってご機嫌な様子。
「あ、購買行かないとパンがなくなっちゃうので、私はこれで失礼しますね」
ぺこりとお辞儀をすると、ひらりとスカートを翻し、彼女はすたすたと購買の方へ歩いていってしまった。
「………ぷっ」
思わず吹き出した。
後から後から笑いがこみ上げてきて、腹筋が引きつるように痛くなってくる。
『嫁』だろうが『妻』だろうが意味合いはそれほど代わりはないだろうに、彼女には彼女なりのこだわりがあるのだろう。
それよりも、『嫁』に過敏に反応した彼女が『土浦の』という部分は当たり前のように受け入れていて、一切触れてこなかったことが可笑しくて。
「だとさ── よかったな、土浦」
長柄は彼女が現れるまでしゃべっていた顔見知り── 柱の裏で耳まで真っ赤になった顔を隠すように小さくなってしゃがみこんでいる元サッカー部員・土浦梁太郎の肩をぽん、
と叩いてやった。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
特に意味はないんですけど(汗)
まぁ、どちらかと言えば、あたしも『嫁』はあまり好きじゃないです。
芸人さんなんかは『○○の嫁』ってよく使ってますが、
嫁っていうのはあくまで家から見た呼び方だと思うので。
「私はあなたと結婚したのであって、あなたの家と結婚したわけじゃないわ!」
っていう修羅場、ドラマなんかでたまにありますよね。
『嫁』と『妻』にはそんな違いがあるんだと思ってます。
【2008/05/11 up】