■或るヴァイオリニストと或るピアニストの話 土浦

 第3セレクション終了直後のことだ。
 俺は森の広場の春の日差しが降り注ぐベンチに腰を落ち着け、家の本棚から漁ってきた楽譜の束をめくりながら、最終セレクションで演奏する曲を選んでいた。
 その時、ヴァイオリンを手にふらりと姿を現した日野に、なぜか小学生の頃に出たコンクールでの苦い思い出を語ってしまった。
 なぜそんな話をしてしまったのか、今でもよくわからない。
 ピアノから離れていたことへの言い訳をしたかったのか。
 それとも単に誰かに聞いて欲しかっただけなのか。
 ただ、吐き出したことでずっと圧し掛かっていたものがすぅっと消えたのは確かだった。

 しかしその日以降、日野は人前での練習をパタリとやめてしまった。

*  *  *  *  *

 『ラ・カンパネッラ』── パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番第3楽章をリストが編曲したピアノ曲。
 大好きなこの曲が課題曲だから、というだけの理由でエントリーした高校生の部で、 自分が小学生だったせいで順位さえつけられず『特別賞』なんてものを押し付けられてからはずっと封印してきた因縁の曲。
 練習室のひとつに鐘の音が鳴り響く。
 弾きたいと思ったのは封印して以来初めてのこと。
 弾いていても何の感慨も湧いて来ず、やっぱり俺はこの曲が好きなんだと再確認する。
 ふと頭に過ぎったあいつの顔。
 鐘の音がぴたりと止んだ。
 ── なぜあいつは姿を見せないのだろう?
 いつもなら曲が完成していようがしてなかろうが、たくさんのギャラリーを前に堂々と弾いていたというのに。
 同じ楽譜を持っていたあいつに、同曲対決だ、なんて吹っかけたからだろうか。
 それで萎縮してしまったのだとしたら、悪いことをしたな。
 はぁ、と溜息を吐いて、再び鍵盤に指を滑らせる。
 鳴り出した鐘の音は、少し翳りを帯びていた。

 翌日、特別教室から教室へ戻る途中、廊下で向こうから歩いてくる日野と目が合った。
 教科書や文房具を抱えているところからすると、次の時間が教室移動なのだろう。
 目を逸らせぬまま距離はどんどん縮まっていき、すれ違う瞬間──
 日野はふわりと花開くように笑った。
 疚しさの欠片もない、突き抜けたように真っ直ぐな笑み。
 そのくせ瞳には挑戦的な鋭い光を湛えている。
 そうだった── こいつには妙な気遣いも遠慮もいらないんだったな。
 なんせ俺が認めたライバル様なんだから。
 そんなに付き合いが長いわけじゃないが、たがか俺の一言程度で尻尾巻いて逃げ出すようなヤツじゃないことくらい知っていたはずなのに。
 きっとこいつは最終セレクションであの曲を弾く。
 根拠はないが、はっきりとそう確信した。今は誰にも聞かせないようにしての秘密特訓ってところだろう。
 ── いいぜ、受けて立ってやろうじゃねぇか。

*  *  *  *  *

 最終セレクション── 今日の成績で総合順位が決まる。
「よう」
 ヴァイオリンを大事そうに抱え、集中力を高めているのか薄暗い舞台袖の壁に凭れて目を瞑っている香穂に近づき、驚かさないように小さな声をかける。
「あ……土浦くん」
 香穂はゆっくりと目を開け、穏やかな笑みを口元に浮かべた。
「いよいよこれでラストだな」
「そうだね」
「お前……何を弾くんだ?」
 今日までの数週間、俺はこいつが何を練習していたのか全く知らない。 客席にいる生徒たちには入口で演奏順と曲目を印刷したプリントが配られているのだが、参加者である俺たちには演奏順しか知らされていないのだ。 少し経ってこいつの出番になればわかることだというのに、今ここで聞かずにはいられなかった。
「……土浦くんは?」
「俺か? 俺は……聞いてのお楽しみってところだ」
「じゃあ私も内緒♪」
「ははっ、お前らしいな」
 いつものように頭をくしゃりと撫でようとして、俺は手を止めた。香穂は普段背中に流している髪をすっきりと纏め、そこには髪飾りの大輪の花が咲き誇っていたから。
『── 普通科2年5組、土浦梁太郎くん』
 場内アナウンスが俺の名前をコールする。
「ほらほら、出番だよ」
 舞台の方に身体を向けられ、背中をとん、と押された。
『── リスト作曲、「パガニーニによる大練習曲第6番」』
「え……?」
 肩越しにちらりと振り返ると、驚きに真ん丸になった大きな瞳とぶつかった。
 パチパチ、と音が聞こえそうな瞬きを数回繰り返した後、丸かった目がすぅっと細くなった。くすっと小さく笑った香穂は、いってらっしゃい、ともう一度俺の背中を押す。
「……おう」
 俺は後ろ手にひらりと手を振って、舞台へと向かった。
 ── 悪いな、『鐘』じゃなくて。
 もちろん考えなかったわけじゃない。あの曲に対するわだかまりがなくなった今、コンクール最後の舞台で弾きたいと素直に思っていた。
 しかし──
 スポットライトを浴びるピアノの前に座り、深呼吸ひとつ、音を刻み始める。
 あいつは今、舞台袖でどんな顔をしてこの曲を聞いているのだろうか。
 恋に破れて落ち込んでいたリストは、パガニーニの演奏を聞いて救われたという。
 偉大な大音楽家に自分を重ねるのもおこがましいが── あいつは俺にとっての『パガニーニ』なのだ。
 理不尽な出来事でピアノへの思いを砕かれ、音楽から逃げていた俺を、あいつの演奏は── いや、あいつの存在がここまで救い上げてくれた。 だから、リストがパガニーニに思いを馳せて作ったであろう曲、それも彼の名を冠した曲が今日弾くにふさわしいと思ったのだ。
 ── この曲の演奏に込めた俺のメッセージを、お前は受け取ってくれるだろうか。
 溢れ出す気持ちを音に託しているうちに、1分半の演奏はあっという間に終わってしまった。
 結果なんてどうでもよかった。
 満足感だけを抱いて、俺は舞台を後にした。

「お疲れさま」
 袖に下がった俺は香穂の笑顔に迎えられた。
「ああ」
「すごく素敵だったよ」
 言葉とは裏腹に、何が可笑しいのかくすくすと笑い続けている。
 俺のメッセージは伝わらなかったのか……ガクリと肩が落ちた。
 出番を終えた今になって舞台袖の様子が目に入ってきた。自覚はなかったが、周りが見えないほど緊張していたらしい。ぐるりと周りを見回して、ふとあることに気がついた。
「お前……伴奏者は?」
 次が出番だというのに、第1セレクションからこいつの伴奏を務めてきた森真奈美の姿がないのだ。
「うん、今日は森ちゃんは客席だよ」
「はぁっ !?」
 こいつ、伴奏なしで『鐘』を弾く気か !?
『── 普通科2年2組、日野香穂子さん』
「あ、呼ばれちゃった」
 こいつの持つ強さを写し取ったような真紅のドレスの裾をひらりと翻し、俺の横をすり抜けていく。
『── パガニーニ作曲──』
 本当に伴奏なしで大丈夫なのか?
『── 「24のカプリース第24番」』
「っ !?」
 肩越しに振り返ったあいつは照れ臭そうな笑みを浮かべ、パチン、と茶目っ気たっぷりのウィンクひとつ、耳元の星を煌かせ、 光溢れるステージ中央へ向かってピンと背筋を伸ばして歩いていった。

*  *  *  *  *

 耳に届いたメロディーに誘われるようにして向かった屋上。
 思った通り、そこには香穂がいた。
 奏でていたのはエルガーの『愛のあいさつ』── その曲を弾いていたということは、メッセージは届いていたのだと確信する。
 いや待てよ、確信していたはずのあいつの選曲を見事に外した実績からも俺の『確信』は当てになんかなりゃしない、と急に弱気になってくる自分が可笑しくなってきた。
 演奏の邪魔をしないように音を立てずにそっと扉を閉める。と言っても、ここに入った時は相当無遠慮に飛び込んでしまったのだから、誰かが入ってきたということには気づいているだろう。
 手を止めぬまま奏で続けられた『愛のあいさつ』の最後の一音が、すぅっと空に溶けるように消えていった。
 香穂はふぅ、と息を吐き、ヴァイオリンを肩から下ろし、ゆっくりと振り返りつつ、
「── 総合優勝おめでとう、土浦くん」
 ここにいるのが俺だとわかっていたのか、準備されていたかのように迷いなく紡がれた言葉。
「…サンキュ。お前も……総合2位、おめでとな、香穂」
「優勝狙ってたんだけどなー」
 舞台に上がったときの紅いドレスのまま、化粧で赤く色づいた唇を尖らせながらヴァイオリンの弦を手際よく緩め、ケースへ収めていく香穂の手の動きをぼんやりと目で追っていた。
 少し残念だと思った── 今弾いていた曲を、もう一度聞かせてほしかったから。
「── でもありがと。ふふっ、普通科同士でワンツーフィニッシュだね。それも同じ曲で」
 ベンチに置いてあるケースの上に屈み込んでいた身体を起こし、俺の方へと視線を寄越して両手を腰に当て、ニカッと笑う。 決して『女らしい』とは言えないが、見事なまでに清々しい笑みだった。
「……てっきりお前は『ラ・カンパネッラ』で来ると思ってたんだがな」
「土浦くんこそ。弾きたい〜とか何とか言ってなかったっけ?」
 そう言ってジト目で軽く睨んでくる。小首を傾げた上に、口元には笑みが浮かんでいるせいで迫力はないが。
「まぁ……俺にもいろいろと考えるところがあったんだよ」
 答えたところではたと気がついた。
 もしかしてこいつは、俺との同曲対決になるのが嫌で曲を変えてきたのではないだろうか?
 俺も曲を変えたがために、図らずも同曲対決をすることになってしまったのだが。
「お前は……お前があの曲を選んだ理由を聞いてもいいか…?」
「そうねぇ……」
 香穂はピンと立てた人差し指を顎に置き、その手の肘をもう片方の手で支えて、こくんと首を横に倒す。
「……題して、『パガニーニからリストへ、愛をこめて』、かな」
「っ !?」
 かぁっと顔が熱くなる。
 確かに気が合うとは思っていたが、ここまでピタリと同じこと考えるか、普通?
 …………嬉しくなってくるじゃねぇかっ。
 思わず引き寄せて抱きしめてしまいたくなるのを必死に堪えて。
「── っていうのは冗談で」
「はぁ !?」
 人を有頂天にさせといて、一気にどん底に落とすのか、こいつはっ!
「私さ、まだあんまりクラシックのこと詳しくないから金澤先生に聞いたの。『パガニーニの曲でひとりで弾けて、そこそこ有名な曲って何ですか?』って。 そしたらあの曲を教えてくれたんだよね。『難しいぞ〜、大丈夫か〜?』って散々言われたけど、どうしても弾きたかったから頑張っちゃいました〜♪」
 両手を再び腰に戻し、えへん、と得意そうに胸を張る香穂。
 しかし……『頑張っちゃいました』で弾きこなせるような曲じゃないだろ……。
 それをやり遂げてしまうのが、こいつのすごいところだ。姿を見ない間、相当な練習を積んだのだろう。
「お前って……『骨がある』を通り越して、相当な骨太だよな」
「なによそれ、誉めてるの? けなしてるの?」
 ぷくっと頬を膨らませて睨んでくる香穂に、ニヤリと笑みを返し。
「もちろん、最上級の誉め言葉のつもりだぜ?」
「……なら許す」
 空気が抜けて、香穂の頬が元のすっとしたラインに戻った。
「しかし、最後の最後に無伴奏曲を持ってくるとは思わなかったな。森とケンカでもしたか?」
 笑みに揶揄を含めてそう言ってやると、香穂はくるりと俺に背を向けた。後ろで組んだ手の指が、もじもじとせわしなく動いている。 いつもなら髪に隠れている耳の後ろから首筋にかけてがほんわりと赤く染まっているのが見えた。
「ちっ、違うわよっ! ほ、ほら、他の楽器は伴奏者と一緒なのに、土浦くんはいつもひとりで戦ってたじゃない?  だから、最後くらいは私ひとりで── 私の音だけで正々堂々と勝負しようと思っただけ!」
 叫ぶように言い放ち、俺と視線を合わせないようにしながらヴァイオリンケースを拾い上げ、扉の方へスタスタと歩いていく。すれ違う時に見えた赤い顔は見間違いではない。
「は、早く着替えないと、講堂閉められちゃうわよ!」
 そういえば、ふたりともまだステージ衣装のままだ。荷物は全部、講堂の控え室にある。
「……そうだな」
 扉に向かい歩き始めた時、扉のノブに手をかけたまま、香穂がぴたりと動きを止めた。俺もつられるように足を止める。
「さっきの……『冗談』って言ったの、あれウソだから」
「は…?」
 振り返らぬままそう言って、ノブをぐいっと引っ張り、開いた隙間にするりと身体を滑り込ませ。
 カンカンカンッと響く足音はどんどん小さくなっていき、取り残された俺の目の前で重い扉がゴグンと低い音を立てて閉まった。
 ……なんだ、今のは…?
 確か、あいつが『冗談』だとはぐらかしたのは……『パガニーニからリストへ、愛をこめて』…?
 次の瞬間、俺は屋上を飛び出していた。
 もちろん、正々堂々とあいつを抱きしめるために──

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 なぜか今頃無印ネタです、はい。
 コミクス10巻を読み返してまして。
 ふと思ったわけですよ、『なんでこの土浦さんは最終セレにこの曲を選んだのか?』と。
 あの土浦さんは香穂子さんへの想いを自覚しているので、
 きっと『お前は俺のパガニーニだ!』なんて思っての選択だったんじゃないか、と。
 そこら辺りをコネコネしてたら、こんな話ができました。
 ゲームでもコミクスでも土浦が弾くのはブラームスだけど、それじゃ弱いなーと思って
 リストに変換。
 『24のカプリース第24番』は無印ではおなじみ、月森氏の特別曲。
 前半と後半で土浦さんが『日野』『香穂』と呼び分けているのは、その間に第4段階イベが
 起きたものと思われます(笑)
 たぶん、香穂子さんによる放置プレイにより土浦の頭の中が香穂子さんでいっぱいになる、
 っていうイベントらしいです(大嘘)
 ちなみに『パガニーニによる大練習曲』の第3番が『ラ・カンパネッラ』です。

【2008/04/30 up】