■悠久の時の流れの中で
その日、星奏学院に棲まう音楽の妖精、アルジェント・リリは、いろいろと考えごとをしながら自分の姿を模した銅像の頭上でふわふわと浮かんでいた。
もう少し経つと春恒例となった市の音楽祭が始まる。今年は15周年記念ということで、ことさら盛大に行われるそうだ。
学院でもオープニングを飾る学生選抜オケの話題で持ちきりになっている。まもなく選抜オーディションが行われるらしい。
活気に溢れ、音楽が溢れる学院── 世界に音楽を広めることが使命であるリリは満足だった。
すぅっと上空に舞い上がり、学校の敷地をぐるりと眺める。
ずっと変わらぬ光景。今も変わらずこの敷地には普通科と音楽科がある。
ふと、リリは15年前のことに思いを馳せた。
あれは音楽祭が初めて開催された年だ。
あの年は本当にいろいろなことがあった1年だった。
星奏学院の存続の危機、力の喪失── 辛く苦しいこともあった。
しかし、それ以上に──
と、校舎の方からとてとてとおぼつかない足取りで歩いてくるひとりの少女。
若草色のワンピースにフードつきの赤いコートを着た小さな女の子だ。
人間の年齢でいうと3歳くらいか、とリリはその少女の歩みを上空から見守った。
少女は銅像の前まで来ると、愛らしい仕草でちょっと首を傾げ、それから空を振り仰いだ。
ばちっ、と目が合って、リリは少々たじろぐ。
いや、気のせいだ、人間に我輩の姿は見えていないのだから。
リリがそう思った瞬間、少女はリリに向かってにっこりと笑ったのだ。
『お…っ !?』
頭を前に戻した少女がすっと片手を前に出して台座の方へ一歩踏み出した時、少女の姿がふっと掻き消えた。
『なっ !?』
何だったのだ、今のは…?
ふと、背筋がゾクリとするような嫌な予感に襲われた。
リリはくるりと宙返りすると、銅像から繋がる異空間に存在する自分の店へと慌てて戻っていった。
『あ、あ、あ、あ、あああああっ !?』
リリは店の惨状に呆然となった。
きちんと整頓して棚にしまっておいた道具がそこらじゅうに散らばっている。
たまねぎがあちこちに転がり、くしゃくしゃになったアロハシャツが無造作に放り出され、床の上でアナログメトロノームがカチカチとテンポを刻んでいた。
『お、お、お前っ! 何をしているのだーっ!』
足の踏み場もないほどに散らかった床の上に座り込んだ少女がきょとんとした顔でリリを見上げた。
じたばたするリリの姿が面白かったのか、少女はきゃはは、と笑ってリリに手を伸ばす。
捕まってなるものか、とリリは彼女の手の届かないところまで舞い上がった。
『む、む、むーっ! 我輩の店を荒らすとは、お前は何者なのだーっ!』
少女は手が届かなくなったリリに興味を失ったのか、道具での遊びに戻っていった。
赤い糸の端を摘んで引っ張ると、からんからんと軽やかな音を立てて糸巻きが転がった。その様子に少女はきゃっきゃとはしゃぐ。
その時。
「── りりーっ、どこにいるのーっ! りりちゃーんっ!」
店の外で声がする。自分を呼ぶ、どこか懐かしい声。
リリは店の状況に後ろ髪引かれる思いではあったが、声の主を確認したい気持ちの方が勝って、店を飛び出した。
再び銅像の頭上に浮かび、辺りを見回す。
と、校舎の方から幾分慌てた様子の女性がこちらに向かって歩いてくるところだった。
「りりーっ、出てきなさーい! りりーっ!」
口元に手を当て、キョロキョロと辺りを見回しながら大声を張り上げる女性。
ダークグリーンのパンツスーツをカジュアルに着こなし、赤味の強い長い髪をラフに纏め上げている。
姿勢がいいせいか、ヒールが石畳を叩く音を響かせ大股で歩く姿がなかなか様になっていた。
『お……おおっ !?』
リリはその女性を知っていた。懐かしさの余り、不覚にも目頭がじーんと熱くなってくる。
ふぅ、と溜息を吐き、どこ行っちゃったのかしら、と呟いた彼女がおもむろに空を振り仰いだ。
「……あら、リリじゃない。久しぶりね」
『ひ……日野香穂子っ !?』
「リリってばあの頃と全然変わってないのね〜、うらやましい。私なんて三十路よ、三十路!」
手をぱたぱたと振って苦笑する香穂子は十分昔の面影を残していた。愛らしかった少女が洗練された美しさを身につけたといったところか。
リリはすぅっと高度を落とし、香穂子の顔の前まで降りてきた。
『日野香穂子、お前はどうしてここにいるのだ?』
「お仕事よ、お仕事。これでも私、世界を股にかけるヴァイオリニストですもの」
『おおっ!』
音楽のことを何も知らなかった少女が、今やいっぱしの音楽家として活躍しているのだ。リリの胸は感動に打ち震えた。
「今度の音楽祭の選抜オケ、普通のコンサート並みに3曲演奏するんですって。そのうちの1曲がコンチェルトでね、そのソリストを依頼されたのよ。で、今日はその打ち合わせだったんだ」
『本当かっ !? またお前のヴァイオリンが聞けるのだな !?』
「うふっ、練習でしばらくここに通うし、いつでも聞きに来てよ。歓迎するわよ」
茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせる香穂子。
と、バタバタと駆け寄ってくる慌しい足音が聞こえて来た。
長身の男が息せき切って走ってくる。ビシッと着こなしたスーツは走ったせいか乱れていて、緩めたネクタイの裾が走った勢いでめくれ上がって肩に乗っていた。
「おーい、香穂ー! りり、いたか?」
「ううん、まだ見つからないの」
『なっ !? 我輩ならここにいるではないか!』
「あー、そうじゃなくてね、私たちが探してるのはリリじゃなくて『りり』なのよ」
香穂子の隣に並んだ長身の男が、何もないところに向かって話しかけている彼女を怪訝そうに見つめた。彼女の視線の先の空間と、彼女の顔を交互に見て、
「まさか……いるのか、そこに?」
「いるわよ、この辺に」
浮かんでいるリリを囲うように、香穂子は指でくるりと宙に輪を書いた。
男は、はあああああぁぁぁ、と大きな溜息を吐くと、
「んな羽付きと遊んでないで、早くりりを探せよ。俺は前の通りを見てくるから」
そう言い残し、門の外へと走り去っていった。
『な、なんで今の男は我輩のことを知っているのだっ !?』
「やあねぇ、忘れちゃったの? リリが無理矢理コンクールに出場させたピアニストを」
『……………な、なんと! 今のは、土浦梁太郎なのかっ !?』
「ピンポ〜ン! ちなみに彼もお仕事よ。現在ピアニスト兼指揮者の彼は、選抜オケの指揮を任されたの」
『おおっ!』
「おお、おお、って、オットセイじゃあるまいし── とにかく、私は今忙しいから、また後でね!」
ひらりと手を振って、香穂子は講堂の方へと駆け出して── ぴたりと足を止めた。くるりと振り返り、
「そうだ! ね、ファータたちってこの学院のあちこちに散らばってるんだよね?」
『ああ、その通りだが…』
「じゃあさ、『若草色のワンピースに赤いコートを着た3歳の可愛い女の子』を見なかったか、みんなに聞いてみてくれない?」
『なっ !?』
今、香穂子は何と言った?
彼女が探している『りり』とは、今現在もファータの店を荒らしているであろうあの少女のことだったのだ。
懐かしい顔との再会にすっかり忘れていたが、今頃店はとんでもないことになっているだろう。
リリは慌てて手に持ったスティックを振りかざした。
『えいっ!』
キラキラと光の粒が宙に舞う。それは銅像の台座の前に集まって、ぺたりと地面に座り込む少女の形になっていった。
「あっ、りりっ! 梁ーっ! りり、いたよーっ!」
香穂子は少女に駆け寄り、その傍にひざまずくと、門の外に向かって大声を張り上げた。
「やだっ、どうしたの、その口っ!」
赤い糸やリボンを体じゅうに巻きつけ、手にファータの形のイヤリングを握り締めてご機嫌な少女の口の周りはべったりとこげ茶色に染まっていた。
香穂子が鼻を近づけ、くんくんと臭いを嗅ぐ。
「あっ、ミントチョコ! 清麗系はおまかせ、って感じね。賞味期限、大丈夫なのかな…」
ぶつぶつと呟きながら、バッグから取り出したティッシュで口元を拭ってやる。
香穂子の大声を聞いて門のところまで戻ってきた土浦が、ふたりの姿を見つけて安堵の大きな溜息を吐いた。
がしがしと頭を掻き、ポケットに手を突っ込み、ゆっくりとこちらへ向かって歩いてくる。
「あーあーあー、これはあなたにはまだ早いわね。パパが泣いちゃうわ」
苦笑しながら香穂子が少女に纏わりついている糸やリボンを取り除いていく。
すっかり綺麗になった少女を香穂子が抱き上げ、
「リリ……うちの子になんか変なことしなかったでしょうね?」
『おおっ !? その子供はお前の娘なのかっ !?』
「そうよ、美人でしょ?」
ふふん、と自慢げに鼻を鳴らす香穂子。
「── で、何もしなかったでしょうね?」
『し、失礼なっ! その娘のおかげで我輩の店は壊滅状態なのだっ! されたのは我輩のほうなのだっ!』
「ありゃりゃ……ごめん、リリ」
「── おい、まだいるのか?」
「うん」
銅像のところまで辿り着いた土浦が、香穂子の隣に並び立った。
「ひとりでしゃべってる危ないヤツみたいで、すげー怪しいぞ」
「あはは……そうだろうねぇ」
香穂子の腕の中で、少女が土浦の方へ腕を伸ばした。
「あー、はいはい、パパのとこに行くのね?」
香穂子が少女を渡し、土浦が受け取ると、少女は甘えるように彼の首に抱きついた。
『おおっ !? な、なんと! その娘は日野香穂子と土浦梁太郎の娘なのか !?』
「そうよ。土浦凛々香(りりか)でーす、よろしくね♪」
香穂子は愛おしそうに少女の頬をつん、とつついた。
『どれどれ……』
リリは土浦の腕の中にすっぽり収まっている少女の顔の前にすぅっと移動して、まじまじとその顔を見つめた。
『ううむ、確かにお前たちふたりを足して2で割ったような顔と言えなくも……』
その時、少女が手に掴んでいたイヤリングを放り出し、リリの足をはっしと掴んだ。土浦からは娘が何もない宙を掴む真似をしたように見えただろう。
「りりか、これおうちにもってかえるー」
リリの足を掴んだ手をぶんぶんと振り回す少女。
『うわーっ! な、何をするのだーっ!』
「あーっ、凛々香だめっ! リリが目を回しちゃうっ!」
少女の腕を掴み、握った指をそっと開いてやる。
解放されたリリはよろよろと飛んで、ようやく銅像の台座に辿り着くと、くたりと座り込んでしまった。
「あーん、リリ〜、ごめんね〜」
『ううー、ひどいのだー……』
銅像を拝むように手を合わせている香穂子の袖を、怪訝そうな顔の土浦が摘んで引っ張った。
「おい……まさか、凛々香にはファータが見えてる、のか…?」
「そうみたいね……遺伝って恐ろしいわねー」
「そういう問題か…?」
呆れたような溜息をついた土浦が台座に座るリリの方を見上げた。
「……どの辺にいるんだ?」
「んとね、台座の上、像の足元あたり」
リリの姿が見えていない土浦の視線は定まらず、諦めたようにリリ本人の上を通り過ぎて銅像の上で止まる。
意を決したように、すっと大きく息を吸い、
「悪いな、リリ……勝手に名前もらっちまったぜ。お前のせいでいろんなことに巻きこまれたが、そのおかげで今の俺たちがある。凛々香にも会えたしな。だから──」
土浦は目を閉じ、ふっと口元に笑みを浮かべた。
「── 感謝してる」
その言葉に、リリの大きな瞳に涙が浮かぶ。
『土浦梁太郎……』
照れ臭そうに顔をしかめると、土浦は腕の中でずっしりと重みが増した我が子へと視線を落とした。
「……おっと、寝ちまったみたいだな」
「ふふっ、遊び疲れちゃったのかな」
すやすやと寝息を立てる少女を覗き込むふたりは、すっかり父親と母親の優しい顔になっていた。
「じゃ、帰るか」
「うん」
そう言って歩き出したふたり、いや3人の背中を、その姿が見えなくなるまでリリは見つめ続けた。
そして、ふと我に返る。
『わ……我輩の店をどうしてくれるのだーっ!』
* * * * *
【おまけ】
「あ、リリ」
きょろきょろと辺りの様子を窺っている、やたら挙動不審なリリを見つけて、香穂子は声をかけた。
『うっ、日野香穂子っ! ……お前の娘、今日は来ていないのだろうな?』
「あはは、今日はいないわよ。あの日はたまたま両方の実家に誰もいなかったから連れてきてただけで。今頃実家でおじーちゃんおばーちゃんと楽しく遊んでるわ」
『ふぅ……』
「あらあら、お疲れなのね〜」
『むむっ! 誰のせいで我輩がこんなに疲れていると思っているのだっ! お前の娘のせいで店の中はぐちゃぐちゃで、片付けるのが大変だったのだー!』
「あぅ……だからごめんってば〜。その代わり、いい音楽たくさん聴かせるから、ね?」
『むぅ…なんか誤魔化されたような気がするのだ……』
結局、土浦梁太郎指揮、日野香穂子(本名・土浦香穂子)ソロによるコンチェルトは練習にもかかわらずあっという間にBP(ブラボーポイント)を稼ぎまくった。
店の品物全部を買い取ってもおつりが来るほどのBPを渡され、リリは土浦家の娘の破壊活動を赦さざるを得なくなった。
「そうだ、リリ」
『なんなのだ?』
「凛々香が大きくなったら、ここに入学させるつもりだからよろしくね」
『なんだとっ! 頼むっ! 勘弁してくれなのだっ!』
「やあねぇ、高校生になったらあんなに暴れたりなんてしないってば〜」
『むむぅ……』
複雑な思いを抱えながらも、リリは考える。
あの日野香穂子と土浦梁太郎の娘であり、ファータが見える体質ならば、必ず音楽の才能を持って生まれてきているはず!
10数年後のその日がやって来るのが楽しみになってきたリリは、じゃあね、と練習に向かっていく香穂子の背中に向かって、今はここにいない彼女の娘に語りかけた。
『土浦凛々香! お前がこの学院に入学した時は、必ず学内コンクールを開いてやるのだ!』
〜おしまい〜
【プチあとがき】
タイトルがなんかパクリっぽい(笑)
長編連載を始めたばかりだというのに、なんとなく書いちゃいました(汗)
他のメンバーに比べ、土浦は香穂子の次にリリの存在による影響を大きく受けた人物だと
思うんだよね。
(転校までした加地が一番という気がしないでもないけど)
だから、子供が生まれたらリリにちなんだ名前をつけそうだなー、と。
で、何かで『凛々しい』って文字を打ち込んだ時に「リリ」って読めるなーと思ってて。
んで、娘の名前を『凛々香』にしてみました。
むむん、この設定でパラレル長編が1本書けそうだなー。
【2008/04/23 up】