■赤い糸
掃除当番で少し遅れて教室を出た土浦梁太郎は、『彼女』である日野香穂子が待っているであろう練習室へと急いでいた。
部屋の予約を入れたのは自分なので、いちいち中を覗きこんで彼女の姿を探す必要はない。
真っ直ぐに目的の部屋へ向かい、ノックをしようとして何気なく見た扉の細長いガラス窓の向こうで香穂子がぴくりとも動かずに佇んでいた。
既に練習を始めていたらしく、手にはヴァイオリンを持っている。
しかし、普段なら弦を押さえる左手に持たれていることの多いネックは、弓とまとめて右手に掴まれていて。
空いた左手は彼女の顔の前まで上げられて、その手のひらを穴が開きそうなほど熱心に見つめていた。
梁太郎は彼女の意味不明な行動に首を傾げたものの、まさか手に怪我でも負ったのではないかという考えに至ってゾクリと背筋が寒くなり、思わず乱暴に扉を押し開けた。
「おいっ! どうしたっ !?」
彼女の視線に晒され続けている左手の手首をガシリと掴み、毛筋ほどの傷すらも見逃すまいと隅々まで点検する。どうやら目に見える傷はないとわかって少しほっとした。
しかし、目に見える傷だけが怪我ではない。
「どこか痛むのか !? まさか突き指したとか言わないよな !?」
焦りまくっている梁太郎の顔をきょとんとして見ていた香穂子は、手首を掴まれたまま5本の指をわきわきと動かした。
── 特に異常はないらしい。
梁太郎は安堵のあまりガクリと項垂れると、はあぁぁぁ、と大袈裟なほどの溜息を吐いた。
「……大丈夫なら大丈夫ってすぐに言えよ…」
「言う暇を与えてくれなかったのは梁じゃない」
「う……」
突然部屋に入ってきて、いきなり手首を掴まれ、心配する言葉をまくし立てられたのだ。香穂子からすれば『そっちこそ大丈夫?』と聞きたいくらいである。
「……じゃあ、なんで手なんかじっと見つめてたんだよ」
「……………赤い糸」
「は?」
「左手の小指には運命の赤い糸が結び付けられてて、運命の相手に繋がってるっていうじゃない?」
香穂子は梁太郎の左手を掴むと彼の胸の辺りまで持ち上げ、その横に自分の左手を並べた。
「もし、糸を見ることができたとして、繋がってなかったらショックだなーと思って」
「……なに非科学的なこと言ってんだよ」
梁太郎は左手をポケットに突っ込んだ。
すると香穂子はぷくっと頬を膨らませて、
「せめて『乙女チック』と言って」
「あのな……まあ、その『赤い糸』ってのが絆とかそういう意味なら、俺たちにはちゃんとあるだろ」
「へ?」
小首を傾げ、丸く見開いた香穂子の大きな目で見つめられ、梁太郎はごふっと咳払いして視線を宙に泳がせた。
「だから、音楽だよ。ガキの頃に聞いた俺のピアノがお前の心に残って、お前がヴァイオリンを始めるきっかけになったコンクールに俺も巻き込まれた。
今、こうして俺とお前は一緒にいるし、俺たちの周りには音楽が溢れてる── これ以上のもんがあるか?」
『そうだね』と香穂子はにこりと笑── わなかった。
訝しげに眉をひそめると、ダッと梁太郎の後ろに回り込み、ぺちぺちと手のひらで背中を確認する。
「……何やってんだよ」
「背中にファスナーついてて、中に加地くんでも入ってるんじゃないかと思って」
「お前なぁ……」
香穂子はくすっと笑い、梁太郎の左腕を掴んで凭れかかるようにして頭を前に乗り出すと、複雑な表情で少し頬を赤く染めてあさっての方を見ている彼の顔を下から覗き込んだ。
「もしかするとさ、私と梁太郎は糸じゃなくて弦で結ばれてるのかな?」
「はぁ?」
思わず見下ろした香穂子の顔は満面の笑み。
「だって、ヴァイオリンはもちろん弦楽器だし、ピアノにだって弦があるし。ね?」
「そ、そりゃあ……」
「よかったね、弦は糸よりも丈夫だよ♪」
心底嬉しそうな顔をしてにんまり笑う香穂子がやけに可愛くて。
湧き上がってくる照れ臭さを隠すように、彼女の鼻をぎゅっとつまむ。
「いったーい、何するのよっ!」
「バカなこと言ってないで、とっとと練習始めるぞ」
「うーっ、バカなこととは何よっ!」
ぷりぷりと腹を立てる彼女にわざとそっけなく背中を向けてピアノの元へ。
天板を開ければ、そこには無数の弦が並んでいた。
── 『運命の赤い弦』ってか?
蓋を開け、左手の小指でひとつだけ鍵盤を押さえてみる。
ハンマーが弦を叩いて、ポーン、と澄んだ音を響かせた。
そこにピアノに背を向けスケール練習を始めた香穂子のヴァイオリンの響きが重なって。
── もしもそんなものがあるとしたら、お前から伸びてきた『赤い弦』は俺の左手の小指をぐるぐる巻きにした上で、身体じゅうを雁字搦めにしてるさ。
梁太郎はふっと口元に笑みを浮かべ、指慣らしの曲を弾き始めた。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
ファータ特製『赤い糸』!
おまけにもっと丈夫なリボンまで!
ファータの店に通い詰めた香穂子さんなら、その存在を知ってるはずなんだが(笑)
まあ、単独プレイ中は使うこともないしなー。
【2008/04/16 up】