■ろーど・おぶ・ざ・りんぐ?【後編】
市民ホールの客席は超満員だった。
クラシックに馴染みの深い土地柄だけあって、席についた聴衆たちはこれから大々的に行われる音楽祭のオープニングを飾る地元校の生徒による演奏に期待を膨らませている。
通路によって3ブロックに別れた座席の中央部分の前から5列目までは来賓席になっていて、主催者をはじめ市長や地元の有力者、星奏学院の理事や職員たちの姿があった。
その5列目の席のひとつに梁太郎は少々の緊張を胸に抱きつつ腰を落ち着けていた。
この席は、香穂子がコンミスとして認められるためのコンサートに協力した功績を認めてのことか、吉羅理事長により用意されたもの。
同じ列にはいつものアンサンブルメンバーと天羽が並んでいる。
無人のステージ上にはたくさんの椅子と譜面台が並べられ、雛壇の上にはパーカッションが並んでいて。つい1ヶ月前には自分もあのステージの上にいたのだと思えば、やけに感慨深い。
開演まであとわずか、舞台袖から正装したオケメンバーが楽器を手にぞろぞろと出てくると、ざわめいていた客席が潮が引くように静かになっていった。
左側から出てくるヴァイオリニストたちの一番後ろに見えた香穂子の姿。
第1ヴァイオリンの最前列、他の椅子よりも数センチ高くなるように調整されたピアノ椅子が置かれたコンミス席に腰を下ろす。
ヴァイオリンのネックを握る左手に一瞬光が見えたような気がして、梁太郎は目を凝らした。
「あっれ〜、今日の日野ちゃん、指輪なんかしてたっけ?」
隣に座る天羽が小さく呟く。
間違いなく、彼女の左手の薬指にはついさっき贈ったばかりのルビーの指輪が輝いていた。
「マ…マジかよ……」
さっきの今で、それもステージにつけて出てくるなんて想像もしていなかった梁太郎。顔が沸騰したように熱かった。
ガンッと腕に肘打ちされてそちらに目をやれば、ニヤリと笑う天羽の興味津々な視線にぶつかった。
彼の漏らした小さな驚きの声を耳にした彼女は、ちらりと見やった彼の顔の赤さにすべてを理解していたのだ。
「やるな、おぬし」
「う、うるせぇ……」
天羽の目から逃れるようにステージへ視線を移す。
ちょうどその時、客席の方へふわりと視線を泳がせた香穂子と目が合った。
ぽっと頬を染めて、へにゃりと笑う香穂子。
そんな彼女の顔に思わず口元を緩ませ、頑張れ、とエールを送るつもりで小さく頷いてみせる。
香穂子からも安心したような小さな頷きが返ってきた。
「うっわ、アイコンタクトなんかしちゃってるよ、この人たち」
天羽の呆れたような呟きに、梁太郎はまたも顔を沸騰させるのだった。
袖からタキシードに身を包んだ都築茉莉が出てくると、会場には大きな拍手が沸き起こった。
客席に一礼し、指揮台に上がってオケ全体をゆっくりと見回して、最後にコンミスである香穂子に視線を向ける。ふたりはしっかりと頷き合った。
都築がタクトを持つ右手を上げると、ザッと音を立てて全員が楽器を構えた。
演目はホルストの組曲「惑星」。
小太鼓の刻むリズムと金管の低く不気味な唸りから、第1曲の「火星」が始まった。曲はどんどん激しさを増し、荒ぶる戦神を表現していく。
指揮者を目指す梁太郎にとって都築の指揮やオーケストラ全体の動きはいい勉強になるはずなのに、今の彼の目にはコンミスを堂々と務め上げる香穂子の姿しか映っていなかった。
ネックの上を動き回る彼女の指で指輪がキラリと輝き、ヴィブラートをかければ照明を受けてチカチカと瞬いて。
天羽にからかわれた気恥ずかしさもすっかり忘れ、何とも言えない満足感の中でヴァイオリンを奏でる香穂子をひたすら見守り続けた。
* * * * *
全7曲、1時間弱にも及ぶ演奏は、ホールの建物を揺るがすほどの拍手を受けた。
安堵と達成感を含んだ笑みを浮かべ、がっちりと握手を交わす指揮者とコンミス。
指揮台を降りた都築が、香穂子の身体をふわりと抱きしめたのに、梁太郎は驚かされた。
大学図書館やヴァイオリン修行の件で世話になった── そのせいで痛い目も見たわけだが── 時に感じた都築という人物の印象は、クールで感情を表に出さないタイプ。
人に厳しく、もちろん自分自身にも厳しく、ひたすら音楽の道をストイックに突き進んでいるように見えた。
そんな彼女が人を抱きしめるというのは、相手への最大の評価なのではないだろうか。
くすぐったそうな笑顔でその抱擁を受けている香穂子が、とても誇らしかった。
「── さ、楽屋訪問行くよ!」
天羽に肩をぱしんと叩かれ、まだ余韻に浸っていたいと思いつつも、梁太郎はゆっくりと席を立った。
やけに張り切っている天羽に引っ張られるようにして、アンサンブルメンバーはひとかたまりになって香穂子の控え室を目指していた。
かたまりの最後尾を歩きながら、梁太郎は冷や汗をだらだらと流している。
本当は誰よりも最初に声をかけたいのだが、今日のところは無理そうだ。まあ、ステージ明けの彼女を真っ先に労う機会はこれからいくらでもあるだろう、と自分に言い聞かせ。
それよりも、今感じている懸念は別のこと。
「日野ちゃん、おっつかれ〜!」
短いノックの後で返事も待たずに扉を開いた天羽は、ステージを終えたばかりで着替えもしていない香穂子に飛びついていった。
「指輪! 見せて見せて!」
何事かとおろおろする香穂子の左手首を掴んで持ち上げると、顔を近づけじっと見る。
最後に部屋に入った梁太郎の目に映ったのは、まさにそのシーン。
── うわっ! やっぱりか !?
悪い予感というものは当たる確率が高い。
動揺を気取られないよう表面上は平静を装い、閉めた扉の横の壁に凭れかかる。
「へー、ルビーかぁ。可愛いじゃん! 似合ってる似合ってる!」
「そ、そお、かな…?」
── 頼む天羽、頼むからしゃべってくれるなよ!
香穂子と天羽のやり取りを直視できず、視線も逸らし気味にひたすら気配を消すようにひっそりと佇む梁太郎の頭に浮かぶ心象風景の中の彼は『神に祈りを捧げる迷える子羊』だった。
梁太郎と香穂子がつきあっているのは周知のこと。しかし、彼が指輪を贈ったことは本人同士が知っていればいいことであって、
それをネタに他人に冷やかされるのは彼にとっては耐え難い羞恥なのだ。
「ねえ、指輪ってヴァイオリン弾くのに邪魔になったりしないの?」
「ううん、それは全然。えと、しまっておこうとは思ったんだけど、その……はめた時はすっと入ったはずなのに、なぜか外れなくって……」
ああなるほど、と納得するものの、彼女がステージに指輪をつけて上がったのは意思ではなく事故だったのかと思えば少し淋しいような気もする。
「あー、大丈夫大丈夫、石鹸をつけてゆっくりずらしていけば外れるって。でもそれくらいのサイズでちょうどいいと思うよ。ゆるゆるだとさ、それこそ手を洗ったときに外れちゃって、
排水溝のかなたにさようなら〜って危険もあるんだし」
「そっか〜。うん、後で試してみるね」
と、いつの間にか女の子ふたりの横で食い入るように指輪を見つめていた火原和樹がぽつりと呟いた。
「なんかさ、左手の薬指の指輪っていうと── 婚約指輪みたいだよね」
ドキンッ
── うっ、やっぱ誰でもそう思うのか……これは絶対にバラされるわけには……
梁太郎は誕生石の話を始めた彼らに背を向け、壁に片手をついてよろける身体を支え、もう片方の手は心臓に病を得た人のように胸を押さえる。
手のひらに感じる鼓動は、いつもの倍は刻んでいそうな超アップテンポだった。
「……けどさ、日野ちゃんの誕生石ってルビーだっけ?」
「う、ううん……違うけど……」
「ルビーって、確か7月の誕生石だったよね──」
わざとらしく声を張り上げる天羽。
そして。
「── ね、7月25日生まれの土浦くん!」
完全なる暴露に思わず吸い込んだ空気はひゅっと喉を鳴らし、気管を刺激されて梁太郎は咳き込んだ。
「まーったく、彼女に自分の誕生石を持たせるなんて、どこまで独占欲が強いんだか」
げほげほとむせている間にも天羽の暴露は続き、梁太郎のうろたえっぷりを見てその場の全員がゲラゲラと笑う。
「くそっ、天羽、いい加減に──」
振り向きざまに視界に入った香穂子は、真っ赤に染まった顔を両手に埋めていた。
その左手に赤い石がキラリと光ったのが見えて、いっそ『それがどーした』と開き直ってやろうかと思ったその時。
「賑やかだと思ったら、みんなここにいたのね」
突然扉が開いて、顔を出したのは都築だった。突然、というよりも、単に馬鹿騒ぎのせいでノックの音が聞こえなかっただけなのだが。
「あ、都築さん! オケ成功、おめでとうございます!」
天羽を皮切りに次々に賛辞を浴びせられた都築は、ふ、と笑みを浮かべ、ありがとう、と答えた。
「これから打ち上げがあるの。よかったらあなたたちもどうぞ、って、吉羅理事長からの伝言よ」
大きな歓声が上がり、参加する人はロビーに集合して、と言い残して立ち去った都築を追うように、皆がぞろぞろと部屋を出て行った。
それまでの喧騒が嘘のように静まり返った控え室は、梁太郎と香穂子、ふたりだけになった。
ふぅ、とこみ上げてきた溜息を吐いて、梁太郎はゆっくりと香穂子に近づく。
「あ、えと……梁も打ち上げ、参加する?」
「……ああ」
歩みは止めぬまま、まだ頬を桜色に染めたままの顔をほんの少し横に傾けて訊いてくる香穂子に短く答えて。
「ごっ、ごめんね? こんなに大騒ぎになると思ってなくて……その……せ、せっかく天羽ちゃんに外し方教えてもらったし、ちょっと外してく──」
扉の方へ駆け出した香穂子の腕を、すれ違いざまに掴んで引き止めた。
「── そのまま」
あまりに照れ臭くて、視線を合わせないまま独り言のように呟く。
「え?」
「今日はそのままにしといてくれよ」
「で、でも……」
「いいんだよ。なんか……そんな気分なんだ。それに、外したら外したで天羽あたりが『なんで外したの!』って騒ぐだろ、たぶん」
「あはっ、そうかも」
ふたりはようやく視線を合わせて微笑み合う。
梁太郎は腕を掴んでいた手を離して彼女の頭の上にぽふんと乗せた。
「コンミス、無事にやり遂げられて、よかったな」
じわり、彼女の大きな瞳に涙が滲んでくる。
すっと顔の横に伸ばされた細い腕。
彼は少し膝を落として彼女を迎え入れる。
彼の肩に顎を乗せ、首の後ろに腕が回されたのを確認して、梁太郎は彼女の華奢な身体をしっかりと抱きしめた。
伸ばされた彼女の爪先は、ほとんど床から離れていて。
「お疲れさん」
「……うん」
「よく頑張ったな」
「………うん」
ぐず、と鼻を鳴らす彼女を一際強く抱きしめる。
と、その時。
「ごめん日野ちゃん! ステージ衣装で写真を1枚っ、あっ、でっ、し、失礼しましたーっ!」
ガッと勢いよく開いた扉から聞き慣れた賑やかな声が響いたかと思えば、開いたときよりもさらに勢いよくバタンッと扉が閉められた。
抱き合うふたりが身体を離す暇もない、一瞬の出来事だった。
しばしの硬直の後、じわじわと笑いがこみ上げてきて。
くすくす笑いがお互いの耳をくすぐる。
「また天羽ちゃんに冷やかされちゃうね」
「……もう好きなようにしてくれ」
梁太郎の吐いた諦観の溜息に、香穂子はぷっと吹き出すのだった。
* * * * *
数日後、4月まで開催される音楽祭のプログラムのひとつ、国内有数のオーケストラのコンサートに足を運んだふたり。
数日前と同じ市民ホールの座席に座る梁太郎の視線は無意識に彼女の左手に注がれていた。
あの日以来、彼女の手に赤い石が輝くことはない。
学校につけてくることはないというのは予想の範疇ではあったが、自分と会う休日くらいはつけてきてくれてもいいんじゃないか、と不満に思う。
そんな視線に気づいた香穂子が、あ、と小さな声を上げて自分の襟元をごそごそと探り始めた。
彼女の手に掴まれて出てきたのは、いつか贈ったシルバーのネックレス。
そのたるんだ輪の真ん中に、赤い石のついたリングがぶら下がっていた。
「あ」
「……あ、あのね、高校卒業するまではここが定位置なの。つけたり外したりしてるとなくしちゃいそうで怖くて。それに、こうしてたら制服の時でもつけていられるでしょ?」
言い訳するように早口で一気にまくし立てると、えへっ、と照れ臭そうに笑う。
「……お、おう」
香穂子の照れが伝染して、梁太郎の頬が赤く染まる。
「でね、そ、卒業したら外す必要がなくなるし……」
こくん、と小さく喉が鳴る。
「……そしたら、その……こないだと同じ指にはめてても、いいかな…?」
手を伸ばし、つん、とリングをつついてみる。赤い光がキラリと揺れた。
「── もちろん」
香穂子の顔に、ふわりと笑みが広がった。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
『いいともー!』(by梁太郎)
あ゛あ゛あ゛、なんか文章が変だ……。
最近の傾向として、ギャグなんだかシリアスなんだかわかんない、っていうか。
天羽ちゃんが鬼っていうか、土浦さんが抱きしめ魔っていうか(笑)
蛇足が多いような気もするけど、削ると話が薄っぺらくなるような。
王道展開のオンパレードではありますが、話の筋自体は気に入ってるので、
文章にとらわれず、ストーリーを汲み取って脳内補完して読んでいただければ…。
オケの曲が「惑星」なのは、たいした意味はありません(笑)
まあ、名前の由来が太陽系惑星のコルダメンバーのみなさんですから、一番ふさわしいかと。
珍しくうちの香穂子さんにしてはやけに純情で可愛らしいなー。
おまけに土浦さんが完全にニセモノになってしまいましたが、
こんな『指輪物語』、いかがでしたでしょうか?
タイトルもそのまんま、ってことで(笑)
k@n@さま、リクエストありがとうございました。
【NOTICE】
このSSは、リクエスト主さまに限り、お持ち帰りフリーです。
サイトをお持ちの場合、掲載していただいてもかまいません。
その場合、当サイトへのリンクは任意としますが、このSSが『神崎悠那』作であることを
必ず明記してくださいますよう、お願いいたします。
【2008/04/10 up】