■Fantasie Impromptu 土浦

 市民ホールでのクリスマスコンサートを数日後に控え、日野香穂子を中心としたアンサンブルメンバーの練習は佳境を迎えていた。
「お疲れさまでした! 明日もよろしくお願いしますっ!」
 今日も練習を終え、香穂子の明るい声が講堂に響く。
 毎日集まっては練習し、時には解釈を巡って激しいバトルをし、互いを認め合ってまた練習する。
 その繰り返しでアンサンブルは磨かれていき、輝きを放ち始める。
 そんな日々を、土浦梁太郎は何とも言えない充足感の中で過ごしていた。
 一度は手放した音楽の道。
 だが、あるきっかけで再び舞い戻り、今は本格的に進む決意を固めた道。
 そのきっかけを作ってくれた人物── 日野香穂子。
 今、音楽にわだかまりなくどっぷりと浸れるのは彼女のおかげなのだ。
 そして、その音楽のあるところに必ず彼女の姿がある。
 それは、彼女への特別な想いを自覚している彼にとっては至福の時間なのである。
 平日休日を問わずふたりで練習したり、朝も帰りも時間が合えば通学路を共にし、音楽のことや他愛ない話をする。 そのやり取りの中で、彼女も自分に対して同じ想いを持ってくれているのではないか、と自信が生まれてきた今日この頃。
 土浦はピアノの片付けをしながら、同じ方向へ帰る彼女を何と声をかけて誘おうかと、口元を緩ませつつ考えていた。
「ねえ、志水くん、ちょっといいかな?」
 ピアノの蓋を閉じようとした土浦の手がピタリと止まる。
 声のした方向へ視線を向けると、チェロをケースに収めようとしている志水のもとに香穂子が駆け寄っていくところだった。
 香穂子が身振り手振りを交えてしゃべる。声を潜めているのか、何も聞こえてはこなかったが。
 と、眠そうな無表情で聞いていた志水が滅多に見せることのないふわりとした笑みを浮かべた。
 ズキン。
 胸が痛む。
 志水は1学年下でありながら、音楽の知識は教師たちも舌を巻くほどのものだ。香穂子はきっとその知識を求めたに違いない。
 そんな風に自分を無理矢理納得させる。
 ふと、自分が香穂子と志水の会話に聞き耳を立てていたことに気づき、土浦は自嘲の笑みを浮かべつつ、そっとピアノの蓋を閉めた。

 話が終わらなかったのだろう、香穂子と志水は連れ立って講堂を出て行き、正門へ向かう。
 土浦はその10メートルほど後ろを歩いていた。
 電車通学で駅に向かう志水と、徒歩通学の香穂子は正門を出ると逆方向を目指すことになる。そうしたら追いついて声をかけよう。
 そんなことを考えていた土浦の目の前で、信じられないことが起きた。
 香穂子は自分の家の方向ではなく、駅の方向へ進んだのだ── 志水と一緒に。
 不意打ちでいきなり張り倒されたような衝撃だった。
 だが、土浦は自分の想いを香穂子に打ち明けたわけではない。その逆もまた然り。
 そんな状況の中、香穂子が誰とどこへ寄り道しようが、土浦に口を挟む余地はない。
 土浦はずっしりと重い身体を引きずるように、家路を辿るしかなかった。

*  *  *  *  *

 翌日。
 アンサンブル練習のための集合時間にはまだ間があったため、土浦は練習室へと向かった。
 廊下の両側にずらりと並んだ同じ形のドア。
 何気なく目をやった一室の中に、香穂子がいた。
 ドキリと心臓が跳ねた。
 だが、すぐに心は暗い闇に閉ざされる。
 室内には香穂子だけでなく、加地の姿もあったのだ。
 広いスペースに移動されたピアノの椅子の上には、学校の備品だろうか、CDラジカセが乗せられているから何か音楽を聞いているのだろう。
 せわしなく何度もラジカセを操作して。採譜しているのか、ふたり並んでしゃがみ込み、床に置いたヴァイオリンケースの上で五線譜に何か書き込んでいる。
 五線譜の下には少し厚みのある楽譜らしきものが見えたが、タイトルまではわからなかった。
 と、加地がにっこりといつもの胡散臭い笑みを浮かべて香穂子に話しかけた。
 すると香穂子は顔を真っ赤に染め、加地に向かって思いっきり肩をぶつける。
 バランスを崩した加地はその場に尻餅をついた。
 そしてふたりは笑い合う。
 目にした光景にいたたまれなくなった土浦は、足早に練習室棟を後にした。

*  *  *  *  *

 そしてまた翌日。
 教室移動のため、特別教室棟から5組の教室に戻る途中、土浦は開けっ放しになっていた2組の教室のドアの前で足を止めた。
 しばらく前から2組の教室の中に視線を向けるのが彼の癖になっている。
 いつもなら通り過ぎざまにチラリと見るだけなのだが、思わず足を止めて見入ってしまっていた。
 そこに楽しそうな香穂子の姿があったから。
 五線譜らしき紙をハサミで切り、それを机に広げた楽譜に糊で貼り付けている。
 まるで図工の時間を楽しんでいる小学生のように見えて、思わず土浦は吹き出した。
 何をそんなに楽しそうにやっているのか気にはなったが、次の授業の予鈴が鳴ってしまったため、残念ながら教室に戻るより他なかった。

 昼休み、練習室に向かう土浦の前にちょうど練習室棟に入っていく香穂子の姿が見えた。
 ちょうどいい、何を楽しそうに切り貼りしていたのか聞いてやろう、と彼女を追う。
 そして、彼女の姿を見つけた瞬間、またも後頭部を殴りつけられたような衝撃に襲われた。
 彼女がヴァイオリンを準備する傍らで、ピアノを弾いている月森の姿があったからだ。
 香穂子のヴァイオリンに合わせるピアノは自分のピアノだ、と自負していた土浦にとって、そこでピアノを弾いているのが自分ではなく、 はたまた音楽科のピアノ専攻の生徒でもなく、ヴァイオリン専攻の月森であることが信じられなった。
 彼の母親は有名なピアニストであり、その教えを受けた彼もまたある程度弾けるというのは知ってはいたが。
 ヴァイオリンの準備を終え、月森の傍に寄った香穂子は、ピアノの譜面立てに置いた楽譜を見ながら彼と言葉を交わしている。
 難しげな顔をしていた月森がふっと相好を崩し、彼女を見上げる。
 彼女もまたそれに答え、にっこりと笑ってヴァイオリンを構えた。
 完全防音の練習室内の音は彼の耳に届いてくることはない。
 だが、ふたりが楽しげに演奏する姿を見たくなくて、土浦はその部屋に背を向けた。
 ぎゅっと拳を握り、ギリと奥歯を噛み締める。
 自分にとって彼女は特別な存在だが、彼女にとってはそうではなかったらしい。
 グラグラと足元が揺れているような気がする。
 こんな心理状態でピアノに向かっても練習になるはずもなく。
 土浦はクラスメイトたちがまだ続けているであろう昼バスケに加わるべく、コートへと急いだ。

 放課後。
 音楽室に集まっての練習を終え、いつものように香穂子の元気な『お疲れさま』の声が響く。
 やっと終わったか、と土浦は知らず溜息を吐く。
 昼休みの気分転換が功を奏したのか、演奏に特に問題はなかった。
 ただ、いつもより感情の乗らない、無味乾燥した演奏になってしまったが。
 さっさと片付けて、とっとと帰ろう、とピアノの蓋に手をかける。
 すると。
「あー、待って待って! 土浦くん、お願いがあるの!」
 ヴァイオリンを手にしたままの香穂子が駆け寄ってきた。
「……なんだよ」
 嬉しい、と思ったのも束の間、今日の昼までのいろんなシーンが頭を過ぎり、思わず声が低くなる。
 しかし香穂子はそんな土浦の様子を気にも留めず、
「1曲弾いてほしいんだけど」
「……何を?」
「えとね、ショパンの幻想即興曲」
「は?」
 弾けないわけではない。
 ショパンを得意とする土浦にとってこの曲は、コンクールでも弾いたレパートリーのひとつだ。
 だから香穂子も土浦が弾けるのを知っていてリクエストしてきたのだろうが、なぜ今この曲なのか、その意図がわからない。
「ね、1回だけでいいから。ダメ?」
 そんな気分ではなかったが、ヴァイオリンを小脇に挟み、顔の前で手を合わせている香穂子が犯罪的に可愛くて。
「……まぁ、1回だけなら」
 了承すると、香穂子は、やった!、と目を輝かせ、ピアノの傍まで譜面台を引きずってきて、その上に持っていた楽譜を広げた。
 彼女の行動の意味はわからなかったが、とりあえずあの曲を弾けばいいのだろう。
 土浦はすぅ、と息を整え、ピアノに向かった。
 指が軽やかに鍵盤の上を踊る。
 次第に曲の世界にのめり込んで行きつつあった土浦の耳に飛び込んできた音に思わず手が止まりそうになった。
 土浦の右手が奏でていた柔らかなメロディに寄り添う弦のユニゾン。
 横を見れば、笑みを浮かべた香穂子がゆったりと弓を動かしていた。
 香穂子の音色はユニゾンからハーモニーへと移り、元来ピアノ曲であるこの曲の別の顔を見せ付けるように豊かに響き渡る。
 そして演奏が終わった時、音楽室に残っていた生徒たちからの盛大な拍手を受けたのだった。

「── さっきの、何だったんだ?」
 香穂子と肩を並べての帰り道、土浦はポツリと訊ねた。
「あー、幻想?」
 彼女はくすくすと笑い、あのね、と後を続ける。
「フィギュアスケート見てたら、この曲が流れてきて。あ、土浦くんがコンクールで弾いた曲だ!って聞いてたら、弦の音が聞こえてきて──」
 その音がチェロに聞こえたので志水に聞いてみたら、駅前のCDショップにフィギュア使用曲コーナーができていたからそのCDもあるかもしれないと教えられ、早速買いに行ったこと。
 弦パートを採譜しようと試みたが、慣れない香穂子には難しかったため、耳のいい加地に協力を仰いだこと。
 その出来を、ヴァイオリン専攻でありピアノも弾ける月森にチェックしてもらったこと。
 つらつらと話す香穂子から、ほら、と差し出されたのはショパンのピアノ曲集。
 ページをめくるまでもなく開いたのは幻想即興曲のページ。そこだけしか開いていないため、紙に癖がついてしまって自然に開いたのだろう。
 そこには左右の手のための2段組の五線の合間に貼られた五線譜に手書きの音符が書き込まれていて。
 そう、この数日の香穂子の行動は、すべてさっき演奏した幻想即興曲のためにあったのだ。
「………まいったな」
「うふふっ、作戦成功っ! 土浦くんを驚かせようと思って頑張ったんだから♪」
 土浦が思わず呟いてしまった小さな声を聞き逃すことなく、香穂子はニヤリと満足そうな笑みを浮かべた。
 ── 確かに驚いた。
 それ以上に嬉しくて。
 嬉しいを通り越し、強く抱きしめてしまいたいほどに目の前の存在が愛おしい。
「── だがな」
「ん?」
 きょとんとした顔で見上げてくる香穂子の髪を、くしゃりと混ぜて。
「そういうのは……最初に俺に言ってくれないか?」
「え? でも、そしたらサプライズにならないじゃない」
「まあ、そうなんだが……いや、そうじゃなくてだな……その……」
 思わず言いよどむ。
 それは単に土浦の独占欲だから。
 自分だけが頼られたい。自分だけに頼ってほしい。
 こみ上げてくる想いが言葉になって溢れてきそうになるのを押し留める── 今はまだその時期ではないだろうから。
「もう! どっちなのよっ!」
 煮え切らない土浦の態度に頬を膨らませる香穂子の目をじっと覗き込み、言葉を選んで声に乗せた。
「……せっかくふたりで演奏するなら、1からふたりで作り上げて完成させるってのも悪くないだろ?」
 はっと目を見開く香穂子の膨らんでいた頬がすっと元に戻り、同時にほんのりと赤く色づいた。
「……うん、次からはそうするね」
 ふわりと広がる彼女のはにかんだような笑みに、土浦は心の中で祈っていた。
 今、彼女が見せている表情が、彼女にとって自分という人間が特別な存在である証であるように、と。
 そして決意する。
 クリスマスコンサートまであとわずか。
 理事長への挑戦という大きな意味を持つその大仕事を無事果たせたら、今はまだ胸の奥にしまわれたままのこの想いを伝えよう。
 この先ずっと、こうして肩を並べて歩いていけるように──。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 えーと、恋愛段階4で連続登下校してない土日、って感じでしょうか。
 ちょっと覗き魔でストーカーちっくな土浦さん(笑)
 幻想はもちろん真央ちゃんのヤツね。
 前に聞いた時、『ををっ、土日のネタになる!』と思ってたんだけど、すっかり忘れてて(笑)
 先日、CSで総集編みたいなのを放送してるのを見て、思い出しました。
 つか、あたしは今、充電期間中だったんじゃなかったのか?(笑)

【2008/03/18 up】