■目撃者
星奏学院普通科2年5組、実川 俊。
サッカー部所属の彼は、放課後担任に捕まり雑用を仰せつかってしまった遅れを取り戻そうと、部室に向かって森の広場を突っ切っていた。
ふと聞こえて来た音に思わず足を止め、辺りを眺めると── 見慣れた二人連れの姿を見つけた。
ベンチに座り、膝の上に大判の冊子── おそらく楽譜だろう── を広げた男子生徒。
そして、男子生徒の少し離れた前に立ち、春の兆しを感じるやわらかな風に髪をなびかせヴァイオリンを奏でる女子生徒。
「あ……土浦……と、日野さん…?」
涙を誘うような物悲しい曲を奏でていた日野香穂子は、突然演奏をやめると腕を楽器ごとダラリと下ろした。
すると、楽譜に視線を走らせていた土浦梁太郎が顔を上げ、香穂子を見つめる。眉間に皺を寄せた訝しげな表情は、
無言ではあったが『どうしたんだ?』と訊ねているような気遣いの色を見せていた。
香穂子の表情は、実川からは後ろ姿しか見えていないためにわからない。
「……………つらい……」
香穂子がポツリと呟く。
その悲壮感漂う声音に、実川はドキリとした。
彼女の置かれている立場を実川はよく知っていた。
去年の秋以降、コンサート開催のために奮闘する彼女の姿を見てきたから── クラスメイトであり、かつてチームメイトであった土浦を通して、ではあるが。
それもクリスマスにやっと終わったと思えば、年明けすぐに春の音楽祭に出演するオーケストラのコンサートミストレスに任命され、
今はそのテストを兼ねたアンサンブルコンサート開催に忙殺されている。
それでも弱音を吐かず、明るく振舞っている彼女はすごいと思っていた。
だが、今の呟きは痛々しい。
笑顔の裏に潜んでいた彼女の本音を聞いたような気がして、他人事ながらゾクリとした。
「…………苦しい……」
またも聞こえる香穂子の搾り出すような声。
土浦は依然無言だった。
何か声かけてやれよっ!── 実川が苛立ちを覚えたその時。
「……きついの…………スカートのウエストが」
ずるっ
地面に顔から突っ込みそうになるのを、サッカーで鍛えた運動神経でなんとか堪えて。
「そりゃ、あんだけケーキ食えば太って当然だろ……それも2連チャンで」
「だって、土日限定のケーキバイキングなんだよっ! 食べないわけにはいかないじゃないっ!」
「だからといって無理して行く必要性はないと思うがな」
ヴァイオリンの弓をぶんぶん振り回して興奮気味の香穂子に対し、土浦は完全に呆れモードだった。
「俺なんか、おかげでいまだに胸焼けしてるぜ。ありがたいことに胃薬も効きゃしねえ……」
そう言えば土浦はなんだかげっそりしているようにも見える。
しかし、ぶちぶち文句を言いつつも、しっかり彼女に付き合ってやっているらしい。
思わず吹き出しそうになるのを堪え、その場をそっと離れる。
── 日野香穂子という人物はすごいヤツだ。
そんな感慨を胸に抱きながら。
* * * * *
数日後、実川は少し遅めの昼食のためにカフェテリアに来ていた。
すでに昼バスケでひと汗かいた後、コートからそのまま流れてきたため同行者も数人いる。
食券を買い、ピークを過ぎているためにすぐ出来上がったきつねうどんの乗ったトレイを抱え、空いた席に向かう。
「── あ、悪ぃ。俺、抜ける」
そう言ってグループを離れていったのは土浦だった。
彼の向かう先に見えたのは、窓際の日当たりのいい席に座るひとりの女子生徒。
手に持ったフォークの先に巻きつけたひと口分のパスタをじっと睨みつけたまま動かない日野香穂子の姿だった。
案の定、土浦は彼女の隣の席に腰を落ち着ける。
実川たち残されたグループは彼女らのテーブルのひとつ隣のテーブルに陣取った。
単なる成り行きではあるがふたりの背中が見える位置に腰を下ろし、尋常ではない香穂子の深刻さが気になった実川は彼らの会話に注意を傾けた。
「どうした?」
土浦が香穂子に問いかける。
はぁぁ、と深い溜息が聞こえ、カチャンと硬い音がした。香穂子が手にしていたフォークを皿に置いたのだろう。
「食欲ないのか?」
香穂子が首を小さく横に振る。背中に流れる長い髪がサラサラと揺れた。
「心配ごとか?」
ふるふると首が振られ、サラサラと髪が揺れ。
彼女の顔を覗き込んでいる土浦の横顔が心配そうに歪んでいる。
それにしても過保護なカレシだな、と思いながら実川はうどんをすすり。
「……………失敗した…」
はぁ、と溜息を吐いた後、ポツリと香穂子が呟いた。
「先生に怒られでもしたのか?」
「違うわよ………失敗したのは、コレ」
「……なんだ、新メニューに挑戦したものの、期待ハズレだったってか? ……って、それ、キノコのペペロンチーノだよな? 前に食ったが、まずまずだったと思うがな」
ず、と何かを引きずる音がした。香穂子が自分の前にあったトレイを土浦の方へ寄せたのだろう。
と、土浦が手を伸ばし、食器が立てるカチャカチャと軽い音がしばらく続いた後、パスタを巻きつけたフォークにぱくりと食らいついた。
土浦が頼んだメニューは自分と同じきつねうどんのはず──
っ! そ、それは日野さんが使ってたフォークじゃないのかっ!
いけないものを見てしまったような気恥ずかしさに実川が心の中で叫んだ瞬間──
ぐっ、と苦しそうなうめき声を出した土浦が、慌ててコップの水を一気に飲み干した。
「なっ、なんだよこれっ !?」
「だから、キノコのペペロンチーノだってば」
「そりゃわかってる。そうじゃなくって──」
「おばちゃんに頼んだの、『辛さ10倍にして』って」
「なんで──」
「ダイエットに決まってるじゃない。ダイエットといえばカプサイシンっ! カプサイシンと言えば唐辛子っ!」
同じテーブルの友人たちが、ぶはっと吹き出した。
げほげほと苦しそうにむせている彼らを横目で見つつ、実川はこの瞬間何も口に入れてなくてよかった、と胸を撫で下ろす。
といっても単に目の前のバカップルの会話に聞き耳を立てていたせいで、食べるという行動がおろそかになっていただけなのだが。
「ローカロリーのキノコと唐辛子の組み合わせはダイエットにいいと思ったんだけどな……辛さ5倍くらいにしとけばよかったかな……」
カチャカチャと食器の音。香穂子がパスタをつついているようだ。
「バカ、んなもん食うな。身体壊すぞ。ほら、これでも食っとけ」
土浦が香穂子のトレイをずずっと奥に遠ざけ、彼の前のトレイを香穂子の方へと滑らせる。ふたりの間の隙間から、移動していくうどんのどんぶりが見えた。
「あああっ! でも頼んじゃったし、もったいないよっ!」
自分の食料を調達しに行こうと腰を浮かせた土浦の腕をがしりと掴む香穂子。
「んなこと言ってる場合じゃないだろ」
「大丈夫っ、頑張って食べるからっ!」
「フォーク握ったまま途方に暮れてたくせに……」
「ちょっと覚悟が足りなかっただけだってば! 大丈夫、根性で食べきるからっ!」
……覚悟とか、根性とかどうにかなる問題でもないと思うんだけど…。
実川を含む友人一同が一様に心の中でひとりごちる。
すると。
「── わかった、俺が食う」
おおーーーっ!
さすが土浦っ!
男だねぇっ!
愛だな、愛!
聞き耳部隊の誰もが心の中で拍手喝采を送っていた。
そして、土浦は涙目になりつつも、大量の水をお供に激辛ペペロンチーノを平らげ。
午後からは、ひとり大量の汗をだらだらと流しつつ、のぼせたような赤い顔で授業を乗り切った。
土浦、お前はやっぱすげーヤツだ!
昼のカフェテリアに居合わせた誰もがそう彼を讃えたのだった。
* * * * *
土曜日。
森林公園そばの競技場で練習試合のあったサッカー部の面々は、帰路をショートカットするべく公園の中を歩いていた。
天気もよく、家族連れでにぎわっている。
サッカーボールを蹴る子どもたちは、数年前の自分たちの姿を見るようで微笑ましく。
他にもバドミントンをする者、キャッチボールをする者。
スポーツ以外では、連れてきた飼い犬と戯れる者、芝生にただ寝転がって寛ぐ者。
それぞれが思い思いにのどかな休日を過ごしていた。
と、視界に入ってきたのはスポーツウェアに身を包んだふたり連れ。
実川と数人── ほとんどが先日のカフェテリアでのメンバーだ── が思わず立ち止まる。
ふたりは公園の外周に整備されたジョギングコースを走っていた。
どうやら彼女は食べるダイエットから身体を動かすダイエットに切り替えたらしい。
そんなことを囁きながら見守っていると。
ジョギングコースから外れたふたり── 土浦と香穂子── が何かしゃべりながら芝生の方へ入ってくる。
土浦が30メートルほど先にある遊具を指差し、続けて自分の足元を指差し。
距離があるせいで、何を話しているのかまでは聞こえない。
それから、さっき土浦が指差した遊具の方へ向かってクラウチングスタートの体勢になった。
しゃがみ込んでいたふたりはゆっくりと腰を上げ── ザッと地を蹴り、勢いよく飛び出していった。
「うおっ……」
誰かが声を上げた。
とにかく香穂子の足は速かった。
土浦に僅かに及ばないものの、後ろにぴたりとついていく。
ふたりは相次いで遊具の柱にタッチすると、すぐさま身体を翻し、スタート地点目指してダッシュをかける。
「すげー……、彼女、俺より足速いかも……」
そんな呟きが隣から聞こえてくる。
どう見ても土浦が手を抜いているようには見えなかった。
その証拠に、先にスタート地点に到着した土浦は倒れこむように芝生に転がった。遠目にも胸が大きく上下しているのが見えて、息が上がっているのがよくわかる。
ほんの数秒遅れて到着した香穂子はスピードを落として足を止めると、転がることなく膝に手を当てて息を整えていた。
身体を起こし芝の上に胡坐をかく土浦の背後に回った香穂子が、どさりと座って彼の背に自分の背を預けた。
こうして見ると、ついさっき互角の走りを見せたふたりの体格の違いは明らかで。
傍目からはダイエットの必要などなさそうな彼女のあの華奢な身体のどこにあんなパワーを秘めているのか。
肩越しに楽しげな会話を交わしているふたり。
と、突然土浦が勢いよく身体を捻る。
支えを失った香穂子の身体が後ろに倒れ、その頭が土浦の胡坐の膝にぽてりと着地した。
香穂子が何かわめいている。
『もう! 急に何するのよ!』なんて声が聞こえてきそうな様子で。
土浦が首にかけていたタオルをシュッと抜いて、香穂子の顔にバサリと被せた。
タオルで顔をゴシゴシと拭いた香穂子は、そのタオルをくしゃっと掴んだ手を上に伸ばし、土浦の顔を拭いてやる。
少し乱暴気味に拭われている彼の顔は何ともいえない蕩けるような笑顔で。
はあぁぁぁぁっ……。
一斉に溜息が零れる。
足を止めて一部始終を見守っていた彼らの中に、彼女持ちはひとりもいないのだから無理もあるまい。
練習試合には勝ったというのに、感じるのは言い知れない敗北感。
ケーキ食べすぎの胸焼けも、激辛スパゲティもノーサンキューではあるが、やっぱり彼女が欲しい。
実川は心の中で涙を流しながら、そう願う。
他の面々も同じようなことを考えているのであろうことは、その顔を見れば一目瞭然だった。
土浦へのやっかみが膨れ上がり、反面尊敬の念も生まれ、何より『日野香穂子最強伝説』が誕生した瞬間であった。
そして、目の前のイチャイチャカップルのせいで虚しい数分間を過ごした彼らは、重い足を引きずり、ようやく帰途に着いたのだった。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
実川くんシリーズ・第3弾(笑)
……短編の書き方、忘れちゃったなぁ…。
そんな感じで無理矢理書いてみた。
ほぼノープラン一発書き。
カレーの激辛化ができるんなら、ペペロンチーノもできるでしょ♪
あぁ、また火原ネタだよ。
【2008/03/16 up】