■Bitter and Sweet 土浦

 1年に一度、空気がやたら甘く感じられる日──2月14日。
 菓子業界の策略により本来の意味を捻じ曲げられ「女から男へ告白する日」と位置づけられたこの日、あちらこちらで悲喜こもごもの人生模様が繰り広げられている。
 義理チョコの数を競って悦に入っているヤツ、本命チョコに幸せを噛み締めているヤツ、そして収穫なしという結果に涙を流しているヤツ── 人それぞれ。
 は? ……俺?
 俺は……義理チョコなんざ受け取るなんて、それこそそんな義理はない。
 コンクールやらコンサートやらで下手に全校に顔が知られてるおかげで、俺と香穂との間柄については周知のことと思っていたのに、 何度か呼び出されては赤い顔をした女子に『受け取ってください!』とラッピングされた小さな箱を差し出された。
 当然のことだが、すべて丁重にお断り、だ。
 まあ、天羽が『これ、私と冬海ちゃんから』と持ってきたヤツは単なるイベントとしてのものだとわかりきっているから、害はないだろうと貰っておいたが。
 くだらないイベントではあるが、あいつからのチョコならばもちろん喜んで受け取るさ。

 その『あいつ』は朝からまったくと言っていいほど何の動きも見せなかった。
 何事もなく教室の前で別れ、昼にも顔を見せず、放課後教室を覗けばすでにその姿はなかった。
 どうせ帰りは一緒だし、と気を取り直し、練習室に向かう。
 予約表に名前のあった個室を覗くと、見慣れたヴァイオリンケースとカバンが見えた。一旦ここに来て、購買に飲み物でも買いに行ってるんだろう。
 もうしばらくしてから、また様子を見に来るか。
 俺は思った以上に落胆している自分に苦笑しつつ、確保してある練習室に向かった。

 1時間ほど経った頃、あいつの練習室へと向かう。
 中を覗いてみると、ピアノの向こうにあいつの頭のてっぺんが僅かに見えた。
 ……んなとこで何やってんだか。
 カンカンッと勢いよくノックして、返事も待たずにドアを開ける。
 途端に鼻につく甘い匂い。
「ぅわっ!」
「きゃっ!」
 ピアノの陰からぴょこっと出てきたのは見知った顔── がふたつ。
「……よう」
「なんだ、梁太郎かぁ。びっくりした」
 ほっとしたようにへらっと笑う香穂と、真っ赤な顔でモジモジしている冬海だった。
「何やってんだ、お前ら」
 奥に回り込んでみると、ピアノ椅子を挟んで膝立ちになったふたりは、片手にプラスチックの小さなスプーンを握り締めていた。 もう片方の手にはプラスチックのカップ── プリンアラモードってヤツか…?
 椅子の上には明らかにケーキが入っていると思しき白い箱と紙パックのジュース。
 更に汚さないようにと気を遣ったのか椅子の上に敷かれたティッシュの上に、 どちらかの腹の中に収まったと思われる── 間違いなく香穂だろうが── ケーキの残骸のセロファンとアルミ箔。
 なるほど、甘い匂いはそれが原因か。
「見ての通り、冬海ちゃんとケーキ食べてるんだけど」
「いや、そりゃわかってるが……なんでこんなとこでケーキ食ってんだ?」
「だって学校の裏のケーキ屋さん、今日は全品2割引だったんだもん」
「はぁ? だったら、帰りに買って、家で食えばいいだろ」
「練習の後じゃ、いいケーキが残ってない可能性が高いじゃない」
「練習なんて家でもできるだろ。一言言ってくれれば付き合ってやったのに」
「あ、あの……」
 ポンポンと交わされる言葉の応酬に別の声音が混ざった。聞こえた方向に目を向ければ、いつの間にかプリンアラモードを平らげた冬海がカバンとクラリネットのケースをぎゅっと握り締め、 小動物のようにオロオロビクビクして立っていた。
「…わ、私、そろそろ失礼します……あの、香穂先輩、ごちそうさまでした…誘っていただいて、嬉しかったです…」
 彼女にしては少し早口でそう言いペコリとお辞儀して、ヨロヨロと扉へ向かう。
 ……あ、一応礼を言っといたほうがいいだろうな。
「冬海」
「は、はい…っ」
 ビクっと肩を震わせて振り返る。……そんなにビビらんでいいだろ。
「天羽から受け取った。サンキュな」
「あ…いえ……」
 と、プリンのカップを握ったまま、香穂がすっくと立ち上がる。
「冬海ちゃん、次はケーキバイキング行こうね!」
「…はい、ぜひ…!」
 スプーンを握ったままの手を頭上でぶんぶん振る香穂に、冬海は嬉しそうに微笑み、一礼して部屋を出て行った。

「あーあ、せっかく乙女のお茶会を楽しんでたのに……」
 すとん、と床に座り込んだ香穂がプリンの残りを豪快に口に流し込む。
 いつもながら清々しいほどの食いっぷりだな。
「そりゃ悪かったな」
「別に悪いなんて言ってないわよ。でも、冬海ちゃんってば、いまだに梁太郎の顔が怖いのね…」
 うんうん、とひとりで納得してコクコクと首を振っている香穂。
「この顔は生まれつきなんだからしょうがないだろうがっ」
 チラリと視線を送ってきた香穂の眉が曇った。
「……怒った?」
 確かに多少語気が強くなってしまったが、別に怒っているわけではない。言われ慣れてるし。
 だが── ふと、ある考えが浮かんだ。
「── そうだな、頭に来たことがひとつある」
 なに?と首を傾げる香穂。
「今日は何月何日だ?」
 俺の質問に、香穂は心底嫌そうな長い溜息を吐いた。
「……梁太郎もお菓子メーカーの策略に踊らされてるのね」
「進んで踊ろうとは思わないが、場合によっては踊ってやってもいいぜ」
「天羽ちゃんと冬海ちゃんから貰ったんだから、もういいじゃない」
「ありゃ完全な『義理』だろ」
「だったら義理じゃないやつ、断らずに貰っとけばよかったのにっ」
 言い捨ててプイッと顔をそむけた。
 こいつ、知ってたのか……それでむくれて、冬海巻き込んでケーキのヤケ食いってわけか。
 あからさまなヤキモチが、少しだけ気持ちいい── なんて言ったら烈火の如く怒るだろうが。
 思わず吹き出しそうになるのを必死で堪え、
「受け取ってもよかったのか?」
「いいわけないじゃないっ!」
 ぷぅっと頬を膨らませた香穂が椅子の上の箱に手を伸ばした。箱を開け、中からたっぷりのチョコクリームでデコレーションされたショートケーキを取り出す。
「げっ、まだ食う気か !?」
「放っといて、まだ3個目だからっ」
「まだ、って……おい」
 香穂はケーキの周りを覆っているセロファンをクルリと剥がすと、口の端にクリームがつくのもお構いなしに大口でかぶりつく。 モグモグと咀嚼してからコクリと飲み込むと、紙パックのレモンティーをずずっと吸い込んだ。
 微笑ましい光景と言えなくもないが……あんまりいじめるのもかわいそうだな。
 俺はピアノの蓋を開け、鍵盤に手を乗せる。
 椅子はケーキの箱に占領されているから、少し膝を曲げて── いわゆる『空気椅子』ってヤツだ。
 中途半端な姿勢だから、時々音が飛ぶのは仕方ないとして。
 奏でるのはチョコよりもケーキよりも甘い── 『愛の夢』。
「…っ」
 香穂が何か言いかけたようだが、背を向けているからどんな顔をしているかは見えない。
 結局、曲が終わるまで香穂は口を開かず、もちろん俺も何も言わずに弾ききった。

 無理な姿勢で軋む身体を伸ばして振り返ると、香穂は窓枠に肘をついて外を眺めていた。
 椅子の上には一口かじられただけのケーキが放置されている。
「香穂?」
「……今のって……催促?」
 外を見たままの憮然とした声。
 そんなつもりで弾いた訳ではなかったが、『愛』のつく曲は今の香穂にとってはそう聞こえるのだろう。
 そう考えていると、もしかしたら無意識に催促していたのかもしれないと思えてきた。
 …まあ、『今日は何月何日だ?』と聞いた時点で既に催促しているのだが。
 言っておくが、俺は別にチョコが欲しいわけじゃない。チョコに込められた香穂の気持ちが欲しいだけだ。
「香穂」
「……バレンタインって、女の子が好きな男の子に告白する日、だよね…?」
「日本じゃ一般的にそういうことになってるな」
「告白する必要がなければ、チョコも必要ないってことだよね」
「はぁ?」
「だから! 私と梁太郎はすでに付き合ってるんだから、今さら告白なんて必要ないでしょ。だからチョコも必要なし!」
 正論とも無茶苦茶とも思える理屈を捏ね回す。
 そこまで怒ってるのか?
 だが、俺に非はない。香穂の怒りは、逆に冷静さを俺にもたらしていた。
「香穂」
「あーもうっ!」
 じれったそうに大声を上げると、ポンと窓枠に手をつき勢いをつけて窓から離れた香穂は部屋の隅に置かれたカバンへ向かう。 中から何か取り出すと、ズカズカと俺の前まで歩いてきて、小さな箱を力任せに俺の腹に押し付けた。
「ほらっ!」
「おう……サンキュ」
 俺の手に収まっているのは、グリーンのチェック柄の包装紙に深緑のリボンがかけられた手のひらサイズの小箱。
 あるんならもったいぶらずに早く出せばいいのに、と思いつつ。
「── 開けていいか?」
 窓の前に戻ってしまった香穂の背中に問いかける。
「……どーぞ」
 リボンを解き、包装紙を剥がし、箱を開ける。
 中に入っていたのはちょっといびつなトリュフ── 間違いなく手作りだ。
 料理音痴を口外して憚らない香穂が俺のために一生懸命作ったんだろうと思うと、自然と頬が緩んでくる。
 ひとつ摘んで口に放り込んだ。
「う゛っ……」
 超ビター── というより、ひたすら苦いっ。更に焦げ臭いっ。
「だって……本を見ながらなのに、何度作り直しても…うまくできない…んだもん…」
 香穂の声が湿り気を帯びてくる。ずっ、と鼻をすする音と同時に、華奢な背中が小さく震えた。
 どうやら今日のこいつの不機嫌は、うまくチョコが作れなかったことに起因しているらしい。
 舌触りも最悪な苦い物体をなんとか飲み下し、
「まぁ……チョコを焦がしたのが原因だろうが……なんで湯せんでチョコが焦げるんだ?」
「それよ、それ!」
 ガバッと勢いよく振り返り、俺に向かってビシッと指を突きつけ、
「『湯せん』って何なのよっ!」
 ……んなこったろうと思ったぜ。
 たぶん、『湯せん』の意味がわからなかった香穂は、チョコを入れた鍋を火にかけたんだろう。
 ……そりゃ焦げるわな。
「…いいか、『湯せん』っていうのはだな、大きめの鍋に湯を沸かして、そこにボウルを浮かべて湯の熱でチョコを溶かすってことだ」
「おお、なるほどっ!」
 開いた手のひらの上でぽんっと拳を弾ませる。
 …なんつーベタなリアクションするんだよ、お前は。
 俺は香穂の肩にぽすんと手を乗せ、
「ま、来年に期待、ってとこだな」
「まっかせなさい!」
 さて、香穂にいつもの笑顔が戻ったところで──
「ってことで、口直ししたいんだが」
「あ、レモンティーでいい?」
 椅子の上の紙パックに手を伸ばそうとする香穂を、肩に乗せた手に力を込めることで引き止めて。
「いや、こっちがいい」
 素早く腰を折り曲げ、香穂に口付ける。
 口の端に残ったチョコクリームと、香穂自身の甘さをたっぷり堪能して、口直し完了。
「さ、残り時間、しっかり練習に励むとするか」
 真っ赤に染まった香穂の頭をぐしゃぐしゃと撫でてから、また後でな、と練習室を後にする。
 後ろ手に扉を閉めて── さて、手元に残った焦げトリュフ、一体どうしたもんか……。

 そして翌日、来年を待たずして『リベンジ!』と渡されたトリュフは、甘く── まともなチョコだった。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 テーマは『空回りな強気香穂子さん&余裕たっぷりな強気土浦氏』(笑)
 いやぁ、書いてるうちにどんどんわけわかめになっちゃってなぁ。
 しかし香穂子さん、どんだけ料理音痴やねん。

【2008/02/12 up】