■エール 土浦

 ピーーーーーーーッ !!
 グラウンドに鳴り響くホイッスル。
 それを合図に、泥だらけの男たちが集合する。
「少し早いが、今日の練習はここまで!」
「「「お疲れさまでした!」」」
 一礼して解散。
 下げた頭を上げながら、ふと目をやった観戦スペースに見知った顔を見つけ、俺はそちらへと足を向けた。
 ユニフォームの泥を叩き落としながら1段飛ばしにコンクリートの階段を上がり、声をかける。
「よっ、日野さん!」
 難しい顔で手元の紙をじっと見つめる日野さんは、ぴくりとも動かない。
「……日野さん?」
 俺はすぐそばまで近づいて、その細い肩を人差し指でつんと軽くつついた。
 彼女は飛び上がるようにびくりと身体を震わせて、ばっと顔を上げる。大きな目をまん丸に見開いて。
「うわっ、び、びっくりした……」
「ごめんごめん、驚かすつもりはなかったんだけど」
「ううん、こっちこそごめんね、実川くん」
 日野さんはにこりと笑うと、両耳からイヤホンを外し、横に置いた大きなケース── たぶんヴァイオリンが入ってる── の上のポータブルCDプレイヤーの停止ボタンを押した。
 あ、なるほど。音楽聞いてて、俺の声が聞こえなかったのか。
「ところで日野さん、こんなとこで何やってんの?」
 俺は人ひとりが座れるほどのスペースを空けて彼女の隣に腰を下ろし、素朴な疑問を口にする。
「んー、またコンサートやることになっちゃってね…、その曲選び」
「えっ、昨日終わったばっかじゃん?」
 昨日のコンサートには俺も行った。
 何せ、相方ともいえる俺の親友が出演するのだから、行かないわけにはいかない。
 といっても、俺はクラシックのことはからっきしだから、誰が作った何という曲か、なんてまるでわからなかったけど。
 でも、わからないなりに、なんかこう、胸の奥がじーんとするような感覚を味わった。
 同い年のヤツらがこんな演奏ができるってすげーな、とも思った。
「そうなんだけどね…、私にコンミスが務まるかどうかの試験らしいから、しょうがないよ」
 へへっ、と肩をすくめて笑う日野さん。
 ……あ、可愛い…。
 こんな可愛くて儚げな笑顔されたら、そりゃアイツじゃなくても『守ってやりたい』って思うよなー。
「でもさ、曲聞いたりするんなら、図書室とか行ったほうがいいんじゃない? ここってほら、運動部のヤツらの声でうるさいし」
「それがそうでもないんだ。ここって意外と集中できるんだよ」
「そう?」
「それに、運動部の人たちが頑張ってる姿見るとね、私も頑張るぞーって気になれちゃう」
 日野さんは両手でグッとガッツポーズをしてみせる。力こぶを作ったつもりなんだろうけど、細い腕にはそんなものはできてないけどね。
 ま、『運動部』のひとりとしては、そういうふうに言ってもらえるのは嬉しいかな。
 ちょうどその時、上の方でカツンと硬い足音がした。
「よう、ふたりして何やってんだ?」
 降ってきた低音の声は、俺の相方、土浦梁太郎。
 1年の時にサッカー部で出会い、2年になって同じクラスになり。
 2年になってすぐに学内コンクールに出るって聞いて驚いたっけ。まさかアイツがピアノ弾けるなんて思ってもなかったもんな。
 そして、このふたりは別の意味での『相方』同士。俗に言う、恋人同士、ってやつだ。
「へへー、日野さんがいたから、ちょっとナンパしてみた」
「はあっ !? バカなこと言ってんなよ!」
 何にも動じないと思ってた土浦をこんなに動揺させるなんて……、日野さんすげーよ。
 その日野さんは、俺の隣でクスクスと笑っていた。さっきの儚げな笑顔じゃなく、本当に楽しそうに。
 そんな笑顔も可愛くて……って、いかんいかん、ダチのカノジョだろうが、日野さんは!
「ウソに決まってるだろ。彼女、次のコンサートの曲を選んでたんだと」
「へえ……もう決めたのか?」
 すぅっと目を細めた土浦が、彼女に問いかける。
 一応ね、と答えて、日野さんは数枚の紙を土浦に差し出した。
 パラパラとめくり、げっ、と顔を歪める土浦。
「…3曲ともピアノパートありかよ」
「ふふん、死なばもろとも」
「……まあいいけど」
 俺は思わず吹き出しそうになった。不満を装いながらも口元が緩んでる土浦の顔を見てしまったから。
「…チャイコのピアコンに、『パガニーニの主題による狂詩曲』と『ヴォカリーズ』か……この3曲じゃ、なんかまとまり悪くねえか?」
「そう?」
 土浦は楽譜を見ながら俺と日野さんとの中間に立った。俺は少しずれて、スペースを広げてやる。
 ドサリと座った土浦は、楽譜を吟味しているのか、黙り込んでしまった。
 ひょいと覗き込んだ楽譜は、すごい数のおたまじゃくし。
 こんなの見て、よくあんな曲にできるもんだ、と感心してしまう。
 自慢じゃないが、俺の選択科目は美術だ! …って、ほんと自慢じゃないよな。
「ヴォカリーズやめて華やかな曲でまとめるか、チャイコやめてラフマニノフでまとめるか、チャイコかパガニーニやめて清らか系入れてバラエティ重視にするか、だな」
 日野さんは、うーん、と唸って、土浦に渡したのとは別の紙の束をめくる。
「……ラフマニノフはその2曲しかないよ。彩やかな曲ならラプソディー・イン・ブルー、清らかな曲ならカルメンの間奏曲、かな」
 手元の束から抜き出した数枚の楽譜を土浦に手渡しながら、日野さんは大きな溜息を吐いた。
「どうした?」
「曲のタイトルと楽譜だけでどんな曲ってわかるなんて、なんかずるい。私はCD聞かなきゃわかんないのに」
「年季が違うんだ、当然だろ?」
 むぅ、と唇を尖らせた日野さんを見て、土浦はハハ、と笑った。
 どんな顔をして笑ったのか、日野さんの方を向いている土浦の表情は見えなかったけど、なんとなくいつもと違う雰囲気。
 それはふたりの会話が音楽のことだからなのか、それとも会話している相手が日野さんだからなのか。
 ……ま、たぶん両方なんだろうけど。
 その上ふたりの会話は俺にとってはちんぷんかんぷんで、土浦が違う世界の人間になってしまったような寂しさをふと覚えた。
 以前、土浦から『サッカー部辞めて、春からは音楽科へ行く』と聞かされた時のような。
「お前のコンミス就任がかかってるんだ、しっかり頑張れよ」
「言われなくても頑張ってますー!」
「ははっ、わかってるって」
「……なあ、土浦」
 膝の上でトントンと揃えた楽譜の束を日野さんに渡し、土浦がこちらを振り返った。
「ん?」
「『こんみす』って、何だ?」
 俺の質問に、土浦は一瞬目を見開いて、それからニヤリと笑った。
「ああ……、コンミスってのはコンサートミストレスの略。オケの第1ヴァイオリンの主席のこと。女だとコンミスで、男だとコンサートマスター、略してコンマス。 指揮者に次ぐオケのまとめ役なんだが── そうだな、サッカーで言えばキャプテンってとこか」
「へえ」
「指揮者── 監督が指揮できなくなった時には、キャプテンがチームの総指揮を執る。それの音楽版って言えばわかりやすいか?」
「お、おう」
 ……それって、責任重大、だよな?
 日野さんはそんな大役を目指して頑張ってるのか…。やっぱすげーな。
「こいつも次から次へと妙なことに巻き込まれてさ、この細っこい身体でよくやってるよ。ま、俺も一度巻き込まれたからには、最後までつきあうけどな。 それこそ『死なばもろとも』だ」
 物騒なことを言いながらも、土浦はやけに楽しそうで。
「さてと……チャイコ以外にするならフルートとトランペットが入るから、先輩ふたりにお伺い立ててみたほうがよさそうだな。この時間なら捕まるだろ── って、おい、日野 !?」
 突然声を荒げた土浦に驚いて覗き込んでみると……、日野さんはいつの間にか土浦にもたれて小さな寝息を立てていた。
「ったく、よくこの短時間で寝れるよな」
 ……彼女がもたれかかってきた時点で気づけよ。
 でも、そういうのがふたりの間じゃ当たり前のことなんだろうなあ。あー、俺も彼女が欲しいっ!
「おい、日野、起きろ! んなとこで寝たら、風邪ひいちまうだろ」
「……え……あ…私、寝てた…?」
 日野さんは眠そうな目をパチパチとしばたたかせながら、両手で頬を押さえる。目元と口の端がぐいっと下げられて違う人のように見えたけど、 そんな顔も可愛いとか思ってんだろうな、土浦は。
「よだれ」
「うそっ !?」
「ウソ」
「もうっ!」
「ははっ、怒るなって」
 あーあー、はいはい、彼女のいない俺への当てつけか? ……こいつら、ふつーにバカップルだよ。
 もう勝手にやっててくれ── 俺は虚しさのあまり、すっと席を立った。
「俺、もう行くわ。頑張れよ、ふたりとも」
「おう」
 グラウンドに下りる階段に向かいながら、肩の上でひらりと手を振って。
 と、ふと思い出して足を止め、くるりと振り返る。
「……そういやイタリアリーグのDVD預かってるけど、明日でいいよな?」
「おう、いいぜ。サンキュな!」
 片手を上げて笑った土浦は、一緒にボールを蹴ってた時の土浦で。
 ……そうだよな、サッカーやってようが、音楽やってようが、土浦は土浦だよな。
 土浦と日野さんは音楽で頑張り、俺はサッカーで頑張る!
「頑張れよ!」
 俺は心からのエールを込めてもう一度そう言って、グラウンドへの階段を駆け下りた。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 土浦大好き実川くん(笑)
 観戦スペースで実川くんに話しかけた時、『土浦が心配してたよ』みたいなことを言ってたのが元ネタ。
 ま、部活もクラスも一緒の友達が部活辞めて転科するって聞いたらフクザツだよなー。
 確認したら、実川くんって無印からちゃんといたのよね。
 出会いイベントに出てた。
 2じゃピアノやめてOLになったお姉さんの話してるし。
 そしてお約束なバカップル。
 そしてこの後、土浦は香穂ちゃん放置(笑)

【2007/10/09 up】