■せいぎのみかた 土浦

 三学期に入ったある日の昼休み。
 日野香穂子と土浦梁太郎はカフェテリアで『和風アラカルト定食』をつつきながら、春からの音楽科編入を前に『普通科で音楽をやる者同士』としての最後の記念にと最近二人で練習を始めた ヴァイオリン・ソナタの解釈について、あーでもないこーでもないと議論を繰り広げていた。
 と、二人の座るテーブルに遠慮がちに近づいていく人影。
「あの……、こんにちは」
「あ、笙子ちゃんも今日はここでお昼なんだ?」
「はい、友達が誘ってくれたんです」
 音楽科1年の冬海笙子が嬉しそうに笑った。
 気が小さく、いつもおどおどしていた彼女は、春のコンクールと秋から冬にかけてのアンサンブルコンサートで自分に自信を持ち始め、 今では顔つきまでしっかりしてきたように見える。とはいえ、緊張したりするといまだに怯えたような様子は見せるけれど。
「か……日野に話があるんなら、俺は席外すぜ?」
「あ、いえ……今日は土浦先輩に…」
 椅子から腰を浮かしかけた土浦を、冬海がやんわりと制した。
「…俺に?」
「はい……あの…、この間はありがとうございました」
「この間…? ああ、あれか。あの後、大丈夫だったか?」
「はい、あの後、きちんとお話ししました。前にも同じようなことがあったのに…、私、進歩がなくて…、土浦先輩にまたご迷惑おかけして……」
「いや、あいつの場合、半分逆ギレしてたしな。怖いと思うのも無理ないぜ。ま、解決したんなら、それでいいさ」
「はい…、本当にありがとうございました」
 冬海は深々とお辞儀をした後、小首を傾げてニコリと笑うと、失礼します、と言って友人の座るテーブルへと戻っていった。

 中断される前の話に戻ろうと香穂子に意識を戻した瞬間、土浦は引きつった喉から出そうになった声を必死に飲み込んだ。
 なぜなら── すっかり穴だらけになったとんかつをさらに箸でつつきまくる香穂子の背後にどす黒いオーラのようなものを見た気がしたからである。
「か、香穂…?」
「………なんか『ふたりだけのヒミツ』って感じ」
「はぁ !? ……妙な勘ぐりするなよ。別に言いふらすようなことでもないし、単に忘れてただけで……ほら、前にもあっただろ、冬海が妙なヤツに言い寄られてたこと。 あれと同じようなことがまたあったんだよ。今度は普通科の2年のヤツで、キレながら冬海に迫ってたから助け舟出しただけだ」
「へー」
 標的をしゃけおにぎりへと移した香穂子は、2本まとめて握った箸をぐさりと突き刺した。
「へー、ってなんだよ。冬海はお前の妹分みたいなもんだろ、だから助けたんだろうが。それとも、お前は俺がそういう場面を見て見ぬ振りするような薄情な男だと思ってるのか?」
「そうじゃないから困ってるんじゃない」
「は?」
 香穂子はおにぎりをはむっと一口齧り取る。
 自分が人を助けたからといって、どうして香穂子が困ることになるのだろうか?
 土浦はその様子をぽかんとした顔で見つめたまま、香穂子が口の中のご飯粒を飲み込むのを待った。
「……梁太郎ってさ、相手が男だろうが女だろうが他人のピンチを黙って見過ごせない人なんだよね……私もコンクールの時、助けてもらったし」
「まあ……そりゃ理不尽な目に遭ってるヤツは助けてやったほうがいいだろ」
「………さすが熱血体育会系」
 海よりも深い溜息を吐いた後、香穂子はぽつりとそう呟いた。
「……余計なお世話だ」
 睨む土浦の視線も意に介さず、香穂子は少しぬるくなったお茶をぐいっと一気に飲み干すと、湯飲みをテーブルの上にカンッと叩きつけるように置いた。
「……笙子ちゃんが本気出したら、私は敵わないんだろうな」
「は?」
 香穂子的には一貫した話題をしゃべっているのだろうが、土浦にはあっちこっち話題が飛んでいるように思われて、香穂子が何を言いたいのか全くわからなかった。 誰か通訳してくれ!と本気で思っていたが、さすがに香穂子の前でそれを口に出すと自分が痛い目を見そうな予感がしたので敢えて言わなかったが。
「……何で冬海が本気になると、お前は敵わないんだよ」
「だって笙子ちゃんモテモテだし」
 そういうお前だってファンクラブがあるぐらいモテモテだろうが、と土浦は心の中でひとりごちる。
「……私は笙子ちゃんと敵同士になりたくないんだもん」
「だから、なんで俺が冬海を助けると、お前と冬海が敵同士になるんだ?」
 もうワケわかんねえ── 土浦は頭を抱えた。
 その傍で香穂子は深い溜息を吐く。
「…ほんっと梁太郎ってば女心がわかってないよねぇ……」
 土浦の眉がぴくりと跳ね上がった。
「へぇ……お前でも『女心』ってもんを振りかざすことがあるんだな。もっと男前なヤツだと思ってたんだが」
 今度は香穂子の口の端がひくりと吊り上った。
「あのさ……前から聞こうと思ってたんだけど…。梁太郎、私のこと『女』だと思ってる…?」
「さあ、どうだかな」
 いつもの調子で軽口を返してしまった土浦は激しく後悔した。
 再び香穂子の背後にどす黒いオーラがゆうらりと立ち昇るのを感じたのだ。
「お、落ち着け香穂! な、メシ食っちまおうぜ!」
 ぽん、と肩に置いた土浦の手を、香穂子は勢いよく振り払った。
「いっつもそう……『骨がある』だの『男前』だの『かっこいい』だの………」
「か、香穂…?」
 おもむろに香穂子が席から立ち上がった。
 ツンと顎を上げ、冷たい視線で土浦を見下ろしながら、すぅっと息を吸い込むと──
「今後、私の周囲半径3メートル以内への接近を禁じますっ!」
 高らかに宣言して、まだ半分近く残っている和風アラカルト定食のトレイを返却カウンターに返し、カフェテリアを出て行った。
 香穂子のよく通る声は周囲の生徒たちの注目を引き、学内でも有名なカップルに何が起きたかと辺りはざわめいた。
 その場に残された土浦も、注目を浴びながら残りの食事を平らげることに抵抗を感じ、香穂子の後を追うようにカフェテリアを後にした。

「おい香穂! 待てって!」
 早足で歩いていく香穂子をようやく捕まえたのはエントランスだった。
 おそらく満腹には程遠いせいか、あるいは興奮に渇きを覚えた喉を潤すためか、購買に向かっていたのだろう。
 後ろから肩を掴んで向きを変えさせると、香穂子はうっすらと涙の浮かんだ眼で睨み上げていた。
 土浦は思わずその眼に怯む。
「うっ……お、俺が、悪かった…」
 さすがに失言だったかととりあえず詫びておく。
 が、ふいっと顔をそむけた香穂子は肩を揺らして土浦の手を跳ね除け、くるりと踵を返して再び購買の方へと歩き始めた。
 土浦はすかさず香穂子の腕を掴むと、壁際のベンチに引っ張って行き、座らせておいてから購買でかろうじて残っていたサンドイッチとペットボトルのお茶を買ってきた。
 隣にドサリと腰を下ろして香穂子にペットボトルを持たせてやると、香穂子は律儀に「ありがと」と小さな声で呟いた。
「……お前ってさ、変に女扱いされるのが嫌いなんだと思ってた── 違ってたのか?」
 膝の上でペットボトルを掴む香穂子の両手に力がこもる。
「……男の子ってやっぱり、優しくて可愛い女らしい子が好きなんでしょ?」
「そりゃ嫌いじゃないだろうが……、そういうのが好きかどうかは個人の趣味の問題だろ。『嫌いじゃない』ってのと『好き』ってのは雲泥の差だぜ?」
「でもそんな子に『好きです』とか言われちゃったら、自分も好きになったりしない?」
「俺がそんなこと知るか。そういう状況に直面したことがないからな」
「そういう状況に直面することになるかもしれないから、私は困ってるの!」
 話がスタート地点に戻ってきたようだ。
「……それは、俺が困ってるヤツをほっとけない性分だって話とつながるのか?」
 こくりと香穂子が頷いた。
「女の子はね……乙女のピンチに颯爽と現れて助けてもらっちゃうと、きゅんとして、ぽぉっとなって、くらっと来ちゃうもんなの!」
 なんだかよくわからないが、『きゅん』とか『ぽぉっ』とか『くらっ』とかいう文字をどこかで見たことがある。
 ああ、そうだ。マンガなんかで、顔を赤らめたキャラクターの横によく書かれている文字だ。
「── 困ってる時に手を差し伸べられたら、私なら一発で惚れる! ていうか、惚れた!」
「っ !?」
「だから…っ、人を助けるのはいいことだとは思うけど─── あんまり私のライバルを増やさないでほしいっていうか……あーもうっ! なんでわかってくれないのっ!」
 ようやく香穂子の言いたいのであろうことを理解した土浦は呆れ半分、嬉しさ半分、口元にニヤリと笑みを浮かべた。
「ようするに……俺に助けられて俺に惚れたお前は、俺が助けた冬海にヤキモチを焼いたってことだな」
 土浦の自信たっぷりの断言に、俯いていた香穂子はガバッと顔を上げて土浦を見た。香穂子の顔は真っ赤で、成り行き上しばし見つめ合った後、目をキョロキョロと泳がせ始めた。
「べ…別に、笙子ちゃんに、ってわけじゃないけど……そういう人が続々と現れたら……、ほら、私ってそんなに可愛いわけでもないし、女らしくもないし……、 なんていうか、梁太郎の隣っていうポジションを奪われる可能性がなきにしもあらずっていうか……」
 香穂子の声は尻すぼみに小さくなっていく。それにつれて背中を丸めて、身体まで小さく縮めていった。
「だ、だからっ……、ただの自己嫌悪なんだってばっ!」
 真っ赤な顔を逸らして、逆ギレ気味に吐き捨てる香穂子の頭に、土浦はぽすんと手を乗せた。
「あのな……いいか、俺はのべつ幕なし他人のピンチを救ってるような正義の味方じゃないぜ? だいたいこの学院の中でそんなひっきりなしにトラブルが起こってると思うか?  起こってたとしても、そこに俺が居合わせる確率なんざ、そうあるわけじゃない。冬海を助けたのだって、コンクールやらコンサートやらで顔見知りだったってのと、 お前の妹分だからってだけだ。まったく知らないヤツのトラブルに首突っ込むような馬鹿な真似はしない」
 香穂子の頭が動いて、物言いたげにちらりと視線を送ってきた。
「薄情者とか言うなよ。あーそれから、それならなんでコンクールの時にお前を助けたのか、とかは訊くな。それは俺にもわからん」
 眉を僅かに寄せる香穂子。
「……なによ、それ」
「ま、あの頃は音楽科にいい印象がなかったからな、同じ普通科のお前を応援したくなった。それか── ガキの頃の記憶が働いたんだろ」
「……それにしちゃ、思い出すの遅かったよね」
「……悪かったな……ていうか、お前も人のこと言えねえだろうが─── とにかく、お前は今のままでいいんだよ」
 土浦は香穂子の頭に載せていた手を動かして、髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「もうっ! 髪が乱れるっ!」
 手を除けようと暴れる香穂子にはお構いなしにしばらく頭を掻き回し続ける。
「俺は─── 骨があって男前でかっこいい日野香穂子に惚れたんだよ」
 低いトーンで呟いた声が耳に届いたのか、香穂子はぴたりと動きを止めた。
 その耳元に顔を寄せ、追い討ちをかけるようにさらに低いトーンで囁いた。
「……お前は今でも十分女らしいし、誰よりも可愛いと思ってるぜ。だから俺がよそ見するわけないだろ」
 香穂子はますます顔を赤くして、がばっとベンチから立ち上がった。大きな眼をさらに大きく見開いて。
「── っ! は、半径5メートル以内接近禁止っ!」
「なっ !? なんで半径デカくなってんだよっ! おい、待てって!」
 肩をいからせ、足音高く普通科棟の方へ歩いていく香穂子。
 その後ろ姿を追いながら、土浦は思う── ヤキモチを焼かれるのも意外にいいもんだな、と。
 もちろん不快な思いをさせるのは悪いとは思うが、反面、それが自分に対する想いの深さだと思えるから。
 しかし、他の男子生徒と楽しげに話している香穂子を見かけるたび、嫉妬に狂いそうに── いや、嫉妬に狂っている自分は香穂子よりももっとヤキモチ焼きで、 もっと想いも深いのだ。
 そんなことを考えて、土浦は満足そうな笑みを浮かべつつ、香穂子を追う足を速めた。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 バカップル万歳!
 土浦+冬海昼休みの会話より。連鎖ルート。
 途中、カフェテリアでもっとお下劣会話が繰り広げられてたんだけど自主規制。
 あ、読みたい、なんて言わないで。バックアップ取ってません。
 連載真っ最中にもかかわらず、浮かんでしまったがために書き始めたものの、難産でした。
 つーか、まとまりない上に、土浦がニセモノだー(笑) 

【2007/08/14 up】