■ラストゲーム
「あ、いたいた! 香穂ーっ!」
カメラ片手に2年2組の教室に駆け込んできたのは、隣のクラスの天羽菜美。
報道部に所属する天羽とは春のコンクールで知り合い、秋から冬にかけてのコンサートでは惜しみない協力を受け、今では香穂子の一番の親友と言えるポジションにいた。
「どうしたの、菜美?」
今日の授業はすべて終わり、練習室に向かおうと机の上を片付けている香穂子のところに駆け寄ると、天羽は隣の席の椅子を引きずってきて腰を下ろした。
「ねぇ、あんたも行くんでしょ? 今度の日曜日」
「日曜? どこへ?」
「またまたー。サッカー部の練習試合だよ、あんたのダンナの最終試合!」
とんとん、と教科書を揃えていた香穂子の手がぴたりと止まった。
「…………………………へー」
「へー、って……まさか試合のこと聞いてなかったとか !?」
「うん」
「あちゃ〜! まったく何考えてんだろうね、あの男はっ!」
『あの男』とは、2年5組、サッカー部所属の土浦梁太郎のことである。
香穂子がこの学院に棲む妖精に無理矢理ヴァイオリンを押し付けられて途方に暮れている時に彼と出会い、彼は香穂子に関わったが故に自らもコンクールに出場する羽目になり、
怒涛のコンサートを経て、その結果ちょっとした因縁から諦めかけていた音楽の道へ進む決意をし、春からの音楽科編入を前に年度末を待たずしてサッカー部を退部することを決めていた。
土浦にとって、音楽とサッカーは聖域と言えた。
魔法で隠れているはずの音楽の妖精の姿が見えてしまうほどに音楽の才能を秘めていた香穂子はそちらの聖域は共有できたものの、もう一方の聖域には足を踏み入れることはできなかったし、
しようとも思わなかった。
もちろんサッカーのことを熱く語る土浦の話には興味深く耳を傾けたし、プロサッカーの試合を一緒に見に行ったこともある。
だが、土浦自身が試合の中でボールを蹴っている姿を見たことがなかったことに、香穂子は改めて気がついた。
ラストゲームのことを教えてもらえなかったことには一抹の寂しさを感じはしたが、不思議と怒る気にはなれなかった。
代わりに天羽が憤慨してくれたし。
「まぁ、対戦相手ってのが全国大会常連の強豪チームだし、あんたに負け試合を見せたくないっていう土浦くんの気持ちもわからなくはないけどさぁ。でも最後なんだよ、最後!
あたしだったら勝とうが負けようが、好きな女に見守ってて欲しいと思うけどな〜」
天羽の興奮ぶりに香穂子はぷっと吹き出した。
止めていた手を再び動かし、勉強道具をカバンの中に突っ込んでいく。
「負けるって決まってるんだ? ふふっ、梁太郎かわいそー」
「勝ったら奇跡だよ。言っちゃ悪いけど、うちのガッコの運動部って成績イマイチだからさ」
「わかんないよ? 相手も同じ高校生なんだし」
「そうだけどさー」
「菜美、取材行くの?」
「もちろん! 土浦くんのラストプレイ、ばっちし取材しちゃうよ!」
彼が小さな頃から情熱を傾けてきたサッカーの集大成とも言えるその雄姿を、この眼に焼き付けておく権利が自分にはあるはず。
「じゃあ── 私も行く」
「そうこなくっちゃ!」
天羽は嬉しそうに笑うと、日曜日9時に正門前ね、と言って教室から出て行った。
* * * * *
正門前で天羽と待ち合わせた香穂子は、相手チームの学校のグラウンドに着くとボール避けのネットを張ったポールの陰に隠れるような位置に陣取った。
年が明けて間もない、まだ厳しい寒さの中。
タートルネックのセーターにジーンズ、ブーツを履き、つい最近バーゲンで買ったファー付きの黒いコートを着込んで、ニット帽を目深に被っている。
一見香穂子だとはわからない姿。
単なる練習試合のためか、観客はほとんどいない。
パラパラと私服姿の女の子たちが数人ずつ固まっているのが見えるが、わざわざ日曜日にここにいる理由は香穂子と同じようなものだろう。
制服の上に学校指定のコートを羽織った天羽がその裾を翻して星奏の選手が集まっている方へと走っていくのを見送ると、香穂子は手袋をしているのにじんと冷える指先をこすり合わせた。
選手たちがグラウンドの中に入っていき、配置につく。
そして試合開始のホイッスル。
広いフィールドを縦横無尽に駆け回る選手たち。
香穂子はその中でただ1点をひたすら見つめた。
というよりも、香穂子の眼には土浦の姿しか見えていなかった。
その姿を胸に焼き付けるように、瞬きすることすら忘れて見つめ続けた。
試合終了まであと数分。
ゲームの流れは星奏学院チームのものだった。
MFのはずの土浦がFWとして相手ゴールに攻め込んでいる。
確かこういうのを『パワープレイ』って言ってたっけ?
何が何でも点が欲しいときにするのだ、と。
土浦との会話を思い出す。
相手の懐までボールを運んだ土浦は、張り付いていた相手選手の一瞬の隙をついてゴール右手まで迫っていた味方選手にパスを出す。
ボールは更にゴールに迫り、そこで蹴り上げられたボールは高い放物線を描いて再び土浦に戻っていく。
ネットポールに隠れていたはずの香穂子はいつの間にか顔にネットの跡がついてしまいそうなほどに身体を乗り出していた。
顔の横でネットを掴む手にギュッと力が入る。
「梁太郎! シュートっ !!」
思わず叫んでいた。
ジャンプして胸でボールを受け止めた土浦は、そのボールが地面へと落ちていく途中でゴールに向かって蹴り付けた。
得点を止めようとジャンプしたキーパーを嘲笑うように、ボールはグインと大きくカーブしてゴールに突き刺さり、ゴールネットを揺らしてポトリと地面に落ちた。
この試合で初めて入れた点を喜び合う間もなく、試合終了を告げるホイッスルが鳴り響く。
3-1── 相手チームの勝利だった。
* * * * *
近くのコンビニから急いで戻ってくると、途中で帰宅していく選手たちとすれ違った。
選手たちを追いかけるように駆け寄ってきた天羽が香穂子の前で立ち止まると、乱れた息を整えるために大きく深呼吸をする。
「まだグラウンドだよ、おたくのダンナ」
「…うん」
天羽は複雑な笑みをうっすらと浮かべ、香穂子の肩をポンと叩くと、先帰るね、と言って再び駆け出した。
香穂子はコートのポケットの中の冷たい感触と温かい感触をそっと確認してから、グラウンドへと向かった。
ついさっきまでボールと人が駆け巡っていたフィールドの中央に、土浦は静かに佇んでいた。
ユニフォームの上にジャージの上着を羽織っただけの姿。
他のみんなは着替えて帰ってしまったというのに。
その背中を目指して、香穂子はゆっくりと近づいた。
土を踏む音が聞こえているはずなのに、土浦は振り向かない。
それとも音に気づかないほどに何かに思いを巡らせているのだろうか。
香穂子は土浦の背後3メートルほどのところで足を止めた。
「お疲れさま」
「……ああ」
ゆっくりと振り返る土浦に、ポケットの中から出したスポーツドリンクをひょいっと投げた。
驚きに一瞬目を見開いたもののうまくペットボトルをキャッチした土浦は、口の端を少し上げてサンキュと呟いた。
「あったかいコーヒーもあるけど?」
「……いや、こっちでいい」
蓋を開けて一口あおると、土浦は控え選手用のベンチに向かって歩き、ドサリと腰を下ろした。
香穂子もそれに倣って土浦の隣に座る。
「……終わったな」
「……うん……やっぱり心残り…?」
「いや、やるだけのことはやった── ま、最後くらい勝ちで締めくくりたかったけどな」
「帰りに『残念パーティ』開いてあげる」
「あのなぁ……」
「点入れた時の梁太郎、すごくかっこよかったよ」
「っ! ……サ、サンキュ」
顔を覗き込むようにして言った香穂子の言葉に、土浦は顔を赤くして視線を宙に泳がせた。
「……お前の声もすごかったよな」
「ごめん……気がついたら叫んでた」
「管楽器でもいけるんじゃねぇのか? その肺活量を活かしてさ」
「あははっ、じゃあチューバにでも挑戦してみようかな」
「いきなりデカく出たもんだな」
「弦楽器じゃヴァイオリンが一番小さいから、管楽器やるなら一番大きいのがいいんだもん」
「単純だな」
「悪かったわね」
頬を膨らませた香穂子はぷっと吹き出し、それを見た土浦もふっと口元に笑みを浮かべた。
「……で、いつから見てたんだ?」
「んー、最初から」
「……そうか」
それっきり、土浦は静かにグラウンドを見つめたまま口を閉ざした。
香穂子はもう一方のポケットから缶コーヒーを出して両手で包む。
ようやく温まった指でプルタブを引っ張ると、しんと静まり返ったグラウンドにパカンという軽い音がやけに響いたような気がした。
グビリと飲み込んだコーヒーの温かさが胃に沁みていく。
隣で土浦もスポーツドリンクを喉に流し込んだ。
「情報源はどうせ天羽のヤツなんだろ? あいつ、取材にも来てたし」
「えへへ……うん」
「ったく……悪かったな、試合のこと、黙ってて」
「ううん、何か理由があるんでしょ?」
「……まあな」
再び黙ってしまった土浦をちらりと盗み見ると、少し赤くなった顔を必死で逸らし、ぽりぽりと首筋を掻いていた。
香穂子はクスクスと笑い、
「いいよ、無理に言わなくても」
「いや……緊張すると思ったんだよ、お前に見られてると思うとさ。やっぱりいいとこ見せたいと思うもんだろ」
「へぇ、そうなんだ」
「なっ、なんだよっ」
「えへへ」
うろたえる土浦の姿がなんだか可愛らしく見えた。
口に出せば眉をしかめるだろうとわかっているから言わないけれど。
今まで拒絶されていたと思っていた聖域に最後の最後に招き入れてもらえたようで、香穂子はなんだか嬉しくなって、にやける顔を隠すように手袋をはめた手で頬を覆った。
「……声が聞こえるまでお前がいることに気づかなくてよかったぜ……だが──」
「ん?」
ベンチからすっと立ち上がった土浦は数歩フィールドの中に足を踏み入れて空を見上げた。
澄み渡る蒼のところどころに冬らしいグレーの雲がふわりと浮かんでいる。
香穂子は土浦の次の言葉を静かに待った。
「俺の最後の試合─── お前に見届けてもらえてよかった」
ゆっくりと振り返り、香穂子にそう告げた土浦の顔はすっきりとしたいい笑顔だった。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
えー、DVD6巻の裏のつっちーを見たときに降ってきたネタです。
メール便で届いてたのをしばらくほっといたんだけど、開けてびっくり!
このつっちー、ムチャクチャかっこいいやん!
やっぱスポーツのできる男はいいよなぁ、うん。
表のピアニスト姿のやつはクニャクニャしててなんかヤだ。
【2007/07/03 up】