■昔の男 土浦

 ヴァイオリンとピアノの弦の震えが生み出す甘やかな音色が満ちた練習室の一室。
 音に身をゆだねていた土浦梁太郎は、その中に混じる異質な音に気づいて、鍵盤を滑らせる手を止めた。
 急にピアノの音が途切れ、不思議そうな顔で日野香穂子の弓を動かす手も止まる。
「おい……お前の携帯、鳴ってるぞ」
「え……あ、ホントだ」
 そばにあった椅子にヴァイオリンと弓をそっと置くと、ちょっとごめんねと言って香穂子は部屋の隅に置いてあるカバンに駆け寄った。
 ゴソゴソとカバンの中を探り、取り出した携帯をパカンと開くと、ディスプレイを見てゲッと嫌そうな顔をする。
「……もしもし」
 大きな声でしゃべっているのだろう、相手の声が土浦の耳にまで聞こえてきた。
 なんと言っているのかまでは聞き取れないが、興奮気味な── 男の声。
 土浦の片眉がぴくりと上がる。
 聞き耳を立てるつもりはないが、聞こえてくるものは仕方がない。
 聞かれてマズイ内容ならば香穂子は外に出るだろうし── 土浦は楽譜に目を落とした。
「── 今日も6時くらいまでは学校で練習してるけど……
 ── はぁっ !? 無理! 絶対無理!
 ── しつこい!
 ── だから、つきあえないってば!」
 最後の言葉に、土浦は思わずハッと香穂子を見た。
 迷惑そうに眉間に皺を寄せている香穂子。
 まさか── しつこく交際を迫ってくる男がいて、そいつからの電話なのだろうか?
「もう切るよ! じゃあね!」
 パタンと携帯を閉じて、ふぅと大きな溜息を吐く。
 携帯をカバンに突っ込むと、中断してごめん、と香穂子はヴァイオリンを手に持った。
「香穂……」
「え……なに? どうかした?」
「あ、いや……困ってることがあるんなら、俺に言えよ」
 香穂子は一瞬きょとんとして小首を傾げる。
「あ、今の電話? なんでもないの、気にしないで」
 香穂子はニコリと笑ってみせるが、気にしないでと言われたからといって、内容が内容だけに気にしないわけにはいかない。
 さぁもう一回頭から!と張り切る香穂子に、土浦はそれ以上何も言えずにピアノに戻るしかなかった。

 身の入らない練習を終え、下校を促す校内放送に追い出されるようにして正門へ向かう。
 妖精像のそばを通り過ぎ、あと少しで道路に出るというところで、門柱に寄りかかっている男がいるのに気がついた。
 背は土浦より少し低いようだが、スラリとスリムな体型で実際よりも高く見える。
 顔はまずまず、柔らかそうな赤毛を短くしていて、一見爽やかな好青年タイプ。
 男は二人の姿を見つけると、ダッと駆け寄ってきた。
「香穂子ぉ〜っ!」
 叫んだかと思うと、いきなりガバッと香穂子に抱きついた。
「なっ !? なんでここに… !?」
 愛する彼女の名を呼び捨てにし、あまつさえ目の前で抱きついた男に、土浦が怒りを覚えないわけがない。
「な、何してんだよっ!」
 香穂子から見知らぬ男をベリッと引き剥がすと、土浦は香穂子をかばうように間に割り込んだ。
「なんだよコイツ、香穂子の彼氏か? くぅ〜っ、俺がいない間に男なんか作りやがって!」
「関係ないでしょ! そもそも自分が地方の大学行っといて、俺がいない間もなにもないでしょうがっ」
 まさか── 『昔の男』ってヤツか…?
 土浦はさぁっと背中が寒くなったような気がした。
 自分にも小さな傷となった過去があるくらいだから、香穂子にも過去があってもおかしくはない。
 自分が惚れたくらいのイイ女なのだから、他にも香穂子に惚れたヤツがいてもおかしくはない。
 土浦が呆然としている間に、いつの間にか香穂子は男の正面に出ていた。
「なっ !? うぅっ、俺はお前のことをこんなにも愛してるのに……」
「あーはいはい、私も愛してますから続きは家で話しましょうね」
 この男とは『愛してる』と言い合うほどの仲だったのか… !?
 恋人同士だと思っていたのは自分ばかりで、香穂子のほうはそうじゃなかったのか…?
 土浦はこめかみがドクンドクンと脈打つのを感じていた。
「話なら十分しただろ! とにかくつきあってくれよ!」
「しつこいなー、無理って言ったでしょ! 私だって忙しいんだから!」
 愛しているのにつきあわないのはなんでだ?
 土浦の頭の中は完全に混乱していた。
 ただ、今はここからどうやって立ち去ろうかということばかり考えている。
 男は香穂子の腕を掴み、駅前通りの方へと引っ張って行こうとしていた。
 土浦はグッと奥歯を噛み締め、握る拳に力を込めた。
「香穂……悪い、俺の勘違いだったんだな…」
「えっ、土浦くん !?」
「お前らの仲を邪魔するほど、俺は野暮じゃないぜ……じゃあな」
 土浦はくるりと踵を返して自宅の方向へと歩き出した。足取りは鉛のように重い。
「えっ、ちょっ、待って土浦くん──── もうっ!放してよ、お兄ちゃんっ!」

 駅前通りのとある喫茶店。
 幸せそうにケーキを頬張る香穂子の隣で、土浦は居心地悪そうにコーヒーをすすっていた。
「いやぁ、二人ともゴメンね〜、結局つきあわせちゃってさ〜」
 二人の正面に座った男はニコニコと手元の小さな包みを大事そうに撫でている。
「……はあ」
「まったくもう、彼女へのプレゼントぐらい、一人で選びなさいよね!」
「だからゴメンって」
 そう、男は香穂子の実の兄。
 地方の大学に通う彼は、ケンカした彼女との仲直りの口実にするためのプレゼント選びを香穂子につきあってほしかったらしい。
 冷静になって顔を見比べてみると、なるほど面差しが良く似ていた。
 正体がわかってみればただの笑い話だが、電話の時点で『兄から』と聞かされていればこんな思いをせずに済んだのにと考えれば香穂子が恨めしくも思える。
 とはいえ香穂子にとっては兄妹間の取るに足らない話だったのだろうが。
 土浦にとっては『昔の男』ではなかった安堵の脱力感と、香穂子の兄との初対面の緊張感が入り混じった、なんとも複雑な思いだった。
「まったく人騒がせな……ごめんね土浦くん、なんか気分悪くさせちゃったよね」
「い、いや……」
「悪かったねー土浦くん」
「あ…いえ…」
「ところでさ、二人ってホントにつきあってるワケ?」
 香穂子兄の能天気な質問に、土浦は飲んでいたコーヒーを吹きそうになった。
 ゲホゲホとむせていると、
「そうよ、悪い?」
 無意味にぐいっと胸を張る香穂子が嬉しくもあり、照れ臭くもあり。
「悪かないけど……ホントか〜?」
「なんでそう疑うのよ」
「いやぁ、お前にゃもったいないイイ男だなーと思ってな」
「むっ……そ、そりゃあ、土浦くんはピアノうまいし、頭いいし、運動神経抜群だし、面倒見いいし、優しいし、何よりカッコイイし──」
「も、もういいって」
 土浦が制すると、指折り数えていた香穂子はハッと跳ねるように土浦を見て、みるみる真っ赤なった顔を恥ずかしそうに伏せた。
 見られた土浦は、誉め言葉を並べ立てられた照れ隠しに顔をしかめつつも、ほんのりと頬が赤く染まっていた。
「んで、土浦クンはうちの香穂子のどこがいいわけ〜?」
 今度は香穂子が飲んでいた紅茶をブッと吹いた。
「ちょっ、な、何変なこと聞いてんの !?」
「だって〜、興味あるじゃん」
 香穂子兄はニヤニヤしながら二人の顔を交互に見比べていた。
「で、どうなのよ?」
「そんなこと聞かれたって土浦くんが困るでしょ! 私なんてたいした取り柄なんてないし── あ…そうだよね……土浦くんって私のどこがいいんだろう…?  聞いてみたい気もするけど……あーでも『特にない』とか言われたらショックだし── やっぱり聞きたくないっ!」
 香穂子は一人で大騒ぎした後、耳を塞いでテーブルに突っ伏してしまった。
 そんな香穂子をちらりと見ると、土浦はふっと口元に笑みを浮かべた。
「── 素直で、ひたむきで、芯の強いところですかね」
「気も強いぞ〜。いいの? こんなので」
「……俺にはもったいないくらいのイイ女ですよ」
 香穂子兄はぶはっと派手に吹き出すと、腹をかかえてゲラゲラと大笑い。目にはうっすらと涙まで滲んでいる。
 兄の大笑いは香穂子の塞いだ耳にも届いたのだろう、何事かと上げた顔をきょろきょろとさせていた。
「なに? なに?」
「な、何でもねぇよ」
「そ、男同士の話だからな」
 兄は土浦に向かってバチンと音がするようなウィンクひとつ。
 自分の発言に今更ながら襲ってきた照れ臭さに、土浦は赤くなった顔を逸らしながら頭を掻いていた。
「さてと、俺は先に帰るからな。あんまり遅くならないうちに帰って来いよ〜」
 スッと席を立ち、テーブルの上の伝票を取り上げてひらひらと振りながらレジに向かうと、会計を済ませてさっさと店を出て行ってしまった。
 カランコロンとドアベルが軽やかな音を奏でた。

「ねえ、何話してたの?」
「何でもねぇって」
「ウソ、お兄ちゃん、大爆笑してたじゃない? もしかして私の悪口とか?」
「んなわけないだろ── 聞き逃したのはお前が自分で耳塞いでたからだろ、自業自得だと思って諦めろ」
「えーケチ〜! 少しぐらい教えてくれてもいいじゃない!」
「……………ま、そのうちな」
 土浦はふくれっ面の香穂子の頭をくしゃりと撫でると、すっかり冷めてしまったコーヒーをグイッと喉に流し込む。
 気分はすっきりと晴れやかで、ブラックのはずのコーヒーはなんだかほんのりと甘く感じて、土浦は小さな笑みを浮かべるのだった。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 ふははははっ。
 何も語るまい。
 香穂子兄は漫画版設定ですね。
 ま、一応オフィシャルのうちかなー、と思いまして。

【2007/05/11 up】