■Lips 土浦

 すぅっと大きく息を吸い込めば、まだ幾分冷たさの残る空気には春の気配。
 恒例になった週末の勉強会のために、並んで歩く市立図書館への道すがら。
 勉強道具を入れたデイパックを肩にかけたスポーツマンタイプの少年がぴんと背筋を伸ばして颯爽と歩く様子は、さながら2分の2拍子の行進曲。
 隣をあるく華奢な少女の足取りは羽が生えたように軽やかで、その足取りは4分の3拍子の円舞曲といったところか。
 少年は少女のために普段よりも歩くペースを落としてはいたが、性別と体格の違いはそのまま歩幅の差となり、少年が2歩歩いた時に少女の歩数は3歩を数えていた。
 時に寄り添い、時にじゃれあいながらの『マーチ』と『ワルツ』。
 街路に並ぶ桜の樹につくつぼみはまだまだ固いけれど、春は間近に迫っていた。
 春になれば、ふたりは本格的に音楽家としての道の第一歩を踏み出すこととなる。

「ねぇ土浦くん、今日はちょっと早めに帰りたいんだけど」
 少女── 日野香穂子は歩きながら少し腰をかがめ、隣を歩く少年── 土浦梁太郎の顔を下から覗き込むようにしてそう言った。
「なんだ、用事あったんなら早く言えよ。今日は勉強やめにして帰──」
「あー違うの違うの! そうじゃなくて!」
 踵を返そうと立ち止まった梁太郎の腕をがしりと掴んで、ふるふると首を横に振る香穂子。
「じゃあなんなんだよ」
 えへへ、と笑うと香穂子はくるりとターンして梁太郎の前に立った。
「あのね……買ってもらっちゃったんだ、簡易防音室ってやつ」
「は?」
 実際に見たことはないが、そういうものがあるのは梁太郎も知っている。
 ピアノ教室を営んでいる梁太郎の家や、親が音楽家で防音設備の整った家に住む同い年のヴァイオリニストには縁のないものではあろうが。
 普通の家庭に生まれて音楽を目指す者の中には、利用している者も少なからずいるだろう。
 実際、コンクールや度重なるコンサートで時間を共にした1つ年下のチェリストは、身を寄せる親戚の家で使っていると聞いたことがある。
 その簡易防音室の設置のために、夕方には業者が来るらしい。
 それで香穂子は朝からそわそわしているのか── まるで新しいおもちゃを買ってもらった子供のように。
「そんなにはしゃぐほど嬉しいのか?」
「当然じゃない、だっていつでも好きな時にヴァイオリンが弾けるんだよ?」
 代わりに小遣いが減額になった、お年玉を貯めた貯金を全額はたいた、などとぼやきながらもその瞳はキラキラと輝いている。その瞳の眩しさに、梁太郎は思わず目を細めた。
「………へぇ」
 我に返った梁太郎がようやくそれだけ口から搾り出すと、香穂子はもう、と不満そうに唇を尖らせた。
 ほんのりと赤く色づいた唇が、尖らせることによってその存在を主張しているように見えて、思わず視線が吸い寄せられる。
 いつもいつもそんなことを考えているわけではないが、17歳男子の興味の対象としては仕方のないことだろう。
 その唇の柔らかさを知らないわけではないが、なんだかバツが悪い思いがして、梁太郎は必死の思いで香穂子の唇から視線を逸らした。
「なによ、その反応の薄さ! そりゃ昔っから好きな時に好きなだけピアノが弾けた土浦くんには、私の気持ちなんて理解できるわけないわよね」
 拗ねた香穂子はフンと鼻を鳴らしてスタスタと先に行ってしまった。
 香穂子がどんなに拗ねようと、『お前の眩しさに見惚れてた』『お前の唇に触れたくなった』なんて言葉を梁太郎が簡単に口にできるはずもなく。
「お、おい、待てって!」
 大きなストライドで香穂子に追いつくと、梁太郎はツンと顎を上げてそっぽを向いている香穂子の頭を、子供をあやすようにポンポンと叩いた。
「ま、今まで夜は弾けなかったもんな」
 香穂子が急に立ち止まり、つられるように梁太郎の足も止まる。
 頭に乗せられたままになっていた梁太郎の手を掴んで頭から降ろすと、香穂子はその指に自分の指を絡めてニッと笑い、手を引っ張るようにして歩き出した。
 流れるような香穂子の手の動きに魅入られていた梁太郎は、急に引っ張られてたたらを踏む。
 そして言葉もなく引かれるままに歩き出すしかなかった。
「私ね、『弾きたい時が弾ける時』っていうのに憧れてたんだ」
 機嫌を直した── といっても元から本気で怒っていたわけではなかったが── 香穂子は、繋いだ手を前後に振って、スキップでもしそうな足取りで歩いている。
「じゃあ、今日からはヴァイオリニストへの道まっしぐらってわけか。俺も負けてられないな」
「宣戦布告? 受けて立つよ?」
「そうだな、お前はコンクールの頃からライバルだしな。ま、お手柔らかに頼むよ」
「いーえ、手加減はしません!」
 あはは、とふたりは笑い合って、じゃれるようにして図書館の中に入っていった。

 音楽を学ぶ高校と大学があり、住民の中にもその卒業生が多いこの街自体も音楽が盛んだということもあって、この図書館には音楽関係の専門書が数多く納められていた。
 3年から音楽科に転科するふたりにとって、1・2年の音楽科の勉強をさらうだけなら自宅でもできるのだが、 授業ではないせいで緊張感が薄いせいか、興味の方向は脱線していくこともしばしば。
 そんな時は、この図書館の蔵書が役に立つ。
 まるっきり音楽と関係がないわけではないが、どちらかといえば試験には絶対出そうもない豆知識的なものばかり。
 とはいえ、まだまだ音楽の知識の少ない香穂子にとって、興味を持って考えたり調べたりすることなら、少々の脱線もいいと梁太郎は思っていた。
 どうでもいいような些細な知識が、いつか香穂子の音楽を膨らませ、輝かせる可能性だってある。
 適当に軌道修正しながら、梁太郎も楽しんでいた。
「ねえねえ」
 香穂子の肩がドンと左腕にぶつかってくる。
 手元がぶれて、ちょうど書いていた文字がミミズのような尾を引いた。
「これってどういう意味?」
 小さな声で訊ねつつ、ずいっと寄せてきた教科書の文字を細い指で辿る。
「ああ、それは──」
 教科書を覗き込むように身体を寄せた。
 図書館という場所柄、大きな声は出せない。
 囁くような声でやり取りしていると、自然とお互いの距離が近くなっていった。
 現に今も、梁太郎の顔の15センチと離れていない場所に香穂子の横顔があった。
 そんなに高くはないけれどそれなりにすっと通った鼻筋、伏せた目を飾る長いまつ毛はくるんとカールしていて。
 滑らかで柔らかそうな、いや柔らかい頬は、過度に効いた暖房のせいかほんのり赤く染まっている。
 ついさっき教科書の文字を指していた人差し指が、カウントを取るように唇の上で跳ねていた。
 ふいに赤い髪がはらりと頬を隠す。
 唇の上にあった指がすっと動いて、零れ落ちた髪をすくって耳にかけると、再び唇の上へと戻っていった。
 一連の動作を吸い寄せられるように目で追っていた梁太郎の喉が小さくコクリと鳴る。
「ん? どうかした?」
 固まったままの梁太郎を不審に思ったのか、香穂子ががばっと振り返り、横顔は正面へと変わった。
 くどいようだが、梁太郎はいつも『そんなこと』ばかり考えているわけではない。
 しかし、自分の好きな女がこんな至近距離にいれば、意識するなという方が無理というもの。
 梁太郎は慌てて身を引き、自分のノートへと目を移して喉の奥で咳払いをひとつ。
「な、何でも人に頼るなよ。それくらい自力で調べろ」
「えー、今教えてくれようとしたんじゃないの?」
「甘えるな。ここは図書館だろ、調べるための本は腐るほどあるんだぜ?」
「うー、土浦くんのケチ」
 ぷぅと頬を膨らませると、香穂子はそっと席を立ち、音楽関連書籍が並ぶ書棚へと向かっていった。
 香穂子の姿が見えなくなると、力が抜けてしまった梁太郎の身体はずるずると深く椅子に沈み込んだ。
 ふぅー、と大きく息を吐き、椅子の背もたれに頭を預けて天井を仰ぎ見て、ゆっくりと目を閉じた。
 香穂子は今、梁太郎が暴れまくる心臓を押さえつけようと必死に戦っていることなんて、露ほども知らないだろう。
「無自覚って……タチが悪いよな……」
「何がタチが悪いって?」
 上の方から声が降ってきた。
 心の中で呟いたと思った言葉は知らず口に出ていたようで、オウム返しの質問に梁太郎は目を開ける。
 すぐに目に入ってきたのは上から覗き込む香穂子の顔のドアップで。
「ぅわっ !!」
 大きな声と共に、滑り落ちそうになって必死にしがみついた椅子がガタンと大きな音を立てた。
 当然、梁太郎は周囲の人々からの冷たい視線を一身に浴びることになった。
 慌てて『すみません』と頭を何度も下げて、椅子に座り直す。
「お、脅かすなよ!」
「勝手に驚いたくせにー。休憩するくらいならちょっと教えてくれればいいじゃない」
「だから、いつも助けてもらえるなんて甘いこと考えるな、って言ってるんだよ」
「はいはいわかりました、もう頼りませんよ」と香穂子は唇を尖らせた。
 図らずも目を留めてしまった香穂子の唇から慌てて視線を逸らすと、梁太郎はノートの上で這っているミミズを力任せに消しゴムで消した。
 多分赤く染まっているであろう顔の色もこの消しゴムで消してしまえればいいのに、と思いながら、香穂子が本のページをめくる音がやけに耳に響いた。

 近くのファストフード店で昼食を取り、再び図書館へ。
 運良く空いていた午前中と同じ席に座り、教科書とノートを広げる。
 相変わらず効きすぎた暖房のせいか、満腹になった身体を睡魔は容赦なく襲ってくる。
 初めのうちは首をこきこき回したり、頬を軽く叩いてみたりと必死に抵抗していたものの、結局は抗えず。
 香穂子は猫が背伸びをするように腕を伸ばして机に突っ伏すと、ピクリとも動かなくなってしまった。
 それに気づいた梁太郎が肩を揺すると、伏せた香穂子の顔がころんと梁太郎の方に向いた。
 初めて目にする香穂子の寝顔から目を逸らすことができず、じっと見入ってしまう。
 ずっと眺めていたい気持ちを必死に抑え、耳元で『香穂、起きろ』と呼びかけて、もう一度肩を揺すった。
 香穂子は、ん、と眉を寄せた後、
「りょう……」
 と呟いてふにゃりと笑みを浮かべた。
 目を引きつけて放さない唇が紡いだ短い言葉にドキンと鼓動が跳ねる。
 『りょう』が付く言葉で真っ先に思い浮かぶのは──。
 今香穂子が見ている夢の中には、きっと自分が出演中なのに違いない── そう思うと梁太郎の頬が緩んでいく。
 夢の中でそう呼ぶくらいなら、普段から呼んでくれればいいのに。
 再び肩を揺すると、香穂子はゆっくりと目を開け、夢の世界から戻ってきた。
「目、覚めたか?」
「えっ、わ、私寝てた !?」
「思いっきり寝言言ってたぞ」
「何て !?」
「えーと、『りょ』なんとかって言ってたな」
 香穂子の顔がボンッと火を噴くように一気に赤く染まる。
「── っ !! えっと、それは、その、あの…… そ、そうだ! 旅行に行く夢でも見てたんじゃないかな、あははっ」
 あまりの慌てっぷりに、梁太郎は自分の予想が正しかったことを確信した。
 少し意地悪をしてみたくなった梁太郎は、吐息がかかるほどの距離まで顔を寄せると、耳元で囁いた。
「俺の名前── 『りょうたろう』なんだがな」
 耳まで真っ赤にして口をパクパクさせている香穂子の様子に満足しつつも、自分の声が予想以上に甘かったことの照れ臭さを隠すように、固まったままの香穂子の頭をくしゃりと撫でた。
 香穂子の唇が紡ぐ自分の名前は、きっと何よりも甘く響くのだろうと思いながら──。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 えーっと……。
 とりあえず、テーマは『くちびる』。
 ちょっと発情期気味なつっちーですな…。
 まあ、健康な17歳男子なら(以下自主規制)
 って前にも書いたな(笑)
 一応、土浦連鎖ルートで、前にUPした『ターニングポイント』の後日のつもりです。
 この後、長編予定してます。

【2007/04/08 up】