■ハプニング
私の名前は日野香穂子。
ひょんなことからいきなりクラシック音楽の世界に放り込まれ、コンクールやらコンサートやらで大忙しの日々を送ってきた。
今やヴァイオリニストという目標を見据え、春からの音楽科編入に備えて猛勉強中。
元々クラシックの世界とは無縁なところにいた私に音楽の知識はなかったし、音楽科の人たちが2年間で勉強してきたことをこの数ヶ月で頭に叩き込む、というのは到底無理がある。
けれど私はヴァイオリンが好きで、ずっと弾いていたいし、一緒にスタートを切ることになる(といっても私のほうがずいぶん遅れをとっているけれど)
大好きな人が隣にいてくれるから、どんなことでも私は頑張れるのだ。
2月になったある日曜日。
私は久しぶりに自宅で過ごすことになった休日を、楽典とにらめっこすることに費やしていた。
いつもなら、この冬晴れて『彼氏・彼女』の間柄になった土浦くんとの図書館デート。
デートと言ってもちゃんと勉強してますよ、もちろん。
今頃彼は、冬休み前に退部したサッカー部の人たちと行動を共にしている。
3月に卒業する先輩と、4月に音楽科へ移る彼のための『追い出し会』だそうだ。
男ばかりがぞろぞろと、1日中どんなことして遊んでるのか興味がなくはないけれど。
机の上に積まれた音楽科の教科書に目をやり溜息ひとつ、私は楽典のページをめくってノートにペンを走らせた。
「香穂子〜、午後からちょっと付き合ってよ」
久しぶりの自宅での昼食の席で、ダイニングテーブルの隣に座る姉の志穂子がそう言い出した。
「えー、やだよ〜。お昼からは音楽史の勉強するんだもん」
「あんたさー、少しは息抜きくらいしなさいよ。平日はヴァイオリンのレッスンでOLの私より帰り遅いし、夜も遅くまで勉強してるみたいだし。休日も図書館で勉強してるんでしょ?
そんなんじゃ身体が持たないよ?」
『休日も図書館で勉強』── 姉の言葉に少々の胸の痛み。
別に土浦くんの存在を家族に秘密にしているわけではないけれど、だからといって『彼氏ができました!』と大きな声で宣言する必要もないだろうし、
それ以上にただ気恥ずかしくて。
もちろん勉強しているのは嘘じゃない。
息抜きだって適度にしてる。
図書館への行き帰りや勉強の合間にいろんな話をして、別れ間際にはキスだって──
触れるだけの、かろうじて相手の温もりがわかる程度の幼いキス。
唇にその感触がよみがえって、私の顔がボンッと火を噴いた。
「しょ、しょうがないじゃない! 他の人の2年間の勉強をこの3ヶ月でやらなきゃいけないんだからっ!」
「ほらほら、煮詰まってて余裕がないからそんな怒りっぽくなるんだよ」
心の中を隠すように荒げた語気を、姉は単なる怒りだと思ってくれたようだ。
「あんたにとってもちょうどいいチャンスなんじゃない?」
「……はぁ?」
ニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべる姉は、『チャンス』の意味がわからずポカンと口を開ける私の肩をぐいっと引き寄せて、耳元で囁いた。
「チョコ渡す男のひとりやふたり、あんたにもいるんでしょ?」
……… もしかして、気付かれてる…?
私の顔は再び火を噴いた。
姉に連れ出されたのは昼下がりの駅前通り。
姉と私がひとつずつ持っているのは大きめの紙袋。
中には綺麗にラッピングされた小さな箱がたくさん入っている。
そう、2月といえば女の子の一大イベント・ヴァレンタインデーというものがある。
生まれて初めてヴァレンタインにチョコを渡す相手ができたというのに、忘れていたとはなんたる不覚!
会社勤めの姉にとってヴァレンタインは単なる季節のイベントで、同僚に配る義理チョコの買い出し係がアミダによって当たってしまったらしい。
姉に言われなければ14日は軽くスルーしていたかもしれないと思うとゾッとする。
よく考えれば、土浦くんとは登校も下校も休日も一緒なんだから、一人で動ける今日はチョコを調達するには確かにチャンスなのだ。
が、今日チョコを買いに行けば『渡す相手がいる』ということが姉にバレてしまう。
かといって一緒にいる時間を削って買いに行くくらいなら──
結局、『付き合ってくれたらケーキおごるから』という姉の言葉に乗せられたフリをして、私は姉の買い出しに同行することにしたのだ。
私が持っている紙袋の中、たくさんの義理チョコの上にちょこんと鎮座した小さい紙袋。
姉に冷やかされながら買った、小さすぎず大きすぎずの箱が収められた紙袋を見下ろすと、私の頬は思わず緩んでしまうのだった。
「あれ……? 志穂子さん…?」
約束だったケーキを求めて喫茶店に向かっている時、後ろから聞こえた姉の名を呼ぶ声に足を止めて振り返る。
「あ! やっぱり志穂子さんだ!」
笑顔で駆け寄ってきたのは、すらりと背の高い、綺麗な女の人。
整った顔立ちで、涼しい目元。
きりりと引いたルージュが凛とした雰囲気を更に際立たせている。
ジーンズにコートを羽織ったラフな格好だが、それがまた似合っていてかっこいい。
久しぶりね、と姉と笑い合うその笑顔をどこかで見たことがあるような気がして、私は女性の顔から目が離せなかった。
「── もしかして、香穂子ちゃん?」
見ず知らずのはずの女性に名前を言われ、私は慌てて頭を下げた。
「そう、香穂子。こちらは奈津美ちゃん、覚えてない?」
女性── 奈津美さんは姉の大学時代の知り合いで、姉が4年生の時に参加した学外セミナーでたまたま隣の席になったらしい。
当時1年生だった彼女と話しているうちに、意外にも家が近所で出身小学校が同じということがわかって意気投合し、ちょくちょく互いの家を行き来したこともあるとか。
社交的で友人の多い姉はしょっちゅう友達を連れてきていたし、顔を合わせてもちょっと挨拶する程度だったからはっきりとは覚えていないけど、
こんなに綺麗な人だから記憶の奥に残ってたんだろうな、と少し納得した。
姉が社会人になってからは会うことがなかったという二人は実に3年ぶりの再会だったらしく、当然積もる話は尽きないようで。
立ち話もなんだから、と姉がお茶に誘うと、奈津美さんはせっかく会えたからぜひ家に来てくれと言う。
当然のように姉は断るはずもなく。
途中ケーキショップに寄り、奈津美さんのお宅にお邪魔することになった。
連れて行かれたのは店舗風と普通の玄関の2つがある大きな家。
「あれ? 今日は教室は休み?」
普通の玄関に案内されながらの姉の質問に、奈津美さんの家は学習塾でも開いてるのだろうと想像する。
「うん、来週が発表会でね。今日はそのリハーサルに行ってるの」
発表会? リハーサル?
学習塾で何を発表するんだろう?
落ち着いた雰囲気のリビングに通されて、座り心地のよさそうなソファーを勧められて腰を下ろした。
しばらくしてトレイに乗せたティーセットを運んできた奈津美さんが向かいのソファーに着席すると、再び姉たちの会話に花が咲く。
「ところでブラザーズは元気?」
「元気元気! 下の弟は中学生だけどまだまだガキで。上の弟なんかサッカーばっかりで硬派ぶってたくせに最近妙に色気づいちゃってさ〜」
へぇ、弟さん、サッカー少年なんだ。
香りのいい紅茶をいただきながら、この美人のお姉さんの弟なら結構カッコイイんだろうな、なんて想像してみたりして。
「どうやら女ができたらしいの」
この部屋には私たち3人しかいないのに、奈津美さんは周囲の耳を憚るように身体を乗り出して小さな声でそう囁いた。
「えーっ、あの子に女ぁ !? 紹介してもらった?」
奈津美さんは顔の前で手をパタパタと振って、否定の意味を示す。
「ことあるごとに追求してるんだけどねー、絶対に口を割らないの」
「へぇー…『色気づいた』と言えばこの子もなのよ〜」
姉は茶化すように私の脇を肘でつついた。
「ちょ…っ! お姉ちゃんっ!」
「あらー、香穂子ちゃん可愛いもの、言い寄ってくる男は引きも切らずでしょ?」
「い、いえっ……そ、そんなことは……」
「やだー、この子に言い寄ってくる趣味の悪い男なんていないわよ〜」
ムカッ!
からからと笑う姉を、私は目からレーザービームを出しそうな勢いで睨みつけた。
「そうそう、うちの弟ね、春ぐらいから真面目にピアノに向かうようになって……どういう心境の変化かしら?」
え……?
サッカー+ピアノ……?
その計算式で導き出される人物を、私はひとり知っている。
けどまあ広い世の中、そういう人が他にいたって不思議ではないけれど。
「最近は時々母さんのピアノのレッスン受けてるし」
サッカー+ピアノ+母がピアノ講師……?
やばい……心臓がドキドキしてきた……。
「それにあれだけ打ち込んでたサッカーやめて、この春から音楽科に行くっていうのよ〜」
ザーッと音を立てて血の気が引いていく。
あーもう! 計算するまでもないじゃないの!
そんな人はどこを探しても一人しかいない。
そう、この家は───。
「奇遇ね〜。この子も春からヴァイオリン始めて、何を血迷ったのか4月から星奏の普通科から音楽科に編入するのよ」
「えっ !? うちの弟も星奏なのよ! ね、香穂子ちゃん、知らない? 2年5組の土浦梁太郎!」
ほらね。
道理で見覚えがあったはずだ。
奈津美さんの笑顔は土浦くんのそれに似ていたのだから。
私は思いがけず訪れてしまった土浦くんの家のソファーの上で、ジャックナイフのように身体を折り曲げ、動転する頭を抱えることしかできなかった。
その時、玄関からガチャリとドアが閉まる音が聞こえ、ゆっくりと足音が近づいてきた。
「ただいま── 姉貴、お客さん?」
「や、梁太郎! 元気にしてた?」
「あ……志穂子さん、お久しぶりです」
ソファーにうずくまって小さくなっている私の気持ちも知らないで、姉と土浦くんが呑気に挨拶を交わしている。
ぴたりと胸にくっついている腿にバクバクする心臓の鼓動を感じた。
「あんた、女ができたんだって〜?」
「なっ……! 姉貴!」
「まあまあ。今日は志穂子さんの妹ちゃんもご一緒なのよ。星奏の生徒さんなんだって」
「へぇ……」
「校内ですれ違ったことくらいあるかもね〜……って、あんた何やってんの」
姉がひたすら小さく縮こまっている私の頭をパシンとはたいた。
あーもう、逃げ出したい! ここから消えてなくなりたい!
けれど、そんな私の願いは叶うはずもなく。
私は覚悟を決めて、おそらく真っ赤になっているであろう顔をゆっくりと上げた。
「お……お邪魔してます……」
「か、香穂 !? お前、なんでここに !?」
こうして私と土浦くんの『おつきあい』は姉ふたりに暴露されたのだった。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
時期外れな上に、ベタな展開でごめんね。
……と謝っておこう。
姉が香穂子を連れ出す理由を考えてたらこうなりました。
気が向けば続き書くかも?
【2007/04/04 up】