■ターニングポイント 土浦

 昼休みの練習室。
 しんと冷えた空気の中、カツカツと鳴る靴音がやけに響く。
 通り過ぎざまに見える個室の中には、冬休み明けでまだ気が緩んでいるせいか、昼休みになって間もないせいか、人の姿はほとんどない。
 だからというわけではないが、防音の効いた部屋からはほとんど音は漏れてくることもなく、廊下は静まり返っていた。
 その中でただひとつ聞こえてくる、耳に馴染んだ音。
 いつもなら清々しいほどに素直で伸びやかな音のはずなのに、今聞こえているのは萎縮したような── 迷いのある音だった。
 音の源の部屋の前で足を止め、ドアの上から下まで伸びた細い窓から中を覗き込む。
 赤みの強い髪を揺らし、一心にヴァイオリンを奏でる少女── 眉間に小さく皺を寄せ、思い詰めたように弦を震わせている。
 俺はポケットに突っ込んでいた手を出し、ドアをノックした。
「── はい…?」
 レバーに手をかけることもなくドア自体を押すと、何の抵抗もなくスッと開いた。
「ドア、ちゃんと閉まってないぞ」
「…… あ、土浦くん」
 少女── 香穂は小さな声で俺の名前を呟くと、肩に当てていたヴァイオリンをゆっくりと下ろし、弱々しく微笑んだ。
「歌ってないな…… お前の音」
「あはは…… 聞こえちゃった?」
 正直な感想を言うと、香穂は小さくペロリと舌を出して、頬をポリポリと掻いた。
 香穂の音に迷いがあるのも当然だ。
 なぜなら今、彼女はこれからの自分の一生を左右するであろう選択を迫られているから。
 焦るな、とは言ったものの、決断の期限は刻一刻と近づいている。
 できることなら手を差し伸べてやりたいが、それは誰にもできないことだ。
 たとえ差し伸べたとしても、そう簡単にその手を掴むような女ではないが。
 そんな香穂に、俺がしてやれることは、ちょっとした気分転換をさせてやることくらいか。
「お前、昼メシまだだろ?」
 4時間目の授業が終わってからさほど時間が経たないうちにここに来た俺よりも先に来てヴァイオリンを弾いていたのだから、と確信を持ってそう訊ねた。
 思った通り、香穂は小さく頷いた。
「カフェテリアにでも行くか?」
「でも……」
 香穂の躊躇いもよくわかる。
 幼い頃から楽器に触れ、技術を磨き、音楽の道の高みを目指してきた者とは違う。
 数ヶ月前、突然音楽の世界に放り込まれたのだから。
 1年前の彼女は、今自分が置かれる状況を想像すらしていなかっただろう。
 おそらく彼女は今、相棒であるヴァイオリンとの『対話』の中で答えを見つけようともがいているのだ。
「俺もまだだから、つきあえよ。それから── ちょっと下心もあるぜ」
「下心って…… アンサンブル?」
「いや── 食べながらゆっくり話すさ」
 俺は不思議そうに首を傾げる香穂に楽器の片付けを促して、ふたりで練習室を出た。

「── コンサート?」
「ああ、コンサート。一緒に行こうぜ」
 カフェテリアで『洋風アラカルト定食』についていたデザートのプリンをつつきながら、話を切り出した。
 ちなみに『洋風アラカルト定食』のメインはハンバーグ、型抜きしたピラフに温野菜、デザートにプリンがついたもの。 トンカツがメインの『和風アラカルト定食』に並ぶ人気メニューらしい。
「チケット、姉貴がくれたんだ。『梁が音楽の道に進む決意をしたお祝いに』ってさ」
「へー、優しいお姉さんじゃない」
 本当はそんなものではない。
 単に一緒に行くはずだった彼氏の都合が悪くなって行けなくなっただけだという、彼氏との電話でわめいていた姉貴自身の言葉を耳にして知っていたのだから。
 恩着せがましく目の前でチケットをひらつかせる姉貴には閉口したが、ありがたく受け取ることにした。
 それを話すと、香穂はケラケラと大笑いした。
「そういうわけで、今度の日曜、どうだ?」
「ふーん…… 本当に『下心』だったんだ?」
「な…… !?」
 ニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべ、俺に向けたスプーンをクルクルと回す香穂の一言に、俺は言葉を失った。 確かに── 『香穂に気分転換を』というのは口実で、自分がただ香穂と一緒にいたいから、という下心があったのは間違いない。
「……… そうだよ、悪いか?」
「いーえ、ありがたくお供させていただきますよ?」
 ふふっ、と笑って、プリンの最後の一口を口の中に放り込む。
 ちょうどその時、午後の授業の予鈴が鳴り、俺たちは慌てて食器を返却して、教室へ急いだ。

 日曜日。
 到着したコンサートホールの周囲は、コンサートを聴きに来た人でごった返していた。
 今日のオーケストラは人気のあるオーケストラで、チケットも完売続出で入手困難らしい。
 指揮者を目指す以上、一度は聴いてみたいと思っていただけに、ひょんなことから聴く機会を与えられて、内心嬉しかったりする。
 その上、隣にいるのが香穂であることも、心が躍るひとつの原因だ。
 受付を済ませ、パンフレットを受け取り、客席へ向かう。
 並んで着席して、他愛無い話をしながらパンフレットを眺めているうちに、次から次へと入ってくる観客で客席はあっという間に埋まってしまった。
 しばらくして、舞台の上にオケメンバーがぞろぞろと出てきてチューニングを始める。
 そして客席の照明がおち、逆に舞台の上が明るく照らされた。
 舞台袖からタキシードに身を包んだ若い指揮者が颯爽と歩いてくると、客席から大きな拍手が起こった。
 舞台上で拍手を受けお辞儀をする指揮者の姿に自分の姿を重ねてみると、思わず背中がゾクリとした。
 振り下ろされるタクト。
 重々しい金管の低音とティンパニの連打が腹の底に響く。
 ── シベリウスの交響詩『フィンランディア』。
 暗く閉ざされた極寒の地で、そこに芽吹いたモノが喜びの歌を歌い、そして優しい夜明けと共に美しい花を咲かせる── らしくない、と言われそうだが、 俺の中でのこの曲はそんなイメージ。
 紡ぎだされる音の中、指揮者の動きとそれに連動する演奏者の動きに俺の目は釘付けになっていた。
 2曲目はドヴォルザークの交響曲第8番。
 第2楽章のヴァイオリンソロで香穂が少し身を乗り出したのがわかった。
 チラリと見ると、ヴァイオリニストの弓の動きに合わせて手がわずかに動いているのがなんとも微笑ましい。
 第4楽章の冒頭、トランペットのファンファーレで香穂がぷっと吹き出したのに気づいて、曲が終わって休憩に入ってから訊いてみた。
 答えは── 『火原先輩を思い出したから』。
 きっと俺は露骨にムッとした顔をしたのだろう。
「変な意味じゃないってば」
 香穂は俺をからかうようにクスクスと笑って、先を続ける。
「コンクールの頃ね、先輩が『ドヴォッパチの第4楽章はトランペット万歳!なんだ』って言ってたの、思い出しただけ。この曲、初めて聴いたんだけど、 あー確かにトランペット万歳だな、っておかしくなっちゃって」
「…… へぇ…… ま、確かにあの派手さは火原先輩が好きそうだよな」
「でもフルートは難しいからフルートの子は演奏するの嫌がるんだって柚木先輩が言ってたんだって」
「へぇ……」
「懐かしいね、コンクール」
「…… ああ」
 香穂に出会わせてくれたコンクールに感謝はしているが、だからといって他の参加者の話をされるのは嬉しいわけがない。
 妙な沈黙が流れそうになった時、休憩の終わりを告げるブザーが鳴り、少しホッとして身じろぎをして座り直した。

 オケの準備が整い、指揮者が登場── 一緒に出てきたのは真っ赤なドレスを纏った細身の女性。
 手にはヴァイオリンを持っている。
 今日のプログラムに協奏曲なんてあったか?
 ピアノ曲には詳しいつもりだが、オーケストラについてはさすがに大した知識は持っていない俺は慌ててパンフレットをめくってみた。
 サラサーテの『カルメン幻想曲』── ビゼーのオペラ「カルメン」をモチーフに作られた超絶技巧を要する曲。
 ソリストのプロフィールを見れば、ウィーン留学を終えての凱旋公演になるらしい。
 ウィーンと言えば、国際コンクールで優勝を勝ち取った王崎先輩は近いうちにウィーンに拠点を移すのだろう。
 同級生である月森もこの春からはウィーンで留学生活を始めることになっている。
 舞台の上では、オーケストラを従えて、真っ赤なドレスのカルメンが奏でるヴァイオリンが歌い始めた。
 隣から聞こえる、大げさなほどに大きな息を飲む音。
 香穂は、さっきのドヴォルザークの短いヴァイオリンソロの時とは比べ物にならないほど大きく目を見開き、 エアヴァイオリンをすることも忘れてステージの上の女性ヴァイオリニストの姿にじっと見入っていた。
 確かコンクールの時に月森もカルメンを編曲した曲を弾いたが、それとはまるで違う。 目の前の女性ヴァイオリニストの演奏には月森の演奏にはない、圧倒的な匂い立つような『色気』があるのだ。
 時に情熱的に激しく、時に優しく囁くように、妖しく誘惑するカルメン。
 元々そう長くないこの曲はあっという間に終わったように感じ、アンコールの曲になっても香穂は固まったまま動けなくなっていた。
 俺のターニングポイントにはいつも香穂がいた。
 けれど今、俺は香穂のターニングポイントに立ち会っているのかもしれない── そんな気がしていた。

 すべてのプログラムが終了し、ホールから興奮気味の観客が続々と吐き出されていく。
 噂通りの素晴らしい演奏に、俺自身も興奮を隠しきれない。
 そして──。
 まだぼんやりとしたままの香穂の手を引き、夕暮れの迫る冬の道をゆっくりと歩く。
「大丈夫か? どこか寄って、軽く何か食べて帰るか?」
 香穂は小さく首を横に振る。
「…… 私にも…… ちゃんと勉強したら、私にもあんな音が出せるのかな…?」
 俯いたまま、小さな声で呟く香穂。
 それは俺に対する、というよりもほとんど独り言のようだった。
「それは…… 本人の努力次第、だろうがな── っと」
 急に香穂は立ち止まり、当然手を繋いだ俺の足も止められる。
「どうした?」
「…私………」
 香穂は向かい合った俺の顔を見上げ、真っ直ぐな目で俺の目をじっと見つめていた。
 その目のあまりの真っ直ぐさに、照れ臭くなって思わず視線を外しそうになったが、繋がれた香穂の手にわずかに力が込められたのを感じて、目を逸らすことができなくなった。
「私── 音楽科に行く」
 はっきりと宣言する口調、視線の力強さ── 香穂にもう迷いはない。
「そうか…… じゃあ早速明日、金やんのところへ行くか」
「うん」
 そして、俺たちは再び帰り道を歩き始める。
 こうやって手を繋いだまま音楽の道を一緒に歩けることになったのが、俺は無性に嬉しくて仕方なかった。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 はふー、やっと書いたぞ、土浦話。
 というか香穂ちゃん決意話。
 お気づきでしょうが、二人が行ったオケはR☆Sだと思われます(笑)
 もちろん指揮は千秋さま、Vnソリストは清良たん(笑)
 千秋の指揮コンでドヴォッパチが出たときに『ををっ、火原っ!』と思った人、手を挙げて〜。
 そしてコルダ2で火原がイベント中吹くのがこのファンファーレですね。
 おまいはそんなにこの『トランペット万歳!』が好きなのか(笑)
 ああ、火原ネタを土浦SSで使っちまったぜ。

【2007/03/30 up】