■土浦梁太郎の決意【おまけ3】
ウィーンの街角、とあるカフェハウスの前。
オープンテラスでほんの少し早いランチを楽しむ人々や、行き交う人々の中には見るからに観光客といった姿はない。
泊まっていたホテルやコンクール会場のあるメインストリートからほんの少し離れただけで、この街に暮らす人々の生活がダイレクトに伝わってくるような気がした。
待ち合わせは11時半。腕時計を見ると、約束の時間から5分ほど過ぎていて少々不安になった。
上着のポケットからメモを取り出す。縦横のラインが引かれ、ところどころにランドマークになる店名が書き添えてあるだけのごく簡単な地図。
簡単でいてわかりやすいそれを辿って来たのだから間違ってはいないはずなのだが──
と、ガラガラと固いものの上を転がる音が近づいてきて、
「── すみませーん、お待たせしました〜!」
スーツケースを引きずる長身の男性の隣で、有名ヴァオイリニストが大きく手を振っていた。
* * * * *
「── あのー、神崎さん……でしたよね?」
そろそろパーティもお開きになろうかという頃、撮影を終えたクルーたちと半ばヤケクソでパーティエンジョイモードに入っていた神崎は、後から声をかけられ持ってたグラスを落としそうになった。
「えっ、は、はいっ、そうですっ!」
声が上ずるのも当然だろう。声をかけてきたのは有名ヴァイオリニスト・日野香穂子だったからだ。
香穂子は「よかった、間違ってなかった」と小声で呟いて、ほっとしたようにほわりと笑った。
聞こえてしまった小さな呟きに肩を落とす。もちろん彼女に悪気はこれっぽちもないだろうし、
まともに取材もできていない状況できちんと名前を覚えてもらえるような実績のある記者ではないことは分かっているけれど。
いや、あやふやだったとしても一応は覚えてもらえていたのだ、誇りに思うことにしよう。
「先ほどはハンカチ、ありがとうございました」
ぺこり、と勢いよく下げた頭を上げた時、香穂子の身体がぐらりと傾いだ。
「わーっ、だ、大丈夫ですかっ !?」
神崎は思わず手を出したが、それを掴まなければならないほどではなかったらしい。
「あ、あはは、大丈夫です、何度もすみません」
照れくさそうに笑う彼女は、まるで寝起きか酔っ払いのようにぽややんとした顔をしている。
実際さっきまで酔いつぶれて眠っていたらしいので、どちらも正解なのかもしれない。
「えと、神崎さんはいつまでこっちに?」
「明日の夕方の便で日本へ戻ります」
「じゃあ、明日のお昼ごろ、ちょっとお時間いただけませんか?」
「え?」
「ハンカチ、お返ししたいので」
「い、いえ、そこまでしていただかなくても! どうせ安物ですから処分してください!」
「まあまあ、そう言わずに」
香穂子は井戸端会議のおばさんのように顔の横でぴょこぴょこ動かしていた手を筆記具を握った形に変えた。
「えーと、書くもの書くもの……」
神崎はバッグの中からとりあえず取材用のメモ帳とボールペンを出し、最終ページの白紙部分を開いて香穂子に差し出した。
ありがとう、と受け取った香穂子はシュッシュッと線を引いていく。そのところどころに文字を書き加えてから神崎へと返した。
「ここでお待ちしてます。時間はえーと……11時半ということで」
それじゃ、と香穂子は頭を下げて去っていく。
神崎は彼女の後ろ姿と手元のメモ帳を交互に見比べながら、頭の中は真っ白になっていた。
── 意外というか、なんというか。
出会って以降ネガティブのどん底にいた彼女の儚げな姿と、何かしらの媒体を通しての『クラシック界の妖精・日野香穂子』しか知らないのだから仕方がない。
「……もしかして、日野香穂子って押しが強い…?」
ぽつりと呟く彼女は、香穂子がもっと押しの強い本物の妖精によって見い出されたヴァイオリニストであることを知る由もなかった。
* * * * *
香穂子と長身の男── 昨日の指揮コン優勝者・土浦梁太郎は一言二言囁き合う。
彼女が差し出したヴァイオリンケースを彼が受け取り、そのままスーツケースを引きずりカフェハウスの横の小道へ入って行った。
カフェハウスをぐるりと見回して空いたテーブルを見つけた香穂子は、ちょいちょい、と神崎に手招きして店に入っていく。訳がわからないまま神崎は香穂子についていった。
勧められるままに椅子に座る。
「あ、あの、今からお出かけになるんじゃないんですか…?」
尋ねると、香穂子は困ったような笑みを浮かべた。
「あー……いえ、リザ── マネージャーの家に置いてた荷物を取りに行ってただけですから」
きっとウィーンでの撮影の後、コンクールの祝賀パーティまでの間に大きな仕事があったのだろう、と神崎は推測した。
「あ、そうだ──」
香穂子は膝の上に置いたバッグの中から小さな紙袋を取り出し、テーブルの上に置いた。
「ハンカチです。昨日はありがとうございました」
真新しいショップの紙袋。明らかに、たった今どこかで調達してきました、と言わんばかりだ。
「あの……これ……」
「えと、そこのお店で買ってきたんです。お借りしたハンカチを昨日洗ったんですけどファンデが落ちなくて……必死にこすってたらケバケバになっちゃいまして……」
えへへ、と頭を掻きながら、安物ですけど、と香穂子は申し訳なさそうに苦笑している。
なんと律儀な人なのだろう。神崎は感動を覚えていた。
おそらくここで拒否しても、彼女は引くことはないだろう。素直に受け取っておくことにした。
「かえって気を遣わせてしまって申し訳ありません」
「いえ、昨日は本当に助かりました。ありがとうございます」
テーブルを挟んで頭を下げ合って。タイミングが同じだったのか、頭を上げると丁度香穂子と目が合った。ちょっと照れ臭くなって同時にへらりと笑い合う。
「── やあ、カホコ!」
突然声をかけられドキリとした。テーブルの傍にはいつの間にやって来たのか、若いウェイターが満面の笑みで立っている。
「しばらく見かけなかったけど、演奏旅行かい?」
「ううん、テレビの仕事」
ウェイターが差し出すメニューを受け取りながら、香穂子が笑う。
ドイツ語での会話をなんとか聞き取れた神崎は首を傾げた。普通、こういう時は直近の仕事の話をするのではないだろうか?
「へぇーっ、テレビ! 絶対見るよ! 放送はいつだい?」
「こっちじゃ無理かな。日本のテレビだし」
「そうかぁ、残念だなー。それはそうとリョウは一緒じゃないのかい?」
「荷物置きに帰ってるだけだから、すぐ来るよ」
「そりゃよかった。お祝い言いたくて待ってたんだ。コンクール優勝だって? よかったなー」
「えへへ、ありがと」
「ずっと頑張ってたもんなー。うん、本当によかった── んじゃ、リョウが来たら呼んでくれよ」
「うん」
別のテーブルから呼ばれ、人懐っこい笑顔のウェイターは自分の仕事へと戻っていった。
「── 常連、なんですか?」
今の打ち解けたやり取りを見ていてそう思い、ふと聞いてみた。
「はい、ウチがここのすぐ裏のアパートなんで、学生の頃からしょっちゅう」
ふふっ、と笑う香穂子。
そういえばスーツケースを引きずる彼は、このカフェハウスの横の小道を入って行ったっけ。荷物を置きに行った、と言っていたし、結婚を決めた二人は当然合鍵を持ち合う仲なのだ──
「ああっ、そうだっ! ご婚約、おめでとうございますっ」
「へっ? あ、あははー、ありがとうございますー」
ポッと赤く染まった頬を指先でポリポリと掻きながら照れ笑い。
「まあ今更って気もしないでもないんですけどねー」
「え?」
「こっち来た時からずっと一緒に暮らしてるし、変わるのは書類上のことだけでしょ? って、あー、それが一番大きいのかぁ………
あ、今度誰かに会った時は『いつも主人がお世話になってます』とか言っちゃうわけ? やーん、照れるぅ♥」
すっかり自分の世界に入ってしまった香穂子は両手で頬を押えてモジモジと身体をくねらせて。その左手の薬指にはダイヤの指輪が光っている。
神崎の中で『クラシック界の妖精・日野香穂子』像がガラガラと音を立てて崩れ始めていた。
茫然自失状態を打ち破ったのは、どこからか聞こえてきた電子音。香穂子の携帯だった。
「── はーい、久し振りー! ── うん、大丈夫── えっ、ほんと !? ……うん……うん、おいでよ! じゃ、待ってるね!」
嬉しそうに日本語でしゃべっていた香穂子が通話を終えた携帯をバッグへ戻す。
その時、店の入り口辺りがざわめいた。
見ればさっきのウェイターが遅れて到着した梁太郎にひしと抱きついているところだった。
喜びいっぱいのウェイターに対し、嬉しさ半分迷惑そうに相手を引きはがそうと必死になる梁太郎の姿が笑いを誘う。
神崎はそっと椅子から立ち上がった。気づいた香穂子が不思議そうな顔で見上げてくる。
「── 私はこれで失礼します」
「ええっ !? 飛行機の時間、まだですよね? お昼ごちそうしようと思ってたのに……少々強引な取材もOKですよ? 慣れてますから」
とても魅力的な申し出だった。有名な音楽家と、これから有名になるであろう音楽家と昼食を共にできる機会なんてそうそうあるものではない。更には直々に取材許可まで。
だが、ここにいる彼女は「ヴァイオリニスト・日野香穂子」ではなく、婚約ホヤホヤの幸せいっぱいな一人の女性なのだ。このカフェも彼女のプライベートの一部。
決して興味がないわけではないが、興味本位で足を踏み入れていい場所ではないような気がした。
「日本に帰ったらすぐ、正式に取材の申し込みをします。請けていただけますか?」
香穂子は見開いた大きな目をパチパチと瞬かせた後、ニッコリと笑った。
「もちろんです!」
深々と頭を下げて、店を出る。じゃれ合う男ふたりの横を通り抜ける時に軽く会釈をしたが、おそらく気づいていないだろう。
チェックアウトはしたが荷物を預かってもらっているホテルへと戻る道すがら、神崎は自分が笑っていることに気がついた。
きっとあのふたりは傍から見てとても微笑ましい夫婦になるのだろう。
── でも、ちょっとカッコつけすぎちゃったかな。
ランチのお誘いも、取材許可も、惜しいことをしたのかもしれない。
だが不思議と後悔はしていなかった。
次に会った時は長い同棲生活について突っ込んでやろう、とゴシップ記者精神丸出しでほくそ笑んだ。
* * * * *
ようやくウェイターから解放され、注文を済ませて落ち着いたところで梁太郎がきょろきょろと店内を見回した。
「── あれ? さっきのヤツは?」
「帰っちゃった。今度正式に取材させてくれ、って」
「へー……そういうヤツもいるんだな。記者ってのはみんな天羽みたいなヤツばっかりかと思ってたが」
「その天羽ちゃんなんだけど、明日来るって」
「は?」
「今ドイツで取材中で、今日中に終わるからって。さっき電話があったんだ♪」
「はぁ !? ………マジかよ」
明日は根掘り葉掘りの質問攻めに遭うことになりそうだ── ニコニコと嬉しそうな香穂子の顔を一瞥し、梁太郎はズキズキと痛み始めた頭を抱え込んだ。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
指揮コン翌日。
時間がかかった割に中身のない話だ……
【2009/12/08 up】