■土浦梁太郎の決意【おまけ2】
なんとなく、落ち着かなかった。
久しぶりに戻ってきた自宅アパート。
経過した時間の長さを言うなら、もっと長く留守にしていたことは何度もある。
なのにどこか違う風景に見えた。気持ちひとつでここまで違うなんて。
香穂子はくすりと笑みを漏らす。
落ち着かないのにはもうひとつ理由があった。
彼女の左手は彼の膝の上で、梁太郎の両手に捕えられていた。
存在を確かめるように動く指先が、何度となく薬指の根元を探る。くすぐったさに手をひっこめたくなるが、両手でがっちりと包まれていて逃げ出せない。
彼の指の動きに合わせて薬指の根元を硬い感触がくるくると回った。別の硬さが中指と小指を行ったり来たり。だんだん心までくすぐったいような気分になってきた。
「── なんか妙な感じだな」
人の手をぺたぺた触りながら『妙』とは何よ。心の中で毒づいた。
と、梁太郎は右手を自分の左胸にそっと当てた。
「……ずっとここにあったんだ」
「え…?」
「コンクールの間、何かあるたびに輪っかの感触を確かめてた── 祈るように」
すっかり癖になっちまった、と自嘲めいた笑みを浮かべる梁太郎。
「なんにせよ、お前に渡せてよかった」
ずっと握られていた左手をくいっと引っ張られ、彼の胸に倒れ込んだ。ふんわりと包んでくる腕に徐々に力が籠ってきて、痛いくらいに抱きしめられる。
「── 結局、俺の心の拠り所はいつもお前なんだよな」
吐息混じりの呟きに心が震えた。涙が零れそうになる。彼のシャツの背中をぎゅっと握りしめた。
「……優勝のお祝い、しなきゃね」
「ああ、サンキュ………近いうちに日本に帰ろうぜ── きっちり挨拶しにさ」
「その前に、きっちりお説教が待ってるよ。明日リザのとこに荷物取りに行ったら」
「……もうガツンと言われた。お前のマネージャー、おっかねーなー」
「そう? できる女、って感じでかっこいいでしょ」
「……ああいうタイプ、好きだもんな、お前」
くすくす笑う声も、小さな囁きも、直接身体に響いてくるのがとても心地よかった。
しばらくこの心地よさに身を任せていたいと思った。
けれど。
ぐぅー
遠くで轟く雷鳴のような。
いや、実際は梁太郎の腹の虫の悲鳴である。
香穂子は首をぐいっと反らして彼の顔を見上げた。
「え、もうお腹減ったの?」
「あのな……腹いっぱい食って酔いつぶれたお前と違って、俺はほとんど食ってないんだよっ」
いろいろ話しかけられるし、挨拶もしなきゃなんねーし、と拗ねたようにブツブツ呟いて。
「── 挙句の果てには名の知れた誰かさんが乱入してくるし」
「あ……ごめん。何か食べに行く? そこのカフェハウス、まだ開いてたし」
「いや、あり合わせで作る」
「私も食べたい!」
「はぁ? まだ食うのか?」
「一口だけ。ね?」
香穂子は甘えるように彼の胸に額を擦り付ける。
「うふっ、梁の作るごはん、久しぶりだなー」
「…お、おう……んじゃ、作るとするか」
名残を惜しむようにぎゅっと強く抱きしめられた後、身体が心地よい圧力から解放された。
少し寂しい気もしたが、それでもまだ暖かな何かに包まれているような気がする。
なんとなく目で追っていたキッチンに立つ彼の背中から、自分の左手に視線を移した。
なんだかんだでまだじっくり見ていなかった、約束の指輪。
手の角度を変えれば透明な石がキラリと光る。
ずっと彼の胸元で、彼の一世一代の大勝負を見守ってきたもの。
彼の強い決意を表すように一際輝きを増したように見えて、香穂子はいとおしむように左手を指輪ごと胸に抱きしめた。
〜おしまい〜
【プチあとがき】
パーティお開き後。
意外とあっさり?
【2009/12/02 up】