■土浦梁太郎の決意【おまけ1】 土浦

「── どうやら丸く納まったようだな」
「ん〜ん」
 おそらく『まあね』と言いたいのだろう。口いっぱいに木の実を頬張ったリスのような顔をへにゃりと綻ばせる彼女に、月森は複雑な思いの詰まった溜息を吐いた。

 祝賀パーティに現れた有名ヴァイオリニスト。 その彼女をパーティの主役である優勝者が躾のなっていない飼い犬を引きずるようにして連れ出してしまったのだから騒ぎにならないはずもなく。
 こっそり彼らの様子を見に行った誰かが戻ってくるなり『あの二人、婚約したらしいぞ!』と叫ぶや否や、半狂乱のお祭り騒ぎに発展していった。
 そして、主役不在にも関わらず盛り上がる会場に当の本人たちがしっかりと手を繋いで戻ってきたのだから、その後の騒ぎは推して知るべし。 コンクールはどこへやら、すっかり彼らの婚約披露パーティと化してしまったのである。
 とはいえこの場に居合わせた双方の事務所の人間── 月森のマネージャー・ロイと梁太郎のコンクールを見届けるために来ていた事務所スタッフ── 二人が奮闘し、 詳細は後日正式発表するということで騒ぎはなんとか沈静化したのだが。
 その後、事務所スタッフに連行されていった梁太郎は今頃どこかで尋問されているのだろう。今後の対応を考えるために。
 会場に残された香穂子はロイの決死の一人バリケードによって記者たちから守られ、並べられた料理に目を輝かせていた。
「最近あんまり食べてなかったから、お腹空いちゃった〜」
 そう言ってヘラリと笑った彼女は、周囲からの好奇の目を気にすることなく一流ホテルの料理をがっつき始めたのである。
 皿を持つ彼女の左手に、月森はキラリと光るものを見つけた。
 ── そして冒頭の会話へと戻る。

「── 今回の騒動の原因は、それか?」
 もぐもぐこくん、と口の中のものを飲み下した香穂子は不本意そうに眉根を寄せ、
「騒動、って……まあ、そうなるのかな── あれ? 私、月森くんに話したっけ?」
「リザから少し……君が眠り込んでしまった時だ。土浦の人となりを尋ねられた」
「う……そっか……ご迷惑をおかけしました」
 バツが悪そうに顔を歪めた彼女は、殊勝にぺこりと頭を下げた。
 と、彼女の身体がぐっと傾ぐ。
「うわっ !? リ、リザ…?」
 怖い顔をしたマネージャー・リザが彼女の腕を横から引っ張ったのである。
「ど、どしたの?」
「『カホコがコンクールの優勝者に連れ去られた!』ってロイから電話があったから慌てて来たのよ!
って、カホコ、あなた何て顔してるの!」
「えっ !?」
 香穂子はフォークを握ったまま、手の甲を頬に当てる。
「メイク、ぐちゃぐちゃじゃない!」
「えっ、あ、そ、そうかも…」
 リザは香穂子の手から皿を取り上げるとテーブルの上に放るように置き、ちょっといらっしゃい、と引きずっていく。行き先はおそらく化粧室だろう。
 今日の彼女は何度引きずられればいいのだろうか、と月森は苦笑した。

*  *  *  *  *

 香穂子が姿を消して少し経つと、事務所スタッフからの事情聴取を終えた梁太郎が戻ってきた。
「……みっともないとこ見せちまったな」
「いや……『おめでとう』でいいのか?」
「ま、まあ……そういう、こと、に、なるかな」
 しどろもどろになって頭を掻く梁太郎は耳まで赤く染まっていた。
 近寄ってきたウェイターが持っているトレイからグラスをひとつ取り上げて、一口口に含む。中の氷がカラリと涼やかな音を立てた。
 そんな彼がはっと気づいたように辺りを見回し始めた。何を探しているのかなんて一目瞭然だった。
「彼女なら化粧を直しに行っている」
「そ、そうか」
 あからさまにほっとした表情になる梁太郎。またも月森の顔に苦笑が浮かぶ。
 そこにメイク直しを済ませた香穂子が戻ってきた。
「あ、スタッフさんのお話は終わったの?」
「今日のところは、な。また後日ってことになった」
 そっか、と笑った香穂子が向かったのは彼の傍ではなく、並べられた料理のところだった。 彼女が離れている間に片付けられてしまった皿の代わりに新しい皿を取り、嬉々としてその上に料理を次々乗せていく。
「おい、あんまりがっつくなよ……みっともねぇ」
「ふん、誰のせいでずっと食べられなかったと思ってるのよ。それに、食べていけ、って言ったのは梁でしょ」
 蕩けるような幸せそうな顔で、器用に折りたたんでフォークに刺したローストビーフをパクリと頬張って。
「ん〜っ、おいひいっ! 肉汁が胃に沁みるっ!」
 見事なまでの早さで皿の上の料理が彼女の胃に収まっていく。その様子を何とも言えない柔らかい眼差しで見ている梁太郎。
「水を差すようで悪いが──」
 月森がぽつりと呟く。
「んあ?」
「ん?」
 二人同時に反応し、視線が集まった。
「── 君たちの痴話喧嘩に俺を巻き込むのは、金輪際やめてくれ」
 ごふっ!
 まだ口の中に食べ物を入れていた香穂子がむせた。
 梁太郎はげほげほと咳込む彼女から皿を取り上げテーブルに置くと、背中をさすってやる。
「お、おい、大丈夫か !?」
 咳込むあまり言葉にならず、こくこくと頷きながら、香穂子はがしっと梁太郎の手を掴んだ。次の瞬間、彼が持っていたグラスを彼の手ごと両手で包み込んで、中身を一気に飲み干したのである。
「なっ !? バ、バカっ! これ酒だぞっ!」
 え?、と目を見開いた彼女の姿がすっと掻き消えた。
 いや、その場に崩れ落ちていたのだ。
「……ったく、またかよ」
 彼は空のグラスをテーブルに置いてしゃがみ込み、糸の切れたマリオネットのような彼女の身体を自分の肩に凭れさせた。よっ、と掛け声ひとつ、軽々と立ち上がる。
「── ちょっと休ませてくる」
 そう言ってざわめきの中フロアの隅に向かう彼の背で、無造作に荷物のように肩に担がれた彼女の腕と髪がゆらゆらと揺れていた。
 体力的なことだけではなく、精神的に彼女に最も近い彼だからこそできる行為なのだ、と月森は思った。

*  *  *  *  *

 壁際に置いてあった椅子を並べて香穂子を横たえて。
 いくら彼女がアルコールに弱いとはいえ、たった1杯で落ちてしまうほど消耗させていたことに胸の痛みを覚えた。
「── ここはいいから、あなたはあなたの仕事をなさい」
 いきなり背後から声を掛けられ、ドキリとして振り返る。
 いつの間にいたのか、そこには不機嫌そうに眉間に皺を寄せたモデル風の金髪美女がいた。腕を組み、ほとんど睨みつけるような視線はグサグサと突き刺さりそうなほどに鋭い。
「あ、あの」
「私は彼女のマネージャーです」
「あ……ご迷惑を、おかけしました。その、明日、伺おうと──」
 金髪美女は、ふんっ、と鼻を鳴らしてツカツカと近づいてくる。突っ立っている梁太郎を押しのけるようにして通り過ぎ、寝ている香穂子の側にしゃがみ込んだ。
「聞こえなかったのかしら? ここにいる有力者たちに顔を売っておくのが今のあなたの仕事じゃないの?」
 ── うわ、おっかねぇ。
 厳しい口調に梁太郎は心の中で思わず呟いた。
 が、香穂子の頬をそっと撫で、乱れた髪を撫でつけてやっている彼女の手はとても優しく見えた。
 大切にされているのだ、と思った。
 梁太郎は彼女の背に無言で深く頭を下げると踵を返す。
 どうやらあいつはキャリアウーマンタイプの強い女性に気に入られる性質らしい。
 あんなおっかない女になってくれるなよ、と願いながらも、元々彼女は強い女だったと思い出した。そんな彼女が弱さを見せるのは自分が絡んだ時だけだ、と自惚れる。
 ふっと笑みを浮かべた梁太郎は歓談中の音楽界の重鎮たちに挨拶すべく足を進めた。

〜おしまい〜

【プチあとがき】
 その後のパーティ会場。
 後日談、数本続きます。たぶん。

【2009/11/25 up】